相原正明の個人オフィスのホームページです

2021年4月~2022年3月

心象スケッチ 2021年4月~2022年3月

2022(R4).3.31 ―お礼の手紙―(第107号)

令和4年2月28日付でK氏に、ご著書の贈呈に対するお礼の手紙を書いた。この本はこの年1月に出版されたもので、令和元年9月に80年の生涯を閉じられた奥様を偲び、認知症の経過、介護施設入所、病院入院、遂に逝去の流れの中で奥様との心の交流を中心に、限りない感謝の気持ちを込めて書き記したものである。
手紙は次のような内容である(一部原文修正)。

謹啓 明日から弥生3月となるこの日、春の陽気も少し感じられるところですがいかがお過ごしですか。
常日頃暖かくご指導いただき感謝いたしておりますところに、この度貴重なご著書を頂戴し恐縮し重ねて御礼申し上げます。
さきにメールで申しました通り、しっかり読ませていただいた後、感想を述べてみたいと思った次第です。
また、メールではなく手紙としたのは、現在昔のそれを読み、感動しながら改めて肉筆の手紙の威力を感じたからです。昔の手紙とは、およそ五十数年前に、私の祖父母に届いた私自身も含む家族、親類などからの日常的連絡を中心とする、まるで隣の部屋からその声が聞こえて来そうな生き生きとしたものです。私の父が生前に自らの父母(私からみて祖父母)の遺品として残しておいてくれたものです。

さて本題です。
最後まで読んでみまして、「転倒・骨折・寝たきり」の章までは辛いお気持ちが伝わり、読む側も同じ思いになりました。それでも次の「『なれそめ』からの日々」の章以降は、春の日差しを浴びている 心地となりました。
まずもって表紙の写真と本の帯に書かれた詩のような文章に引き付けられました。読み終わってもここに戻るような気持ちとなり、これが先生のこの本を貫く芯と感じました。高村光太郎が思い続けた 智恵子のように、奥様が佇んでいました。
先生は一貫して「ごめんね」の心底で著述されており、痛いほどその想いが伝わってきました。そのとおりであろうと思いますし、一方「ありがとう」にも感じましたし、おそらく奥様の方も同じお気持ちだったのではないでしょうか。

ご本を読ませていただいて、かけがえのない人に対して誠意を示すということは、その人に心を寄せ続け、共に過ごす時間をできるだけ取り続けることであると再認識させていただいた次第です。
また、このご著書は、奥様の生きた証を広くかつ後の世にまで残すことにもなったと思います。奥様孝行ともなったのではないでしょうか。

おわりに先生のお苦しみお悲しみの気持ちをお察ししながらも、奥様との幸せな人生を振り返られつつ、お心を安らかに保っていただき、さらにお元気でご活躍・お過ごしなされますよう念願しております。
改めて御礼申し上げ、ご自愛をお祈りいたします。
敬具
令和4年2月28日
相原 正明

この手紙はパソコンで下書きしたものを万年筆で書き、白い封筒に入れた。このような手書きの文書は、書き手の人柄や想いがにじみ出るものである。何十年、何百年経っても変わらぬ光を発すると思う。私自身、おそらくこのような形でしっかり手書きしたのは二十年ぶりと記憶するが、良い仕事をしたような気がした。

2022(R4).2.28 ―市議選の季節―(第106号)

令和4年3月6日(日)は、奥州市長選挙と奥州市議選の投開票日である。その1週間前の2月27日(日) が告示日となる。その日に向って各立候補予定者は万全の準備を整え、支持拡大に全力を尽くす。告示日には既に勝敗の大勢が決していると言っても過言ではない。
今回私は、自分自身の選挙を含めてお世話になった方々を中心に、市議選候補者の応援をすることにした。

1月10日(月。祝日)には、市議3期目に挑戦するO氏の後援会事務所開きに出席し、初代奥州市長の肩書の下、次のような祝辞を述べた。
①  Oさんは、期待に違わず立派に市議8年を勤めてこられました。毎議会一般質問に登壇し、市政の重要課題を取り上げ市政を糾してこられました。(中略)中でも大事な課題については、4回5回と繰り返し取り上げています。私は市長として質問を受ける立場でしたが、同じテーマで何回も迫られると本気度が分かりますし、言葉の彩でいわゆる逃げの答弁ができにくくなり、真剣勝負となってきます。これが市政を動かすことにつながると思います。

②  また地元の課題にも地域民の声と心を汲んで、最大級の力を尽くしてこられました。○○という難問に立ち向かいその重い扉をこじ開ける運動に大きく貢献されました。地元にとってなくてはならない市議会議員であることを身をもって証明されました。

③  奥州市は再び一関市を抜いて県下第二の人口を抱え、県とともに地域をリードする存在ですが、○○問題でのつまづきなど未だ十分な力を発揮できない現状にあります。民間経営者としての感覚と市議8年で蓄えられた政治行政の識見を持つO議員への期待はますます高まっていると思います。

その告示日が2月27日に迫る中、出陣式向けの激励(お祝い)レタックスを8人の立候補予定者に発出。
奥州市江刺地域の方々が大部分で、「元江刺市長・初代奥州市長」名義とする。文面は相手によって多少異なるが、字数はレタックスのルールでほぼ同じ。
ある新人候補には次のとおり。
○○(氏名)奥州市議選立候補者の出陣に当たり激励とお祝いを申し上げます
○○さんの持続可能な農業振興や人口減少に立ち向かう元気の出る地域づくりへの情熱・識見に敬服し大いに期待しております
奥州市議会議員としてまさに適任であり、必ずや当選され、市議会に新しい風を起こしつつ、ご活躍されますよう、心からお祈りいたします
令和4年2月27日
元江刺市長・初代奥州市長 相原 正明

結果は、定数28人に対して同数の立候補者となり、全員無投票当選であった。
今後のそれぞれのご活躍に大いに期待したい。

 

2022(R4).1.31 ―俳句はやはり生涯の友―(第105号)

岩手県俳人協会会員作品集(令和2年度)

同 左

つばくらめ(ツバメ)

1.15(土)現代俳句協会のインターネット句会に投句していた(無料)2句が、珍しいことに2句とも選に入った(参加者の互選)。
毎月1回のチャンス(2句投句)だが、昨年は12回投句して6回は全滅であった。下に述べるように毎年岩手県俳人協会に出す10句(出したも のがそのまま載る)の候補として重要な句でもある。選句者は参加者それぞれではあるが、率直に嬉しい。次の2句である。
あっちゃ行く薬ないかと日向ぼこ(2人選)
川の字にともに初夢孫娘(1人選)

上の句には一人から「まさに至言」、もう一人から「誰も黄泉の国へ行ける薬を渇望するものだ。軽妙な表現がかえって事の深刻さを際立たせる」とのコメントが寄せられた。下の句にも一人から「微笑ましいですね」と感想があった。

およそ1年前の心象スケッチ「俳句を始めた頃」(2021.2.28第94号)に記載したようにこの入選句を1年分かき集めて毎年9月末締め切りの岩手県俳人協会への10句の提出句とするのである。
令和3年9月は次の10句となった。題名は「つばくらめ」である。
カッコ内に作者(自分)の軽いコメントを付す。春夏秋冬の順であり、番号は整理番号である。

①意識なき母に代わりて賀状書く
(コメント)平成27年6月に脳梗塞で倒れて半年ほどして意識のない状態となった。毎年届く母への賀状に代筆の形で返信を書く。

②千里来る燕想いて釘を打つ
(コメント)平成の終わりころからツバメが1羽ではあるが(つがい成立せず)毎年訪れるようになった。この年も待ちこがれている。

③千里来て鴨居に立ちし燕かな
(コメント)そのツバメが遂に来て、足を踏ん張り胸を張っている。

④幸せのため息もあり夏木立
(コメント)ラジオから「幸せのため息」との言葉を聞き、句にした。

⑤軽き嘘直さぬままに墓洗う
(コメント)お墓の下には本物のお骨があり、仏様が眠っている。仏様は御見通しであろうとの句意。

⑥寂しいは自己中心と秋ラジオ
(コメント)面白い悟りと思った。そう感じて句を拾ってくれた人有り。

⑦水澄んで微動だにせぬ魚かな
(コメント)客観写生の句。

⑧降る雪や心田に落ち消えにけり
(コメント)静かにもの思いにふけっていた時、ゆっくりと雪が舞い降り、やがて地面に消えた。まるで心の底に落ちたかのように。

⑨ジャスミンのお茶に合う窓今朝の雪
(コメント)ジャスミン茶の香りと味が気に入っている。たまにティーカップに注いで嗜む。ふと窓を見ると今朝の雪が 窓に残って風情を作っている。

⑩半畳の夫の遺影に冬日差し
(コメント)知人が逝去され、しばらくしてそのお宅を用務で訪問した。すると半畳ほどもある大きな生前の写真(何かのイベントで使用したもの)が居間にあり、奥様とその前で話した時のこと。

2021(R3).12.31 ―芦東山(あしとうざん)に想う―(第104号)

芦東山(あしとうざん)

司馬遷(しばせん)

12月4日(土) 奥州市水沢のプラザイン水沢でNPO法人いわて未来研の講演会があった。講師は私の大学同級生でもあり、一関市立記念館館長、東北大学名誉教授の吉田正志氏である。演題は、「芦東山と被差別民との交流」であるが、前段で芦東山とは何者かの解説もいただいた。

芦東山は元禄9年(1696)仙台藩磐井郡東山渋民(現一関市大東町渋民)に生まれた。幼い頃から学問に励み、仙台藩儒学者として仕えた。藩政に関する考えを上言(「七か条の上言」)し、元文2年(1737)には講堂座列に関する願書を出した結果、評定所より処罰され、23年間幽閉生活を余儀なくされた。その間、我が国の刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』18巻を執筆した。農家出身であった芦東山は、常に庶民・弱者の擁護を念頭に置き、幽閉中に記した『二十二か条の上言』などに見られるように人間愛と儒者としての信念に基づいた卓越した識見の持ち主であった。

郷土の偉人であるが、自己の信念に正直に直言したことで、有為な人材があたら遠隔の地に配流される結果となった。心が痛んだ。客観的に見れば当時の仙台藩の大きな損失ではなかったか。
このようなことは古今東西に多数存すると感ずるが、例えば青少年にはどう評価して教えるべきであろうか。どんな不遇な目に合おうが誰に対しても正しいと思うことをはっきり言うべきとするか、それとも人間社会の現実をよく見て熟慮し悔いのない行動をとるべしとするだろうか。

ただし、結果的にはその長い苦境の時をバネにするようにして、後世に残る著作を残し、名も残した。もし仙台藩の儒学者として順調な出世をとげていれば歴史に名を刻むこともなかったかもしれない。
ここまで記して私の尊敬する司馬遷(紀元前145ころ〜前86ころ)を思い起こした。中国前漢時代の歴史家で、あの偉大な歴史書『史記』の著者である。太史令(天文現象を観測して暦法を推算する職務)の時、武将李陵が匈奴に降った事件に関し、李陵を弁護して皇帝武帝の怒りを買い宮刑(死刑に次ぐ重い刑罰で、男子は去勢される)に処せられた。大変な屈辱だった。彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも男性の誇りを奪う宮刑は最低なものだと言い、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べたという。しかし、ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走らず、この逆境を踏み台にするかのように遂に大著『史記』を完成させたのであった。

己の信念に従った言動がもたらした現世の不幸な境遇、しかしむしろそれを力にして成し遂げた歴史に名を残すような大仕事の達成。
子や孫にこのような話をどう伝え、いかなる感想を語るべきか、熟慮を要する。
誰だ! 血圧が心配だからそんな考えもやめなさいと言うのは!?

2021(R3).11.30 ―たちまちEU(欧州連合)ファンとなる―(第103号)

EU (緑…加盟国25カ国、青…加盟候補国3か国、茶…その他の候補国2か国)

オーストラリア国チロル地方の新聞に掲載された奥州市訪問団

今回もNPO法人いわて未来研会報の話題が切り口となる。年4回の会報ごとに中心テーマを決めているが、今号は「外交」がそのテーマの一つであった。いつものようにその分野のしかるべき人に執筆いただいたり、こちらで取材してまとめるというプロセスとなるが、今回は地方都市の悲しさ、地方自治体の手の届かない国家外交分野ということではたと困った。

考えているうちに大学の授業でそれに近い分野はないか、あればその先生にお願いしてお話をお聞きする、あるいはしかるべき人を紹介いただくことができるのではないかと思考が回転した。様々な分野でお世話になっている岩手県立大学総合政策学部の教授陣名簿を見たらあった、あった。国際関係学講師上原史子さんである。
知り合いの同大学幹部に紹介いただき、早速メールと電話で接触してみた。

全くの初対面ではあるが共通する面もあった。上原さんはオーストリアのウィーンに留学していたが、私も江刺市長・奥州市長時代にオーストリアの姉妹都市ロイテ市・ヴライデンヴァング市と交流があり、平成20年には奥州市長として両市を訪問し、帰途ウイーンにも立ち寄っていた。後日上原さんにお会いしてからのことであるが、その訪問時に地元チロル地方の新聞に訪問団長として写真入りで記事が掲載されており、上原さんがそれに興味を持ちコピーを所望するという一幕もあった。

ところで私のEU(欧州連合)に対する認識は、何ともお寒いもので、ヨーロッパ各国が経済中心に都合の良い部分で作っている緩やかな共通ルールのような印象程度であった。このため上原講師から頂いた資料をまっさらな心地で読むことができた。感動的な出だしがあった。

フランスのコニャック商人、ジャン・モネが、長年にわたり戦争を繰り返してきたドイツとフランスが二度と戦争をしないような仕組みをつくるべく尽力し、モネの提案に沿う形でフランスのロベール・シューマン外相が、1950年、戦争に不可欠となる材料である石炭と鉄鋼の生産をドイツ・フランスさらにはその他ヨーロッパ諸国で共同管理することを提案した。この共同管理機関は国家を超える枠組みとなり、ヨーロッパの経済復興のみならず加盟国間の戦争回避システムとなることが期待された。

こうしてECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足し、その後EEC(欧州経済共同体)とEURATOM(欧州原子力共同体)も発足し、やがて1967年にこの三共同体がEC(ヨーロッパ共同体)と総称され、1993年には現在のEUが誕生したのである。

第一次、第二次の悲惨な世界大戦の主要な戦場であったヨーロッパを何とか戦争のない平和な地帯にしようという高邁な理想、しかも一私人の立場(実はジャン・モネは元国際連盟事務次長、欧州石炭鉄鋼共同体の最高機関(後の欧州委員会)の初代委員長を務める人物であり、欧州統合の父とも呼ばれる)での想いと行動からスタートしたという感動の物語である。
単純な私(?)は一気にEUファンとなってしまったようだ。

 

2021(R3).10.31 ―足るを知る―(第102号)

龍安寺茶室のつくばい(デザイン)

松原泰道師(1907-2009)

えびす神

私が代表を勤めるNPO法人いわて未来研(いわて未来政策・政経研究会)では年4回会報(A4版16~18ページ)を260部ほど発行し、会員のほか県や市の政策担当部門、県立図書館ほかの図書館、報道機関等に配付している。
同法人の事務局長役でもある私は、全体を編集し、最後に編集後記を記載する。
実はこの内容に心血を注いでいる。1週間程度前には内容を考え始め、400字の中に心に響く言葉を入れ込もうとする。
今回はたまたまその頃、1階の事務所本棚に飾ってあった「禅のこころに学ぶ日々好日」(松原泰道 著)を見つけ、昼食後に読み始めていた。最終頁にメモで「H3.3.5」とあるので30年も前に一度読んでいた本である。おそらく当時県庁に通うバスの中で毎朝読んだものと思う。あちこちの頁の端が織り込んであった(自分が読書の際に印象深い箇所の頁をそのようにしていた)。
その中に「足るを知る」という項目があり、面白い事例を挙げながら説得する話に強く引かれた。私自身古稀を過ぎた身ながらまだまだ悟りきれない―少なくとも第一次的な感情部分において―事態に愕然とすることがあり、自分にとっても有用な話しと思った。
以下賞味して頂きたい。

●編集後記
石庭で有名な龍安寺(京都)の茶室の入り口に蹲踞(つくばい)があります。茶室に入る時手を洗い、口をすすぐものですが、龍安寺のものには右上のデザインの様に水の溜まる四角い穴の周りに文字があります。穴の形を「口」の字に見立てて、「吾れ唯足ることを知る」と読みます。
ある高僧は、七福神のえびす神の絵を書き、その賛(ほめたたえること)に「足るを知るは福の神 二匹釣るえびすなければ」(注:えびすは常に鯛一匹のみを持っている。)と記しました。
著名な禅僧松原泰道師は、この二つの話を挙げながら「足ることを知るというのは、人間だけが持つ英知で一番大切なことでしょう」と述べています。
政治・政策の世界においても、近年国民・住民の総幸福量を指標化して追求する姿が見られます。足りない施策を糾し求めるとともに、こうした心の持ち方・あり方についても認識を深め、大きな観点で総合判断することも大切と感じました。(相原)

 

2021(R3).9.30 ― 私と日記 ― (第101号)

歴代の日記ノート

日記を付け始めて間もなくの頃、二人の息子と(1982.4.25)

日記は、高校・大学の時ほぼ毎日書いていた記憶である。高校時代は国語力をつけるためだったと記憶する。大学入試が近づいていた頃の全国模試で国語が全国二十何位ということがあったが、この習慣のお蔭だったかもしれない。
県庁就職の頃からその良い習慣を止めてしまったうえ、結婚を機になんとその大切な日記を捨ててしまった。すべてを一新しようとしたかもしれない。今考えると大事な記録を失い大変悔やまれることであった。

その後、1980(昭和55)年8月20日に「康正(私の長男)、初めて父のことを「おとしゃん」と言う。」と記した日記を始めた。ただし、当時は毎日ではなかった。
1981(昭和56)年3月頃からは毎日付け出したが、内容としては出来事を記す程度であった。
滝沢村の助役時代の1993(平成5)年1月からは、日経新聞に載った福田赳夫元首相の日記の付け方を参考にして、「新日記」と題し、心に浮かんだことを積極的に記すことにした。その日記帳には気負いでマル秘と印してある。
この日記は、10年余続き、江刺市長選挙に出るために県庁を辞する平成14年9月5日で終わっている。県庁幹部の激務の中でよく毎日続けることができたと我ながら感心もするが、土日に1週間分まとめてであったと記憶する。
選挙を経て市長に就任してからは、ホームページ、メルマガなどで執筆活動は続けながらも日記を振り返ることはなかった。
平成26年度に入って、特に滝沢村助役時代の日記に目を落とす中で、実に生き生きとして面白いと感ずるようになった。これは近いうちに(己が元気なうちに)小説化するか小説家に材料として送って小説にして頂こうかなどと思った。
さらに、日記を再開して自分の精神に終生対面してはどうかと考えた。その途端パソコンキーボード上の指が動き出した。平成27年3月31日のことである。
勢い良くスタートした日記であり、毎日欠かさず事実や感想を綴ることができたが、1年11ケ月ほど経過した平成29年2月26日に息切れするかのように終わっている。私の満70歳の誕生日(3月1日)の直前、あの斎藤実内大臣ほかが暗殺された1936年(昭和11年)の二・二六事件と同じ日である。今思えば残念な経過でもあるが、60代最後の貴重な記録となった。

この日記を最近読み返し、令和3年9月21日に読了した。感想はミニ心象スケッチ風で我ながらとても良くできていた。出来事は毎年の手帳にもあるが、この日記は心の日記でもあり、当時の息遣いが聞こえるようである。
やはりこうした日記は必要だと強く感じた。一方ではまだまだ仕事等に追われる日々に毎日記すスタイルはきついであろうと思った。そこで1週間に1回程度、心に残ることを中心に手短に記すのはどうかと思い至った。名前も「週刊日記」としてみた。
令和3年10月1日から再スタートである。何歳まで続けることができるか、果たしてこれを読むのは本人か、子孫か。

 

2021(R3).8.31 ― 西念寺山門の高張提灯 ― (第100号)

西念寺山門と高張提灯

高張提灯の表(左側)と裏(右側)

お盆の時節に至り我が地域の代表的な寺院西念寺の山門に新しい提灯がお目見えした。白い和紙が目にまばゆい一対の高張提灯で、表側に曹洞宗の紋が、裏側に施主の名前が書きこまれている。提灯張りの技術はあの浅草雷門の提灯のそれを取り入れ、書体は靖国神社の諸表示を担っている方の手によるものとのことで(納入業者の説明)、雨が当たっても長持ちするよう撥水加工仕上げとなっている。

なぜこのように詳しいかというと、実は施主が私なのである。具体的にいつからなのかは不明であるが、この提灯の前の施主は父正毅であった。長年お寺の檀家総代を勤めたご縁からかもしれない(ご住職も不詳とのこと)。その父が令和元年末に逝去したことから寺側と相談しようと思い、令和3年に入って私の方から加藤隆喜和尚に相談したのであった。
結果は、引き続き私の家で提灯の施主となり、新しいものを和尚さんから業者に発注することになった。
7月には提灯納品となり、8月のお盆の時期から山門に吊るされ、夕刻には電気による明かりが灯ることになった。

やれやれこれで一件落着と思い、しばらくして自宅で父の古い書箱を覗いた時であった。当該山門の平成19年10月28日の落慶式の奥州市長名の祝辞文が出てきたのだ。
「(前略)当山は、その草創の歴史は古くこの地方の仏教文化の伝統を伝える中心地でもあります。承れば、山門はその由来や建立年は不詳で、老朽化の一途をたどり危険な状態にあったとのことであります。
このことを受けて改修のことが企画されるや、ご住職のご尽力と檀信徒の熱意と協力により浄財も積もり、また、建築設計に当たっては、当山の歴史に鑑み、薬医門形式を導入して優美さを生かし、堅牢な材質を以て施工し完成されました。(中略)平成19年10月28日奥州市長相原正明」
当時の手帳を見たらこの祝賀行事のことは書いてあったが、私自身は他用務に向かい、本行事の方は代理出席(祝辞代読)となったようであった。

この山門とはご縁で結ばれていたようであり、山門に添える花のような高張提灯の施主となることも自然な流れであったかもしれない。

 

2021(R3).7.31 ― 選挙用看板に敬礼 ― (第99号)

お別れした選挙用看板(人物は孫2人)

2010(H22)に活用していた様子

盛岡の家に保管していた箪笥の一部を江刺の自宅に移す話が起こったことで、ある意味大騒動となってきた。当然ながら、それらを収めるスペースが必要となるが、実はないのである。母屋も事務所スペース(昔は納屋)も倉も祖父母・父母時代からの由緒ある品々や本・書類の入った段ボール箱などで蟻のはい出る隙間もないように見える。しかし、こういう時こそ選別し、工夫して新たな空間を生み出すべきなのであろう。

手始めは、母屋が一部くびれた形になっているところである。屋根はあるので暴風雨でもない限り濡れない空間であることから、そこに農具など雑多なものを積み上げている。まずここを一部明け、倉のものを移すことから手を付けることとした。

実は、この場所の一番奥に大変なものが眠っていた。私の生涯の大勝負でもあった3回の選挙(2003江刺市長選、2006第1回奥州市長選、2010第2回奥州市長選)で用いた選挙用看板である。選挙の結果は2勝1敗であった。心血を注ぎ、命がけで戦った際の重要な装備である。

戦いが終わった後、本人である私はあいさつ回りや次の持ち場づくりなどで落ち着かない中、こうした荷物はどんどん自宅に運び込まれた。それを整理して片づけてくれた人が当時89歳の父正毅であった。2019年に満98歳で逝去した。改めて深く感謝した次第である。

選挙用看板は選挙用ポスターと並んで自らが政治家であることを世に表明するものでもある。表舞台に飛び出し、たくさんの人々の注目を浴び、逃げも隠れもない状態で政策を競い、人物をアピールし、勝敗を決する。武者で言えば鎧兜の一部であろう。当時はあまり意識しなかったが、振り返ると本当にお世話になったという想いがこみあげてくる。

これら看板を今回、ご縁のある方に何らかの活用を期待しながら、お上げすることにした。
最敬礼して送り出したことであった。

 

2021(R3).6.30 ― 史上最大の作戦 ― (第98号)

映画ポスター

激戦の戦場

歓喜するフランス住民

妻との二人暮らしになって1年余となるが、勢力関係の赴くまま、食後の後片付け、食器洗いは私の担当となっている。その作業をしながら見るともなくテレビをつけている。昼食後は、午後1時過ぎには後仕舞い作業を終えて2階の書斎に戻り、軽読書、短昼寝となる。

ところがここに手違いが生じた。ほとんど見ていないはずのテレビに釘付けとなり、何とテレビを見たまま午後4時まで台所に残ってしまい、書類仕事に大きな狂いが生じてしまった。

ともあれ昔一度見たはずの「史上最大の作戦」に大いに感ずるところがあった。

全く眠気も催さずひたすら見入ってしまったのは、そこに人の真心に響くものが随所にあったからだ。共感し同感していた。

一つは、フランスを占領し連合国軍と対峙していたドイツ軍の将軍の常識にのみ捕らわれた判断の甘さとヒットラー独裁体制の脆さである。やはりそうかという事例でもある。

① 連合軍は天気の良い日にしか攻撃を仕掛けてこない。5月ならともかく6月はないであろう。…独将軍の言葉
② ヒットラーが薬を飲んで寝た以上は、起こして相談などできない。起きたが機嫌が悪くてそれを切り出せない。…現場の軍幹部が戦車部隊の投入を求めたのに対するヒットラー側近の言葉

また、連合軍艦隊による大規模艦砲射撃が始まり、わが家が吹き飛ばされそうになったフランス住民(老男性)が、いよいよ独立解放が始まると小旗を振って狂喜乱舞する映像。
どんなにみじめな状況でも自由独立ほど尊いものはないと共感させた。

もう一つは、ノルマンディーでの上陸作戦の場面。独軍の猛反撃で砂浜に釘付けとなり、次々と戦死者が出る状況の中、ある部下が上官に撤退を進言。それに対してその上官は、「戦死や撤退のために連れてきたのではない。ここにいる兵士は二者択一だ。死か死ぬために前進するかだ。」と述べて部隊全員を奮い立たせた。
戦争は行うべきでないが、現実にそのような場面になれば、同感できる動きでもあった。

このように随所でごく普通の人間が不慣れな殺し合いを強いられる、そんな理不尽な現実を背景に、人間世界の真実、個人の真心、後の世につなぎたい教訓がちりばめられた作品であった。

 

2021(R3).5.31 ― 最期の将軍 ― (第97号)

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

鳥羽伏見の戦い

司馬遼太郎の「最後の将軍―徳川慶喜」の2回目を読了した。慶喜公について不思議に思うことは幾つかある。最大のものは何故あっさりと徳川幕府を終わりとし、江戸城を明け渡して降伏してしまったのかということである。

鳥羽伏見の戦いで敗れたとはいえ、薩長軍に本気で勝ちにいく準備も心構えも不十分のままの結末であり、本格的戦闘の結果とは言えなかった。相手が官軍の形を取ったといっても、要は勝てば官軍となるのである。

敗軍将兵が続々と慶喜のいる大阪城に入り、慶喜に対し先頭に立っての出陣を求めた。慶喜は大広間でそれに応ずる話をし、満堂歓声を上げた。ところが夜陰に紛れるようにこれら将兵を大阪城に残したまま、軍艦開陽に乗って江戸に帰ってしまった。

もっとも「将軍である以上は断固徳川幕府を守る」という考えを敢えて取り去り、諸外国の圧力に対抗して平和裏に早期に新しい政府を打ち立てるべしとの考えであったとすれば時代の先端を行く識見の持ち主と言えそうである。ただ必ずしもそうは見えない。ひたすらに天皇・朝廷には恭順すべき、薩長軍が官軍である以上は抗すべきではないと考えていたようだ。

慶喜とすればもはや徳川の力は終りに近いとの思いの中で、徳川宗家も将軍職も再三辞退しつつ、やむを得ず引き受けたのであった。未練はもともとなかったかもしれない。

それにしても上に立つ者としての姿勢はどうであったか。こんなこともあった。自ら長州大打込を言い出し、天皇から節刀までいただきながらわずか後に、突如それをやめると言い出し京都政界を呆然とさせた。越前国福井藩主松平春嶽は、当初長州大打込に反対であったが、この一連の動きを指して「徳川三百年にこれほどの愚行をした者もいない。つまるところあの人には百の才智があって、ただ一つの胆力もない。」と言った。しかし、慶喜はこの軽薄さについて内々にも悔いず、人に対しても恥じらわなかったという。

もともと武家(水戸家)の出ではあるが、基本的に貴族のような気質に育ち、武家の棟梁には向かなかったように見える。
徳川家の末期的な混乱の中での犠牲者でもあったかもしれない。

ともあれ、歴史にもしもはない。慶喜将軍のお蔭で江戸は火の海とならず、迅速に新しい力を持った明治に進むことができたのは確かである。日本を救うための天の配剤であったかもしれない。

 

2021(R3).4.30 ― 偉人と恋心 ― (第96号)

項羽と虞美人

虞美人草

玄宗皇帝と楊貴妃

この3月30日付で二つの文章を世に出した。一つはNPO法人いわて未来研会報第44号(R3.4.30)の編集後記においてである。

「司馬遼太郎の『項羽と劉邦』をまた読みました。5度目か6度目です。あれほど強大で勢いのある項羽を何故見るべき才能もない劉邦が破ることができたのか。作家の解釈は、劉邦は多少の愛嬌のある大きな空袋のような人物で、さまざまな才のある人物が自由に動きながら劉邦を助けるように活躍した、一方の項羽は己一人の力・才能に頼り過ぎたところにあったようです。(中略)

それにしても、項羽が最期を迎える直前、虞姫(ぐき。虞美人)に対して歌い、別れを告げ、虞姫が理解して舞い納めたところを剣で刺し貫くくだりは涙を誘います。上に虞美人草を掲げます。(相原)」

もう一つは、相原正明行政文化小園 メールマガジン第106号(R3.4.30)の前書きに次のように記述した。

謹啓 青空を背にした海棠は、息を呑む美しさです。中国の玄宗皇帝は、ほろ酔いの楊貴妃を海棠にたとえたといわれ、この故事から海棠は「ねむれる花」とも呼ばれます。

楊貴妃は玄宗皇帝の寵姫で傾国の美女とも言われる。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられ、玄宗はその乱の最中、蜀地方に逃れる途中、部下・兵士達に強要される形で泣く泣く楊貴妃に自殺を命じた。

一つの国の運命を握る男性にとって、いかに一人の女性の存在が大きかったかを示す二つの悲話である。

私が二十代に読んだある手記での話である。その男性は名だたる学生運動の闘士であり、リーダーである。公園で大勢の前で得意のアジ演説を始めた。途中で聴衆の中に自分が恋心を抱く一人の女性の姿を見出した。その目を見ているうち、自分が何を話しているか全くわからなくなった。心は既に彼女に占領されていた。

人は強くもあり弱くもある。複雑なようでいて単純である。その中心に男女の恋心があるようだ。人生素晴らしきかな。

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