相原正明の個人オフィスのホームページです

2006年4月~2010年3月

まさあき挨拶・著述集

叙勲祝賀会(H30.8.4)における受章者(相原正明)御礼のことば

  1. 皆様、本日はお暑い中、遠路この様に大勢お集まりいただき、大変ありがとうございました。
    また、先ほどは岩手県知事様はじめご来賓の方々から身に余るお褒めのお言葉と共にお祝辞を頂戴し、厚く御礼申し上げます。まずもって、この度の春の叙勲に際しまして旭日雙光章の栄に浴しましたところ、伊藤正次様をはじめ発起人の方々の御発意により祝賀の会を催していただきました。
    本当にお陰様でございました。この度の祝賀行事に際しましては、これまでご恩やご指導を賜りました沢山の方々にご案内を差し上げさせていただきましたが、全体の人数の制約や私の配慮不足により、ご案内出来ないでしまった方々も多くあり、申し訳ない想いであります。今後なんらかの形で感謝の気持ちをお伝えしたいと考えております。
  2. さて、この度は思いがけなく春の叙勲で受章者とならしていただき、主として市長として働かしていただいた地方自治功労と承知しております。
    かえりみまして、この栄誉を賜りましたのも市民の皆様をはじめ、関係各位のご指導・ご支援の賜物であり、改めて厚く御礼申し上げます。
    また、内にありましては家族の支え、特に妻の支えが無ければ何ともなしえなかったところであり、あまり普段お礼を言う機会もありませんでしたが、この場をお借りして深く感謝したします。(妻に頭を下げる)
  3. 私は、先ほど知事さんのご祝辞でも触れていただきましたが、32年余にわたり岩手県職員として社会人としての基礎を身につけさせていただき、地方自治行政のあるべき姿を学ばせていただきました。
    本日盛岡からかつての上司・先輩の方々にご列席頂いておりますが、岩手県庁で鍛えていただきました基礎があって、市長にも推挙され、また、市長として市町村合併を含む大仕事をすることが出来たと考えております。
    このご恩に改めて感謝申し上げます。それにしても全く政治家に縁のない家に育ち、政治にはむしろ距離を置くようにしている公務員がなぜ市長選に挑戦できたのかと考えることがあります。私の妻美智子の父が都南村の村長をしていたことや、滝沢村助役時代に村長の死去によって50日間も村長職務代理者を務めさせて頂いたことが要因ではあります。そしてやはり行政政策の最高決定者、最高責任者の仕事がしてみたいと思い始めていたかもしれません。
  4. ご縁をいただき、まったく未知の世界ながら市長選に踏み込み、多くの方々のご指導・ご支援のもと無投票で江刺市長に就任させていただきました。その頃は小泉内閣のもと平成の市町村大合併の嵐が吹き荒れており、合併をすべきか、どことすべきかの厳しく苦しい選択を求められる日々であったと思います。歴史上1200年も一緒になったことのない胆沢の中心と江刺の中心がいわば核融合するような合併に舵を切りました。近年の胆江は一つの基本的流れがあり、私の信念の一つである迷ったときは基本に立ち帰るを実践することになりました。この間の本日お見えの元胆江地域の市町村長さん方のお導き、ご協力に深く感謝いたします。奥州市合併実現により、私は約50年続いた江刺まち・江刺市の最後の市長の役割を担うことになり、江刺の将来が必ずプラスに転ずるように万策を講ずる日々であったと思います。
    この思いは今後とも消えることはありません。新奥州市におきましては、初代奥州市長の重責を担うこととなりました。「副県都」構想の下、県下第二の力強い都市づくりとともに新市の基盤創りに務めさせて頂きました。
    旧五市町村の伝統を生かしながらその均衡ある発展を目指し、「合併に対する住民の戸惑いと不安、不満を夢と希望に転化させる」ため奔走し、新市の一体感の醸成に努める毎日でした。
    なかでも、新市の財政を大きく揺るがす岩手競馬の存続問題の解決、岩手宮城内陸地震への対応は忘れることができません。
    道半ばのものが多々ありましたが、一定の基礎レールを引くことが出来たと思っており、今後さらに奥州市が合併時のエネルギーをも活用してさららに発展することを常に願っています。
  5. ここで、本日皆様にお上げした本について申し述べます。私にとっては5年前のものに続く第2冊目の出版物です。奥州市長初年度(H18)に市長として記述したもの、庁議などで発言した内容等を写真入りで表したものです。市の最高責任者である市長が基本的に市の公務に関して自ら記したものであり、いわば正史を補う資料と言えると思います。発行は本日付で皆様が初めての読者ということになります。今後、各図書館や自治体、政治家等にお贈りすることにしています。
    自費出版、非売品、400部限定出版ですが、希望される市民等の方には閲覧できるようにいたします。
    「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す、転じて人は死して文字を残す」が座右の銘でもあります。第3作も遠からず出したいと今から構想しております。
  6. それでは、人生これに過ぎるものはない経験と役割を与えていただき、改めて皆様のお導きに深く感謝申し上げます。
    今後は、いささかなりともご恩に報いるべく微力を尽くす所存でありますので、何卒変わらぬご指導・ご交誼を賜りますようお願い申し上げます。ここに、皆様の今後益々のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げ、御礼のことばとさせていただきます。

 

平成28年度卒業生に贈る

東北大学法学部同窓会岩手支部長(前岩手県奥州市長)
相原 正明 (昭和45年卒)
※1 東北大学法学部同窓会会報第44号(平成29年5月30日)に掲載
※2 東北大学法学部卒業祝賀会における同窓生先輩としての祝辞
(平成29年3月24日仙台市内ホテル)

皆さん、こんにちは。法学部のご卒業そして法学研究科ご終了誠におめでとうございます。
ただ今ご紹介いただきました相原正明と申します。現在、法学部同窓会岩手支部長を務めさせていただいております。私がこうした祝辞の栄をいただきましたのは、支部長の一人ということと、選挙という関門を経て市長になった(法学部同期では私だけ)という異色の経歴のためかなと思っています。

貴重な時間ですので私の経歴、体験の中から感じたことを申し上げ、まさにこれから人生を切り開かれる皆さんの参考に供したいと願っています。
簡単に自己紹介させていただきますと、卒業後すぐ岩手県庁に入り、50代の半ばまで32年ばかり勤め、企業局長という部長級のポストにあった54歳の時に郷里の江刺市長選挙に出るため、勧奨退職年齢の4~5年前に退職しました。

江刺市長選挙は、予定された方が立候補しなかったため、無投票当選となりましたが、平成の市町村大合併の嵐の中で、3年後には合併で市長を失職し、再び合併新市の奥州市長選挙に立候補しました。三つ巴を制する形で合併前の最も大きい市の市長、元衆議院議員を破って当選し、1期4年務めました。しかし、2期目に挑戦した際、その合併前の最大規模の市の出身の元市議会議長との一騎打ちとなり、再選はなりませんでした。しかし、自分としては県の一般職の最高ランクに到達し、歴史に名を遺すともいえる最後の江刺市長、初代の奥州市長を務めさせて頂いたことを誇りとしています。

その後は市長時代の人脈を生かしたNPO法人の代表等を務め、その中で松下政経塾の小型版のような政治家、地域リーダー人材の養成なども行っています。
こうした活動を振り返りつつ、後輩の皆さんにお伝えしたいことを短い言葉で印象深く伝えれたらと思います。

一つ目は、「守・破・離」です。古来からの日本の武道、茶道などの子弟関係の在り方の一つとされているものです。皆さんが世に出て何を期待され、何をどのようにしなければならないか、最初の関門が待ち受けます。大きな組織の一員であっても自営業であっも同じと思います。まず学んで、伝統的考え、やり方を一流レベルにまで身につけることが肝要です。周りの評価は確固たるものになります。やがてこうした自信と己の信念に基づいて、改善し、改革する、即ち破らんとする意欲が出てきます。そして旧来の道、やり方から離れるのです。常に失敗と隣り合わせですが、自分を大きく、脱皮・成長させることに繋がります。

二つ目は「早い段階で戦略(基本的な中長期の目標・計画)を練り、それに沿って戦術(個別具体の対処術)を磨き、実行すること」です。
まずは、仕事の面でそのようなことが大切なのは言うまでもありません。しかし、もう一つ大事なことがあります。それは限られた人生の中で自分自身をどう立派に育て上げるかということです。東北大法学部を卒業したということは、同じ生まれの同級生と横一線ではありません。既に大きく前に出ています。誇りうる位置にいます。しかし、あくまでマラソンでいえばまだ4分の1の地点です。勝負の行方はこれからです。このような戦略目標があるなしで時間とともに大きな差が出ます。たまに訪れる運―幸運の女神―には前髪があって後ろ髪はないと言われます。戦略のない人は前髪を待ってましたとばかりに捕まえることはできません。NHKの朝ドラ「べっぴんさん」の主題歌をミスターチルドレンが歌っていますが、その歌詞にある「たとえば百万回のうちたった一度
ある奇跡。下を向いてばかりいたら見逃してしまうだろう」も同じ趣旨に繋がります。

三つめは「判断に迷ったときは基本に立ち帰る」ということです。平成の市町村大合併の嵐が吹き荒れ、合併の組み合わせが大揺れに揺れ、結局は賛否両論の中で市長の決断にかかるという事態となりました。発表せざるを得ない時間が迫り、マスコミが待ち構える中、朝までほとんど眠らずに過ごした夜を思い出します。正直なところ、自分でも判断が付きかねる中、最後に浮かんだ言葉が「迷ったときは基本に立ち帰る」と言うことでした。それで決断し発表した以上は、もはや迷うことはありません。対外的には市議会はじめ大きな反対も予測されますが、己の心の中はすっきりとし、むしろ楽になりました。ことの大小を問わず、皆さんもこういう場面に必ず遭遇することでしょう。

以上申し上げましたが、その人の人生はそれぞれの人生観に基づき自由に築きき上げていくものです。そんな考えもあるんだという風に参考にしていただけたらと思います。

最後に同窓会支部長として同窓会は自分の人生を充実させていくうえで貴重な場であることを述べさせていただきたいと思います。様々な職業、職場の先輩と後輩が交流し、互いを認識し合うことは無形の力を与えてくれます。知っている人には心を開き、情報を含めなんでもサービスしたくなります。言い換えれば人に知られていれば実に仕事がやりやすく、思いがけないチャンスに恵まれるというものです。「人を知り、人に知られる大切さ」です。

とりとめもないお話をしましたが、皆様方の洋々たる前途を祝し、お祝いの言葉といたします。

 

元盛岡芸者・料亭小原家女将 故宮代美恵子さんの葬儀における弔辞(H28.11.13)

 

美恵子

美恵子

しのぶ

pしのぶ

晩秋の盛岡は早くも初雪となり、梅擬の赤い実が雪に生えて艶やかとなる季節を迎えています。

このような中、奥州市に住む私のもとに一通のメールがあり、女将さんの美恵子さんが逝去されたと告げられました。突然の訃報に茫然としつつ、たちまちにして女将さんの思い出が走馬灯のように駆け巡りました。

私の県職員時代を中心にその後の市長時代も含めて、料理とお銚子を真ん中に県都盛岡の古き良き文化ひいては岩手の伝統文化を人物評を交えながら、心地よい盛岡弁でお話しいただき、教えていただいたことを思い起こしました。

誠に残念であり、哀惜の念に耐えない次第であります。ご家族のお悲しみもいかばかりかとお察し申し上げます。

女将さんの美恵子さんと初めてお目にかかりましたのは、25年ほども前の岩手県職員時代で、八幡町の老舗料亭小原家の女将さんとしてでありました。当時は官公庁の接待でしたが、上司のお供で料亭に出向くこともたまにある立場でした。女将さんは、きっぷが良くて話題が豊富で、肝っ玉女将という印象でした。何よりも元売れっ子の盛岡芸者ということに興味がひかれました。

当時、及川和哉さんが「ひだりづま―盛岡芸者いまむかし」という本を出され、早速読みました。
盛岡芸者は、政財界人から社用族まで、どんな客の前でもひととおりの技芸を披露できるようになって一人前といわれた。容姿・容貌より先に、まず歌舞音曲をこなし、茶道や生け花、行儀作法、それに教養も身につけなければならない。そのため、子供の時から師匠のところに通わされ、厳しく仕込まれた。
盛岡芸者の芸の水準は明治年間の常磐津林中(ときわずりんちゅう)の盛岡滞在によって格段に向上したほか、大正年間の平民宰相原敬がたびたび催した園遊会で盛岡芸者が接待役を務めたことによりさらに品格が高まった。

このほか、盛岡には芸妓(げいこ)置き屋がなかったので自前芸者という独立会計の芸者であったこと、明治期の最盛期には95人にも達していたこと、芸能を伝承し、政界人を支え、観光PRや祭り行事の主役として時代を担ったのが盛岡芸者であることなどが記されていました。

その本の中で美恵子さんは、昭和三十年頃までに誕生した八幡町の若手芸者十五人の一人として記載されていましたし、昭和六十二年に中三デパートで行われた暖簾の会で踊る姿がカラー写真で掲載されていました。盛岡芸者の嗜みとして、踊りでは藤間流の名取で師範でもありました。

ご本人は冗談交じりに、顔は三枚目だが座持ちとしゃべりでよくお座敷がかかったものですよと話していました。

その後昭和62年頃と伺っておりますが、その力量を見込まれ、請われる形で、先ほどの「ひだりづま」の本にも出てくる八幡町料亭小原家の七代目女将となったのでした。
女将となってからは政財界、官公庁などの幅広い人脈を生かして繁盛し、ある時期から料亭を巡る環境が厳しさを増し、閉店する店がある中でも健闘し、平成12年に女将を辞するまでおよそ14年間立派に経営し活躍されました。

その後は悠々自適の生活を基本としながらも自宅の一角を扇亭という店の形にして、古くからのなじみの客が憩う場を設けられました。私も県職員の最後の頃、企業局長を退任する際に送別の宴をこの扇亭で開かせていただきました。そして選挙を経て江刺市、奥州市に戻ってからも、本当にたまにではありましたが個人的に顔を出させていただき、かつての政治家の話などを聞かせていただいたところです。

「あんや、よぐ、おでゃんスたごと」という盛岡弁とともに思い出は尽きませんが、改めて、これまでに頂いたご厚誼・ご指導に感謝申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。

女将さん美恵子さんにおかれましては、一人娘である同じく盛岡芸者としての活動経験もある喪主しのぶさんをはじめ、ご家族を残しての旅立に心残りは計り知れないことと存じます。

ご家族への、天上からの限りないご加護を切にお願い申し上げます。
美恵子さん、どうぞ安らかにお眠りください。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

平成28年11月13日

元県職員・前奥州市長 相原 正明

 

― 県を退職したころ ―岩手県友会会報第93号(H28.3.8)
奥州市 相原 正明

岩手県企業局長として

江刺市長選告示日

無投票当選が確定して

この欄の記事としては異例かと思いますが、私の場合は普通の県職員が選挙に出てしまったという変わった話の持ち主でもありますので、この機会に多少お話させて頂きたいと思います。

平成14年に32年余お世話になり、私の人生そのもののような県職員を企業局を最後に退職することになりました。郷里江刺の市長選挙に声が掛ったのです。5期20年務めた前市長の後継ということでした。とはいっても地元有力政治家との一騎打ちという前提であり、決断までには七転八倒の苦しみがあったことはお察しのとおりです。

それにしても政治家の家系とは無縁の家に生まれた私に何故受ける気持ちがあったのか。妻の父が都南村長であったこと、滝沢村助役に派遣されていた時期に村長死去により50日間職務代理者を務めたことなどにより、県退職後の可能性の一つぐらいの思いがあったことは確かです。

しかし、生計を維持できる家業も無い身で家族を抱えながら中途退職(54歳)し、やってみなければわからない選挙に出るということは冒険そのものでした。家族の反対も当然です。
それでも「虎児」を得たい想いが強く、遂に「虎穴」に入ったのでした。

退職直後から3カ月余かけて江刺の一万世帯を回り、およそ4カ月目に無投票当選となりました。結果は吉と出ましたが、後輩の方々には余程条件が整わない限りお勧めしないつもりです。
その後奥州市長職も経て退任となり、現在は貴重な経験と一定の蓄積を還元したいと願い、政経関係のNPO活動などで忙しくしております。

 

グレーターシェパトン市ジェニー・フーリハン市長夫妻歓迎パーティでの挨拶
(H25.11.5 英訳の上、英語でスピーチ)

アン・マカミッシュ市長夫妻と私夫婦(市長宅の庭にて)

ジェニー・フーリハン市長とともに

今晩は ! グレーターシェパトン市ジェニー・フーリハン市長ご夫妻を心から歓迎いたします。

私は、ジェニー市長さんとは2007年10月以来8年ぶりにお会いします。

当時、メルボルン空港にコクシニアなどの花束を持って迎えに来ていただきました。

歓迎式典や奥州市から持参した桜と紅葉の植樹セレモニーなど楽しく、暖かく歓迎していただきました。

その際、ジェニー市長さんから要請され、私の趣味である俳句を作って発表ししたことが良い思い出の一つです。

実は私はその2年前の2005年にもグレーターシェパトン市を訪問しています。江刺市長時代のことです。

当時のアン・マカミッシュ市長夫妻が、江刺市を非公式に訪問されたことをきっかけに、それまで途絶えがちになっていた交流を復活させようと思いました。

江刺市の最後の年であり、奥州市誕生の前年のことです。

アン市長が7月に来られ、私が同じ年の10月に訪問するという日程でした。

その際、アン市長宅にホームスティしたことが良い思い出です。

これらのお話は、私が市長の時すでに写真入りで、ホームページに掲載しています。今日はこれをコピーし、若干の写真を加えて、皆さんに差し上げました。

写真にありますように、隣にいる私の家内も2度一緒に訪問しております。

1979年以来34年にもわたる姉妹都市交流が、今後ますます充実することと、ジェニー市長さんご夫妻のご健康を心からお祈りします。

ありがとうございました。

 

故及川勉元江刺市長の葬儀における弔辞(H23.6.29)


梅雨入りした奥州の地は、雨に煙り、紫陽花の紫の色が光を放つ中、及川勉さんが心魂を傾けられた江刺藤原の郷がその中心を占めているようでございます。

今月23日朝、一本の電話があり、及川勉さんが亡くなられた様だとの話に、思わず、「ええっー」と大きな声を出してしまいました。最近ご法事でお会いした際には、お元気で、お酒も嗜んでおられ、相変わらずの含蓄のあるお話しを伺ったばかりでした。
誠に残念であり、哀惜の念に耐えない次第であります。ご家族のお悲しみもいかばかりかとお察し申し上げます。

及川勉さんに初めてお目にかかりましたのは、江刺市助役時代であったと思います。私が県庁の市町村担当課の一職員時代です。詳しいことは覚えていませんが、とにかく率直に遠慮のない話し方をされる方との印象でした。
その後、郷里江刺の市長さんということで、親しみと尊敬の念で見守らせていただいておりました。新幹線水沢江刺駅の実現、江刺中核工業団地への次々の大型企業の誘致、職員定数の大幅削減を中心とする大胆な行財政改革、県内初の産業廃棄物処理施設の立地実現、ヒロノ福祉パーク建設など目を見張る成果を着々と打ち出されるお姿に感嘆の目を向け、応援の拍手をしておりました。

私が課長クラスになった頃、活動が休眠状態になっていた「県庁江刺会」を再構築し、及川市長さんをお招きして盛大に会合を開いたこともありました。

及川さんが、五期目の任期を終えられる頃、盛岡においでになり、市長選出馬を打診されました。大いに迷い、悩みましたが、滝沢村で助役を経験し、村長逝去により職務代理者も経験していた私は、いつか機会があれば郷里のために一肌脱ぐ気持ちも十分ありました。当時の知事さんとも相談し、遂にお世話になることを決めたのでありました。

それにしても行政経験があるのみで、政治・選挙からはむしろ離れるようにしていた私にとっては、ただただ及川市長の用意された組織に乗り、そのご指導を受けて挨拶回りを始め、定められた日程・行事をこなすのみでした。幸いにして無投票当選となりましたが、その御恩は生涯忘れることはできないものであります。改めて深く感謝申し上げます。

江刺市長就任後は、生涯学習センター・図書館建設、市内全域光ファイバー網の敷設、地区センター構想の実現など及川市政の継承と発展を進めたところであります。その間、藤原の郷のロケを中心とした義経ブームで江刺が大賑わいとなったこともありましたが、こうしたことも及川さんのご遺徳の賜物でありました。

やがて市町村合併の大嵐が全国を吹きぬける中、江刺も最終的に奥州市合併に向かうこととなり、私としても住民合意を含めたその大仕事に没頭することになりました。合併後、幸いにして初代奥州市長に就任することが出来、4年間、合併新市の基盤創りを担いましたが、新市の市政執行におきましても及川さんが築かれました行財政の仕組み、精神が随所に大いに生き、力を発揮したところであります。

改めて在任中、市政発展に尽くされたのみならず、その後の市政隆昌の基盤を創られましたご功績に深甚なる敬意と感謝を申し上げます。
私がお世話になりました一身上のご恩に関しましては、終生のものとして、重ねて厚く御礼申し上げます。

思いは尽きることを知りませんが、ここに心からご冥福をお祈り申し上げ、また、ご家族への、天上からの限りないご加護を切にお願い申し上げ、お別れといたします。

及川勉さん、どうぞ安らかにお眠りください。お世話になりました。ありがとうございました。

平成23年6月29日

旧江刺市長・前奥州市長 相原 正明

 

平成22年度市勢功労表彰状授与式における受賞者代表挨拶(H23.1.4)


皆様、新年明けましておめでとうございます。受賞者31名を代表いたしまして御礼のご挨拶をさせていただきます。
まずもって、晴れやかな年の初めの市民新年交賀会において、市勢功労者表彰という最高の表彰を賜りましたことに一同感激いたしており、厚く御礼申し上げます。

私たちは、それぞれの分野におきまして、その功績が顕著であるとして、はからずも表彰の栄に浴することとなりましたが、これもひとえに関係の皆様方のご指導とご支援の賜物であり、本席をお借りして改めて心から御礼申し上げます。

奥州市は、五十年、百年の歴史と伝統文化を有する五つの市町村が合併して誕生した市でありますが、早くも6年目に入ろうとしております。

市の総合計画基本構想に定める「歴史息づく健康文化都市 産業の力みなぎる副県都」として着実な発展を遂げておりますことに衷心よりお慶び申し上げます。

今後さらに、新しく生まれたばかりの市としての勢いを生かすとともに、合併前の市町村の伝統文化を大切にし、その均衡のとれた発展を図りながら、着実に市勢を進展させることが肝要と考えるところであります。

そのためには市民の総力を結集しなければなりません。
私たちも、本日の表彰を励みとし、更にそれぞれの立場から市政の発展に力を尽くす決意でございます。

おわりに、本日の受賞を改めて心から御礼申し上げ、奥州市の限りない発展と皆様のご多幸をお祈りし、御礼のご挨拶といたします。
本日は誠にありがとうございました。(2分30秒)

 

やぁ、頑張ってますね、市長です ! (H21.8.27)

アブチロン

拝啓 「君待つと 吾が恋ひおれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王(ぬかたのおおきみ)―女流万葉歌人)」を思い起こさせる季節となりました。
夏休みは、十分取れたでしょうか。日頃のご健闘に感謝します。
8月16日前沢区大曲地内の北上川水辺広場で、「第7回川まつり」が開かれました。「大曲の水辺に夢をつくろう会」が中心になっているもので、川船遊覧会、カヌー体験教室、川船レースなどが多彩に繰り広げられました。私も、大勢の参加者の前で祝辞を述べた後、川船に乗せていただき、北上川の水面上から景色を眺め、爽快感を満喫しました。
このような地域の方々による地域を元気にする試みに、大きなエールを送りたいと思います。  同22日には、Zホール(中ホール)で「副県都・奥州市 輝く未来の都市を創るシンポジゥム」を開催し、多くの参加者とともに、市の発展方向について熱く語り合いました。講演をお願いした北川正恭教授(早稲田大学大学院公共経営研究科)は、三重県知事時代に事務事業評価システムを全国自治体の中で初めて打ち出し、また、日本のマニフェスト旋風を起こした方でもあります。一羽の蝶々の羽ばたきのエネルギーは小さいが、それが数を増し、共振し合うことによって、最後は大きなハリケーン(台風)にもなるという比喩を述べながら、一人一人の自覚と行動が大切と説きました。また、パネリストである水沢青年会議所の吉田啓理事長、江刺青年会議所の海鋒徹哉理事長、矢崎木綿子衣川・大森ホタルの会代表は、若手らしい、はつらつとしたアイデァを披露し、参会者に感銘を与えていました。
「副県都」が定着しつつあることを実感するとともに、内容充実に向かって、大きく前進しなければならないと思った次第です。

奥州ころもがわ祭り(H21.8.23)

翌日は、快晴の中、いよいよ「奥州ころもがわ祭り」が開幕しました。昨年、岩手・宮城内陸地震のため、中止のやむなきに至ったところですが、復興も順調に進み、今日、盛大に祭りを実施できることは、感無量であります。特設ステージのある古戸商店街は、人々で溢れていました。私は、今回も磐神社から馬に乗って古戸商店街まで「お石さま行列」に加わりましたが、特に、新しくなった関袋橋の朱塗りに金の擬宝珠の間を通る時は、背景の木々の緑とのコントラストの美しさに感動した次第です。

地区要望を聞く会(胆沢区)
7月28日から8月4日まで地区要望を聞く会が、5地区ごとに開催されました。先月お話しした3月と7月の臨時交付金事業で一定の要望対応ができたことにより、異口同音に評価いただきましたが、なお切実な要望が山積しております。
各担当部署におかれても、現場を確認し、地域の方々の話を十分聞きながら、優先度も考慮しつつ、できる限りの対応を頂くようお願いします。その検討努力過程が、要望者側に誠実に伝わることも大切と思います。

地区要望を聞く会(胆沢区)

また、間もなく終了する市内30会場での市政懇談会でも多くの意見や要望が出されています。同様に前向きに捉えつつ、対応努力をお願いいたします。  8月24日の前沢区での移動市長室では、女性団体の方々との懇談がありました。「空き家への入居を推進するとしても、高齢化した場合の対応まで考えておく必要があるのではないか」、「保健推進員制度のように一定の立場を明確化した上で、地域内に働きかけることが必要である」、「グループホームの増設など痴呆症増加対策が急がれる」、「市職員の方々が、市役所内で住民や団体に声を掛け、明るく励ますような姿勢・雰囲気が大切と思う」など、貴重なご意見が多く出されました。  年度後半に向かい、力の入る時期でもあります。ご健勝・ご健闘をお祈りいたします。

敬具
平成21年8月27日
市長  相原正明

 

大学は深いため息の場 (H21.3.9)(H21.8.27)

S45法学部卒  相原 正明

あれは、昭和41年春の大学入試の合格発表のあった日である。家族で待っているところに「合格」の電報が舞い込んだ。皆で歓声を上げる中、厳格な父がつい涙ぐんだ。入試直前に体調を崩しての病院通い、入院する、しないの家族論争、入試会場地の旅館への母の同行など、問題・課題の連続であった。

思えば、高校(岩手県立盛岡第一高等学校)時代は、試験と勉強の繰り返しのみで、他に何もない生活であった。それでも辛いと思ったこともなく、試験の都度発表される順位に一喜一憂していた。目標とする大学合格への家族総ぐるみの一大プロジェクトであったといえる。それが見事に花開いたという満足感に浸っていた。

東北大学法学部旧館
それにしても、何故、東北大だったのであろうか。叔父が東北大法学部卒(S25)で大学の教授をしていたこともあり、家の経済、自分の目いっぱいの実力などから自然にそうなった。大人たちは、「東北帝大」と呼んでおり、子供心にも「別格」の大学という憧れがあった。

東北大学法学部旧館

初めて住む大都市仙台、そして青葉城、広瀬川を臨む緑の芝生の豊富な川内キャンパスは、私の人生にとってあらゆる意味で新天地となった。

まず、中学以来、自分の思考と行動を迷いのないよう制御していた「試験・競争」がない。教師の側からの声掛けもない。全く途方にくれるような「過大な自由」。
また、科目ごとに教室も受講する学生も変わり、クラスメートという感覚もない、「大いなる孤独」。

同級生の中には、庇を貸して母屋を取られる如く、アルバイトにのめりこみ、退学に至る者さえあった。大学とは、自分で自分を律し、進む方角を自ら定めなければならない場であった。
更に、仙台の街は、政治経済の支店的機能が集中しているのみで、刺激が比較的少ない。いわば田舎の中の都市だ。「田舎の学問より京の昼寝」という諺を思い出す。

こんな中で、1―2年の頃は、正直身をもてあました。高校時代までほとんど読むことのなかった小説を読み、下宿の先輩に手ほどきを受けた囲碁に夢中になった。大学教養部の科目は、楽しみなものもあったが、試験・競争が眼前にないためか、集中することはできなかった。
3年になると法律の専門科目が中心となり、司法試験、公務員試験や就職先が見えてきて、あっという間に時が過ぎていった。

佐藤春夫の詩に、酒、煙草などの他に学んだことはないという、大学は人間のため息の場であると感じさせるものがある。私にとって、大学は、まさに深いため息の場であった。

当時から40年も経ち、私は、岩手県庁の職員を経た後、旧江刺市長(3年)、奥州市長(4年目)を勤めている。振り返って思うのであるが、東北大卒業生は、首都圏の大学卒業生に比べて、人の間を渡る要領が悪く、極めて真面目で、正義派は必ず勝つ、といった雰囲気がある。よく言えば、時流に流されることなく、原則を貫いて動かないところがある。

市長職を勤めていても、私の中に育っていたらしい、こうした「田舎育ちの一徹さ」、「純朴を尊ぶ心」、「人間関係に適度の距離を置き、是々非々で臨む」、「苦戦の中にあっても、一歩も退くことなく守り抜き、遂には勝利することを目指す」気質は、大切であり、東北大時代の深いため息の中で培われた気がする。

今後、道州制時代を迎えるとき、仙台の役割とその学びの府としての東北大の役割は、一層高まると思われるが、人を育てる柱は、効率や実利に走らず、永年のよき伝統である「時流に流されない質実剛健」が良いと思う。将来の世界を担う有為な若者を「自由と孤独と思索」の世界、そして「深いため息の場」に放り込み、真の人間力のある人材に育てる姿勢が肝要と思われる。

東北大学、そして法学部の限りない発展と後輩諸君の力強い飛躍を祈りつつ、ペンを置く。

(H21.3.9 東北大学法学部同窓会設50周年「記念誌」原稿)

 

オーストリア姉妹都市訪問―墺・奥交流―現地リポート(上)

奥州市のみなさん、おはようございます。こちらは、市長の相原正明です。今、オーストリア国チロル州(同国の西寄り)の州都インスブルック(人口約13万人。1964年と1976年に冬季オリンピック開催。標高575m)のホテルにおりますが、日時は、10月15日(水)朝の7です。日本時間では、7時間の時差(夏時間)があるため、同日午後2時となります。  このたび、市では、国際姉妹都市であるオーストリア国チロル州のロイテ市(人口6,100人)とブライテンヴァング市(人口1,750人。両市は隣接)を訪問することになりました。両市とは、旧江刺市時代の平成3年に姉妹都市となり、奥州市に引き継がれているものです。

姉妹都市の締結は、平成元年にロイテ市とブライテンヴァング市に本拠地を置くプランゼー社(特殊金属加工の分野で世界有数の企業。両市では2千人以上の市民が働いている)が、日本企業との合弁会社バックスプレシジョン社を立ち上げ、その工場を江刺中核工業団地に建設したご縁に端を発し、関係者のご努力のもと実現したものです。

姉妹都市締結後、毎年、中学生、高校生等の青少年を3人ほど交換交流(ホームスティ方式)しているほか、互いに公式訪問団を派遣(平成11年以降は、3年ごとに受け入れと派遣を繰り返し継続)してきました。今年は、奥州市側が、公式訪問する年に当たります。

とくに、平成18年5月の奥州市合併記念式典にも出席頂いたブライテンヴァング市のハンスペーター・ヴァグナー市長からは、岩手・宮城内陸地震のお見舞いの手紙を頂いたほか、奥州市の訪問団の到着を心からお待ちしている旨の手紙を頂戴したところです。

この度の訪問団は、20名で、在住区別には、水沢区5名、江刺区12名、前沢区2名、胆沢区1名となっています。私(市長)が団長、小沢議長が副団長です。なお、団長・副団長は、海外交流の多くの例に倣い、夫人を同伴しております。

ここまでの道のりを簡単に振り返りますと、10月13日(月)午後1時に新幹線水沢江刺駅に全員が集合し、ご家族や市議会議員の皆様はじめ、多くの方々のお見送りをいただき、出立しました。

出発の際のご挨拶では、「姉妹都市交流は、行政のみでなく、民間交流が深まってこそ、その実を挙げることができる。その意味では、今回、多くの民間の方々の協力参加をいただいた。オーストリアでは、産業、教育、文化などあらゆる面で、相互発展のため、将来に向かって、建設的に話し合ってまいりたい」旨述べたところです。

その日は、成田に泊まり、翌14日(火)午前10時55分に成田空港を離陸し、12時間後の午後3時55分にウィーン空港到着、午後5時45分に同空港を立ち、およそ1時間後の午後6時50分にインスブルック空港に着きました。

空港には、ロイテ市のエルンスト・ホルンシュタイン副市長とブライテンヴァング市のハンスペーター・ヴァグナー市長のお出迎えをいただき、感激したところです。とくに、ヴァグナー市長とは、奥州市でお会いして以来、2年5ヶ月振りの再会となりました。

その夜は、お出迎えいただいた上記のお2人を交えて、参加者一同での夕食会となり、公式訪問内容に期待を膨らませながら、談笑し、終了後は、ホテルでぐっすり眠りについたところです。天候にも恵まれた一日でした(気温も思いのほか暖かい日となる)。

さて、今日からいよいよ公式訪問です。

なお、次回の現地リポートは、17日(金)、最終回は、19日(日)の予定です(同様の時間帯)。

平成20年10月15日(水)午前7時 インスブルックにて
奥州市長 相原 正明
( 報道機関の皆様へ追伸: この記事の編集等(写真を含む)は、ご自由にお願いします。)

 

オーストリア姉妹都市訪問―墺・奥交流―現地リポート(中)

市民の皆さん、こんにちは ! 市長の相原正明です。ブライテンヴァング市内のホテルから現地リポートの2回目を送らせていただきます。こちらの時刻は、10月17日(金)の午前7時です。

ロイテ市とブライテンヴァング市での日程を無事終え、本日早朝に再び、チロル州の州都インスブルックに向かいます。

今回の報告では、メイン行事が重なった15日の様子をお知らせすることとし、16日以降については、次回(最終回)にまとめてお届けいたします。

一行は、姉妹都市締結の礎となったプランゼー社を訪問しました。前回報告しましたように、
江刺区に立地しているバックスプレシジョン(株)の親会社に当たり、世界の23ヶ国に70事業所を有し、総従業員8,800人、総売上1,550億円(2006年度)の規模を誇ります。特殊金属(耐熱性が高く、加工が極めて難しいタングステン、モリブデンなど)を加工し、半導体製造装置部品や自動車部品に供給しています。

応対していただいたクック技術部長(社長等は米国出張中)は、「1921年にシュバーツコック氏が会社を設立したころは、20人ほどの小企業であったのが、技術を確立して、評価を高め、次第に世界にも進出するようになった」と話した。山すそに次々と工場が増設されているが、多くはオートメーション化され、工場内は、驚くほど清潔感に溢れていた。社員の住環境にも心を砕いているとのことであったが、働いている人々の表情が明るいのが印象的であった。

午後2時からは、市内の公園で記念植樹を行いました。まず、ブライテンヴァング市の庁舎に近い多目的ホールの前庭付近で、芝生にモミジの木を植えました。すぐ側の幼稚園の可愛らしい子供たちの歌が披露される中、3人の市長がシャベルで土をかけ、次いで小沢議長と両市の議員や関係者、そして公式訪問団の全員が参加して行いました。

その後、ロイテ市内の老人福祉施設に面した公園で、桜の木の植樹が行われました。こちらでも、幼稚園児が日本の「さくらさくら」の歌を歌って歓迎してくれました。進行は、ブライテンヴァング市と同様となりましたが、終了後は、老人福祉施設の入居者も交え、ドリンク入りの交流会となりました。感激したご老人(入居者)が地元の歌を即興で歌ってくれたのが印象的でした。

午後3時からは、ロイテ市郷土館を見学しました。大きな旧家を市が買い上げて、地元の歴史や芸術文化を紹介する施設として設置したものです。ホルシュタイン副市長(議員でもある)が、館長を勤めていますが、自ら案内し、説明してくれました。郷土の歴史や文化をとても大切にしている様子が実感できました。

午後6時から、両市長さんと私、小沢議長との4人が、ブライテンヴァング市の市庁舎で今後の姉妹都市交流の充実に関して意見交換を行いました。

この中では、毎年の青少年交流の継続かつ充実した実施、3年ごとの相互公式訪問の継続実施を確認したほか、現在、ドイツで行っている南部鉄器や岩谷堂箪笥などの物産展参加をオーストリアでも展開出来ないかなどの話し合いを約1時間にわたって行いました。

今後、双方が協力して姉妹都市の実を上げるべく、多方面にわたって、協議し、可能なものから取り組んでいくことで合意しました。

午後7時からブライテンヴァング市の多目的施設(植樹会場付近)で、歓迎夕食会・調印式に臨みました。夕闇の中、地元の民族衣装で着飾った音楽隊の皆さんが、玄関先で、音楽を奏でながら、歓迎してくれました。突然、「最高のおもてなし」という趣旨で、私が、音楽隊の指揮を任されたのには、驚き、かつ、戸惑いましたが、何とかこなし、大いに感激もしました。

歓迎夕食会では、相手先の両市長の歓迎の挨拶に続き、私がドイツ語(ーストリアはドイツ語圏)でスピーチし、続いて小沢議長がドイツ語を交えながら、挨拶しました。
つづく調印式では、奥州市・ロイテ市と奥州市・ブライテンヴァング市のそれぞれについて、双方の市長と市議会議長等が署名しました。

調印の内容は、次のとおりです。
「日本国岩手県奥州市とオーストリア国チロル州ロイテ市(ブライテンヴァング市)の両市の市長は、両市市民間の友好親善の助長及び教育・文化・経済など各分野の交流の推進が、両国間の相互理解を増進し、ひいては世界の平和と繁栄に寄与するものであることを確認し、姉妹都市である両市がさらに友好関係を強めていくことをここに宣言する。

姉妹都市関係の継続にあたり、両市は、人的交流及び文化、教育、経済、市民活動等に関する交流を可能な限り援助し、かつ、両市市民間の友好を助長し、真の家族に比すべき連帯を培うことを約する。」

また、当市からのお土産として、岩谷堂箪笥オルゴール(は「鐘の鳴る丘」、姉妹都市章と奥州市章入り)を両市に贈呈しました。両市からも姉妹都市双方の市章入りの時計などの贈り物をいただきました。

この後、いよいよ歓迎夕食会の宴に入りました。地元楽団によるチロル音楽が常時奏でられる中で、ワインや数々のご馳走に舌鼓を打ち、訪問団全員で相手先の方々(主に市長夫人、元市長、議員等)と歓談・交流しました。

宴たけなわには、訪問団全員で、シューベルトの「野ばら」と奥州市民歌を歌ったほか、求められるまま、チロルダンスの輪に加わりました。

こうして、訪問団全員にとって、満足感あふれる中、歓迎夕食会は終了しました。

なお、次回の現地リポートは、最終回となりますが、19日(日)の予定です(同様の時間帯)。

平成20年10月17日(金)午前7時 ブライテンヴァングにて
奥州市長 相原 正明

( 報道機関の皆様へ追伸: この記事の編集等(写真を含む)は、ご自由にお願いします。)

 

オーストリア姉妹都市訪問―墺・奥交流―現地リポート(下)

授業風景

奥州市のみなさん、おはようございます。こちらは、市長の相原正明です。オーストリアの首都ウィーンのホテルの一室から、パソコンでメールを送付しています。10月19日(日)朝の7時です。
公式訪問日程は、全て終了し、今日ウィーンを発ち、帰国の途につきます。

それではまず、前回の報告後の16日(木)の様子から報告いたします。
午前9時にブライテンヴァング市長のヴァグナーさんが校長を勤めている(市長は、直接に選挙で選ばれるものの、非常勤)中学校(日本とは制度が異なる。)に出向き、10歳の子供たち約100人を前に、「市長出前教室(姉妹都市版)」を行いました。

オーストリアと日本、チロル州と岩手県、ロイテ市・ブライテンヴァング市と奥州市の違いなどをできるだけ簡単に話し、次いで質問を受けましたが、日本では何人学級ですか(オーストリアは25人学級)などの質問が次々と活発に出されました。次に、小沢議長が生徒の名前(ドイツ語)カタカナで表示するというテーマで話し、訪問団員全員で子供たちの作業を手伝いました。子供たちは、いわば大騒ぎで、喜んで熱心に取り組んでいました。最後に、佐藤悦夫さん(江刺商工会議所専務)、大きく張り出された紙の上に、墨と筆を使って「和」と書き、また、教師側の要望にしたがって様々の漢字やかなを示し、この授業を終えました。終了後は、打ち解けた子供たちとハイタッチ(平手と平手をぶつけ合う)で別れました。

午前11時には、ブライテンヴァング市の歴史博物館であるエーレンベルク城址博物館を見学しましたが、古い城壁を利用したイベントホールなど史跡を活用した公共施設が大いに参考となりました。

その後、姉妹都市側のご好意により、近くの国境を越え、南ドイツの古都フュッセンにあるノイシュヴァンシュタイン城の見学をさせていただきました。ヨーロッパで最もロマンチックな城といわれているようです。城からの帰途、大雨を避けるため、予定外に馬車で街まで下るなど思い出多い旅となりました。

ホテルでの夕食会には、姉妹都市両市の市長ほかの方々も参加され、打ち解けた雰囲気の中、公私にわたる話題に花を咲かせました。

17日(金)は、山岳部に降雪があり、寒い朝となりましたが、私と小沢議長が、ブライテンヴァング市の車に、ヴァグナー市長とともに乗り、朝7時半にインスブルックに向かいました(他の訪問団員は、同8時にバスで向かい、後刻合流)。

インスブルック副市長室で

午前9時にインスブルック市庁舎にオイゲン・シプレンガー副市長を訪ね、市政課題などをお聞きしました。同副市長は、ブライテンヴァング市出身で、ヴァグナー市長の友人でもあるとのことです。1358年から市庁舎として使われている建物という話にまず圧倒される思いでした。

人口は、奥州市とほぼ同じですが、州都であり、冬季オリンピックを2度も行っている、大都市の風格を感じさせる市です。スポーツ都市、大学都市、会議都市(2001に大規模会議施設ができる)、観光都市(.年に110万人が宿泊)としての発展を目指しているとのことでした。課題としては、盆地で土地が狭いため、いかに快適・低廉な住宅環境を用意できるか、スポーツ・文化施設の活用をどう効果的に進めるかなどであるとのご説明をいただきました。文化財保護局の責任者のお話も聞くことができました。
終了後は、同副市長の案内で、何十段も階段を歩いて登り、同市内を一望できる屋上で、美しい青い教会の屋根などを眺め、しばしの時間をすごしました。

その後、他の団員と合流し、市内散策の後、オリンピックでも使われたジャンプ台付近の眺めのよいレストランで、ヴァグナー市長ほかの方々も交え、昼食を取りました。
同市長は、スキージャンプの元オリンピック選手であり、指導者としてはいくつもの金メダルを獲得したとのことです。

午後3時過ぎには、インスブルック空港からウィーンに向かいましたが、ヴァグナー市長やシュースター・ロイテ副市長が見送りに出て、手を振られたことに、一同感激し、プロペラ機に搭乗の寸前でみんなで万歳をした次第です。

日本大使館で

夕食は、私と小沢議長そして及川香(かおり)さんが、日本大使館に招かれたため、他の団員と別れて行動しました。姉妹都市両市の市長は、毎年の天皇誕生日に同大使館に姉妹都市の代表として招かれており、かって、両陛下に同大使館でお目にかかり、言葉をかけていただいたこともあるということでした。

大使館の晩餐会場で田中映男(あきお)大使から、様々なお話をお聞きしながら、ご馳走をいただきました。大使からは、今後、早めに姉妹都市を訪問したいこと、関係都市の物産や文化の交流行事を行いたいことなどの話が熱っぽく語られました。平泉の世界文化遺産登録に向けての建設的な意見交換も行ったところです。

18日(土)は、冷え込んだものの快晴で、一同張り切って、世界文化遺産の街ウィーンを探訪しました。同遺産のシェーンブルン宮殿(ハプスブルグ家の夏の宮殿)を見学した後、同遺産に登録されている旧市街を歩きました。昼食会場は、ウィーン市役所の地下のレストランでしたが、市役所庁舎そのものが圧倒されるような歴史的で荘厳な、かつ、芸術的建造物でした。

ガスメーター再開発

途中、別の地区ですが、100年前にできた巨大なガスタンク4棟を改造し、生かす形で、集合住宅兼オフィス兼ショッピングモールとした建物を視察しました。説明案内は、車椅子に乗ったプーシェイクさんでした。集合住宅には800世帯1500人が暮らしており、オフィスには3000人が働いています。4棟はつながっているものの、4人の設計家が腕を競って設計したもので、それぞれ特色がありました。市の援助も含めて2百億円を超す大事業であり、地下鉄の駅も伸びるなど、新しい拠点形成を期待して1994年から10年ほどかけて建設されたようです。
利用者の伸びの低迷などの問題があるとのことですが、今後の街づくりの大きなヒントにもなりました。

その日の夕食会では、一同そろっての会食は最後となるため、団長として特に挨拶し、「皆さんのご協力で、民間交流を含めて実り多い、姉妹都市公式訪問となりました。今後さらに幅広い分野で交流を深めていきたい。」と述べたところです。

現地リポートは、今回が最終回となります。この後は、休日午前のウィーン市内を散策し、その中では、シュトラウスやベートーベンなどの楽聖の眠る墓地を見学する予定です。
午後2時過ぎの飛行機でウィーンを発ち、翌20日(月)朝8時すぎに成田空港到着、午後2時26分に水沢江刺駅到着となります。

帰国後には、さらに沢山の土産話をお届けするとともに、交流の成果を今後の市政に生かしていきたいと思います。
3回にわたる現地リポートのご愛読ありがとうございました。

平成20年10月19日(日)午前7時 ウィーンにて
奥州市長 相原 正明

( 報道機関の皆様へ追伸: この記事の編集等(写真を含む)は、ご自由にお願いします。)

 

寸劇「みんなで自治基本条例フォーラムに行こう!」(H20.7 原作奥州市長)

オープニング劇「奥州家の人々」

平成20年8月23日、奥州市胆沢区の胆沢文化創造センターで、まちづくり市民フォーラムが開かれ、市民約400人が参加し、「まちの憲法」である自治基本条例について理解を深めた。

ところで、楽しみながら勉強していただこうと、胆沢区の劇団「空想工房」によるオープニング劇「奥州家の人々」が上演された。実は、この原作は、私が書いたものであるが、最終的には同劇団によって大幅に手直しされている。

 

 

 

 

1)趣旨
15分程度のコミカルな寸劇により、親しみやすく、「自治基本条例によるまちづくり」を語りかけ、市民の関心を爽やかに高める。

2)あらすじ
老若男女と子供が、掛け合いや問答をし、「はてな博士」に教わりながら、興味・関心をを高め、最後は、自治基本条例フォーラムに駆けつける。

3)登場人物
はてな博士 (59歳)
自(おのず)おじいさん (男70歳)
治子(はるこ)おばさん (女49歳)
基(もとい)お兄さん (男39歳)
本子(もとこ)お姉さん (女30歳)
条(じょう)君 (男19歳)
例子(れいこ)ちゃん (女13歳)

4)場面設定
奥州公園の一場面。夏の朝の涼しい公園で、体操や散歩を楽しんだ人々が、何かを話し始めている。

5)台詞
自おじいさん ああ、今日もいい体操をしたなぁ。夏は、暑いといっても、朝は気持ちいいね。

本子お姉さん 私、今日が誕生日なの。

例子ちゃん  わぁ、おねえさん、おめでとう。

本子お姉さん 30歳の大台に乗ってしまったのよ。めでたいかどうか分からないわ。

治子おばさん あら、あら、女は、年より気持ちの持ちようよ。前向きに張り切っていきましょうよ。そうすれば、かえって若返ると思うわ。

基お兄さん そうだよ。昔から、女は度胸というじゃないか。ドーンといこう。

本子お姉さん それを言うなら、男は度胸でしょ! そんなことより、早くお嫁さんをもらいなさいよ。

条 君    僕は、二人がお似合いと思うんだけどなぁ。

本子お姉さん 冗談じゃないわ。誰がこんな人と。

基お兄さん  全く、可愛くないね。

自おじいさん まあまあ、それくらいにして。ところで、みんな、今朝のチラシを見たかい。

一 同    何 !

自おじいさん 自治基本条例フォーラムのこと。

一 同    何それ !

自おじいさん 自治基本条例というのは、まちづくりの憲法の意味らしい。それを制定するために、まず、市役所が市民勉強会を開くようだ。

治子おばさん まちづくりの憲法って、なんか面白そうね。でも、どうしてそういうものが、必要なんでしょうね。

自おじいさん そういう時代になったということだと思うんだが。私も「興味(キョーミ)」はあるが、なにしろ「今日見(キョーミ)た」だけなので。

一 同    (つまらない冗談に白けた様子)

自おじいさん ちょうど良かった。ものしり博士が来たよ。

本子お姉さん ああ、あのお洒落な物知りさんね。

基お兄さん  お洒落なら、僕も負けないよ。

本子お姉さん あら、お洒落だったの。ちっとも知らなかったわ。

治子おばさん 貴方たち、仲がいいのね。

条 君    へえ、こういうのが仲がいいというんですかね。

ものしり博士 えへん。おほん。今日も揉めているようですな。

条 君    博士、まちづくりの憲法って何ですか。なぜ、必要なの。

ものしり博士 これはまたストレートで元気の良い質問ですな。条君は間もなく成人でしたね。

条 君    来年、成人式です。

ものしり博士 私たちの奥州市のような市町村は、長い歴史があるが、まだ成人式まで行ってないかもしれないよ。

基お兄さん  へぇー、面白そうですね。市長や議員が聞いたら、何と思うのかな。どういう意味ですか。

ものしり博士 あくまでたとえ話ですよ。市町村は独立した自治体といっても、農地転用許可のような身近なものを始め、ほとんどの許可や認可の権限は、国や県にあって、市町村には、なかった時代が続いたんだ。細かいことまで、いちいち指図を仰がなければならなかったんだよ。

治子おばさん 私も姑さんや小姑さんに箸の上げ下げまで、あれこれ言われたわ。

本子お姉さん そういう時代に戻らないでほしいわ。

ものしり博士 そこで、平成12年、今から8年前に地方分権一括法という法律で、市町村が一人前に活動していける土台を作ったんだ。

条 君    成人式を迎えたわけですね。

ものしり博士 そうじゃよ。条君だったらそれでどうする?

条 君    ぼくだったら、何でも自分の意思で決めていきたいし、選挙権も行使して、政治にも関心を持ちたいですね。

自おじいさん 条君、大人になったなあ。

例子ちゃん  ほんと。私も惚れ直しちゃったわ。

条 君    なにぉ、おませな !

ものしり博士 まあまあ。全国の自治体でも、この動きを敏感に察知して、自分たちの憲法を定める動きが始まったんだ。あの有名な北海道のニセコ町のものが最初となったんだよ。

基お兄さん  知ってる、知ってる。その町長さんは、出世して国会議員になったんでしょう。

ものしり博士 そうじゃ。出世かどうかは、別として、コロンブスのタマゴのような話になった。

例子ちゃん  あぁ、コロンブスのタマゴって、私も知ってる。誰も気が付かないが、言われてやってみれば簡単なことの例えでしょ。

条 君    あれ、例子に負けそう!

ものしり博士 その時のニセコ町長の逢坂(おおさか)さんは、「当たり前のことを当たり前に規定しただけなのに、有名になってしまった」というようなことを言っている。その逢坂(おおさか)さんが、「大阪(オーサカ)まで聞こえるなんて」と言ったとか、言わないとか。

治子おばさん ジョークのほうは、いまいちねぇ。

ものしり博士 その後、全国では、続々と後に続き、今では、県内の宮古市、花巻市をはじめ、120近い自治体が制定しているんだ。

自おじいさん 当たり前の中身というと、あまり新しい内容は、ないんでしょうか。何かつまらない感じもしますね。

ものしり博士 「ないようです」としゃれたいところだか、そうでもないんですよ。例えば、住民投票制度が注目されている。市町村合併や産
廃処理施設建設などのように市民の関心の高い問題で、市民が発案して住民投票にかけることができるんだ。そして、今の案では、18歳からの投票、定住外国人の投票も認めようという案になっている。

条 君    成人にならなくとも、僕も投票できるんだ。興味が出てきたぞ。

例子ちゃん  詰まんないの。私には、関係ないのね。

条 君    あと、5年早いって。

ものしり博士 ところがあるんですよ。子供の権利も規定することになっているんだ。

例子ちゃん  うれしい! お小遣いをもらえる権利、勉強を休む権利なんて、楽しいな。

基お兄さん  例子ちゃんらしいな。

ものしり博士 残念ながら、そこまでは書いてないが、子供の立場も大事にしようということだと思うよ。

治子おばさん 主婦の権利もあるのかしら。

ものしり博士 そういう表現ではありませんが、男女共同参画の規定が関係すると思うな。

治子おばさん せめて女男(じょだん)共同参画と言ってほしいわ。

ものしり博士 ジョダン(冗談)でしょう。いや失礼。本気ですよね。

自おじいさん 面白くなってきたね。フォーラムは、3日後だったよね。行ってみようかな。

治子おばさん そうね。行きましょうよ。

本子お姉さん 基お兄さん、どうせ暇なんでしょう。

基お兄さん しょうがない。デートと行くか。

本子お姉さん 勘違いしないでね。

条 君    例子ちゃん、行こうか。

例子ちゃん  うん。おやつ持って行っちゃおうっーと!

(一同小走りに立ち去る)

以上

 

相原正明の俳句集

私の趣味として、俳句を標榜している関係で、ときに名誉選者を依頼されたり、「句集はありませんか。」と聞かれたりする。

現在は、「開店休業」又は「月1日開店」のような状態ではあるが、これまでの作句を整理して、掲げてみることにした。

羽化したばかりのクロアゲハ

☆俳句経歴

平成2年 双葉俳句会(盛岡市内の同好会)入会
同3年 俳誌「樹氷」(小原啄葉氏が主宰)入会
同6年 樹氷新人賞受賞
同7年 樹氷同人
同8年 岩手県俳人協会会員

◇新年の句(括弧内は、作成年)

参道を塞いでおりし初写真(H3)
何も無き壁に掲げて初暦(H3)
振袖が閉じて開いて初写真(H7)
初売りの菓子の如意輪坐像かな(H8)
大事件多き干支なり読始め(H11)
放談のように聞こえて初雀(H11)
副県都談ずるごとし初雀(H19)
初とんび飛ぶ数だけの抱負かな(H5)
かんざしや成人の日の忘れ物(H5)
初売りの菓子の如意輪坐像かな(H7)

◇ 春の句

学院長の声のみ響き卒業歌(H3)
酔うて出る自慢話や春炬燵(H3)
雪解道分譲宅地の旗騒ぎ(H3)
雲の下に雲が浮かんで春田かな(H3)
春眠の浜辺を揺する波頭かな(H3)
椿咲く裏山暗し金閣寺(H3)
抜け道を塞いでおりし蕗の薹(H3)
ネクタイは父母の手が締め卒業子(H3)
川船は沈む如くに濃山吹(H3)
桜背ににこりともせぬ姉妹かな(H3)
春風がチャイナドレスを襲いけり(H8)
ガタゴトト春風家にいるらしく(H6)
山吹や幾度も覗く万歩計(H6)

◇ 夏の句

夏雲は寝そべっておりハイウェー(H2)
のうぜんの朽ちたるもあり垣の下(H2)
山をなす神輿の端に月止まり(H2)
草茂る坂を登れば山上がる(H3)
リボンまで生けられておりカーネーション(H3)
離れ岩現れ沈む夏の海(H3)
髪長き僧侶もおりて夏葬儀(H3)
夏の川橋の人影絶えにけり(H4)
空の青重ね塗りして夏の山(H4)
津波来し高さのあたり百合の花(H4)
骨董の瓢箪揺れて蝉時雨(H4)
一人づつ堤塘を行く衣更え衣更え(H5)
雲の色映して暗し夏の海(H5)
応援のウェーブとなる夏木立(H5)
妻の足大きく見えし今朝の秋(H7)
会議閉じリンドウ娘迎えけり(H7)
水喧嘩昨日のごとく語りけり(H8)
夏衣いよいよ女の腕白し(H8)
団扇手に吾子と並んで背比べ(H7)
涼やかに女佇むクラフト店(H7)
雲重くゆっくり沈む夏の夕(H6)
爽やかや畳一枚あればよし(H8)
ふるさとの社交場となる墓参かな(H8)

◇ 秋の句

新涼や大根一本腕の中(H2)
もの思う目に秋蝶が躍り込み(H2)
地の果てまでも雲厚く蜻蛉飛ぶ(H2)
亡き祖父の植えし葡萄を胃に落とし(H2)
セスナ機もトンボも同じ-方へ飛び(H2)
柿紅葉日差しが消えてしまいけり(H2)
説明の指に止まりし蜻蛉かな(H3)
秋日和道に木の影家の影(H3)
爽やかや子等と比べる足の裏(H3)
曲屋の座敷は暗し白むくげ(H3)
菊売りの籠を背にして眠りたる(H3)
紙袋コキリと鳴りて秋深し(H3)
深山の枝の一振り初紅葉(H3)
羽化終えてみずみずしきかな秋の蝶(H3)
葉のおもて現れしとき露こぼる(H3)
鳥の尾が音頭取りたり秋出水(H3)
言うまいと思いつ子に言う虫時雨(H3)
参道におでん匂える秋祭り(H3)
暗闇にホニオは踊っているような(H3)
二階から吾子声かける菊の道(H3)
子らの輪が伸びて縮んで秋日和(H4)
トンボ来てしばし遊んで帰りけり(H4)
あいさつを案山子が笑って聞いており(H4)
秋風や時計の針がつと動き(H5)
吹く風に溺れ沈みし秋の蝶(H5)
しがみ付く岩をトンボも掴みおり(H7)
大鍋が座敷に二つ芋煮会(H8)
ビル街に氏子現る秋祭り(H8)
乾杯に故事を添えたり温泉家(ゆや)の秋(H9)
パソコンのボタン一つで菊薫る(H9)
葡萄一つ試食して去る道の駅(H9)
アテルイの里に列なすホニオかな(H9)

◇  冬の句

落ち葉起きて坂道つつと昇りけり(H2)
夕暮れて雪像高く尖りたり(H3)
ななかまどコンクリートに落ちにけり(H2)
くわえたる紙の白さや寒参り(H3)
雪嶺を雲駆け抜けてリフト着く(H3)
飛び跳ねて吾も吾もと落ち葉かな(H3)
風花に墓石も赤し山上三太夫(H4)
追いついて二羽となりけり寒雀(H4)
時雨きてナメクジとなる裸婦の像(H4)
雀来て少し揺れたる冬の枝(H5)
二羽飛んで何もなきかな田(でん)の冬(H5)
冬晴れや天気男と呼ばれおり(H7)

 

弔辞(H20.3.15 故菅野善悦君葬儀)

☆ 弔辞朗読に先立ち述べる。
「善悦君、正明です ! 全く驚きました。とても信じられません。今からでも遅くないですから”悪い冗談だった”と頭を掻きながら出てきてください ! 」

長い冬が過ぎ、万物が光り輝く本格的な春の季節を迎えようとしている十日の朝、菅野毅旨さんから、大変なことが起きたと電話連絡がありました。
善悦君が亡くなったという話に、全く実感がわかず、一瞬時間が止まったような、不思議の国に舞い込んでしまったような気持ちでした。
気分にムラのない、落ち着いた人柄、堅実に積み上げ、着実な成果を出す善悦君が、一体どうしたというのですか。いつも身近にいたつもりの私に、何のサインも送らないまま、あの世に行ったきりになってしまうのでしょうか。
何もしてあげられなかった事に、今私は、大いに悔やんでおります。
私たちは、幼ななじみであり、善悦君の家のスモモの木に登って、お互いに食べあったこともありました。しかし、ケンカを含めて特別の思い出が少ないのは、なぜでしょうか。恐らく、癖のない、優しい、協調的な子供であったと思われます。それでいて、子供会では、同輩のトップで会長になったと記憶しています。信望があったと思います。
中学の時、私は、盛岡に転校し、その後、別々の地で生活しましたが、たまに帰郷した際は、いつもニコニコと「やあ、元気か。県庁で活躍しているようだね。」と迎えてくれました。
善悦君は、自分のことをあまり言わない謙虚な人物でしたが、その実、着実に大きく成長していました。
昭和四十一年、岩谷堂農林高校卒業後、富士産業に勤め、その後、千葉県内の不動産会社に移り、宅地建物取引主任者の資格を取り、南部土地(株)に就職されました。やがて昭和六十一年独立し、広和土地建物、次いで(有)ニコーホームを設立し、その経営者として着実に実績を積み重ねられました。
こうした力量と信望で、最近では、岩手県宅地建物取引業協会奥州支部理事兼副支部長、同じく県理事として、活躍されていました。
一方で、地域の活動にも熱心であり、私と同じ橋本部落で、農協総代や農家組合長などの役職を歴任し、率先して地域づくりに汗を流されていました。四十数年ぶりに地元に戻ってきた私にとっては、部落に残っている唯一の同級生であり、本当に頼りになる存在でした。善悦君とは、よくゴルフをしましたが、腕前は、一枚も二枚も上手で、たまに善悦君が出だしでミスショットを連発し、出遅れた場合でも、たちまち追いつかれ、抜き去られるのが常でした。その間、いつもニコニコ、爽やかなパートナーでした。
実は、大変なスポーツマンであり、二十代、富士産業に勤務していた頃、全日本実業団卓球選手権大会や全日本軟式卓球選手権大会などで選手として活躍していました。その後は、旧江刺市卓球協会や奥州市卓球協会の役員として、協会の発展に多大の尽力をされたのでした。
また、善悦君とは、良くお酒を飲みました。とにかく楽しい酒でしたが、飲んだ最後は、寿司やラーメンなどを食べないと収まりが悪いといった風でした。最近、お互いにメタボ腹が気になっていましたので、「控えようか」という話もしていました。岩谷堂で飲んだ時などは、歩いて帰ろうと言われて、何回か付き合ったものです。ほかの同級生から交通事故が心配なので、止めるべしと忠告されて、止めましたが、今となっては、もう一度二人で、月夜の道を歩きたいものです。
善悦君はまた、家族想いでした。昨年ふらりと来訪し、色紙を一枚書いてほしいと言うことでした。聞けば、息子さんを中心に学習塾の仕事を立ち上げる、ついては、教室に飾る色紙がほしい、中身は任せるということでした。そこで、さんざん古典を調べ、考えた挙句、「学上達」という言葉を選び、色紙にしたためました。大変喜んでいただきましたが、私は、家族思いの人柄を強く感じたところです。
選挙についても話さなければなりません。江刺市長選、奥州市長選では、同級生のけん引役として、陰に陽に大変な力を発揮していただきました。そうした中、一旦危機が訪れた時は、真っ先に会いに来て、とにかく頑張ろうと励ましてくれました。奥州市長選では、知己の少ない水沢区内を仕事や趣味などあらゆるネットワークを生かして案内してくれました。感謝の言葉もありません。
せっかく市長に押し上げたのに、大丈夫かとご心配のことと思います。初代奥州市長として、間もなく任期の折り返しに入りますが、山積する難問に立ち向かいつつ、市勢の発展と市民の幸せ向上のため、邁進致しますので、どうかご安心ください。
善悦君は、一足先に極楽浄土に出向き、良いゴルフ場を早くも見つけ、懇親会付きのゴルフコンペを楽しみながら、同級生の来着を気長に待っているかも知れません。
いずれ、合流するとしても、こちらは、まだまだやらなければならない事が沢山残っています。もうしばらくお待ちください。
別れがたい思いは、尽きることがありませんが、善悦君の愛してやまないご家族に限りない御加護をお願いしつつ、この辺でお別れと致します。

弔句    極楽の ゴルフ場にも 春の雨     江山

善悦君、ありがとう! 本当にお世話になりました。
安らかにお眠りください !

平成20年3月15日
奥州市長 相原 正明

 

相原正明・奥州市長 有権者が選んだマニフェストの神通力「総合計画」で都市像を明確に示す

「毎日フォーラム 日本の選択」2008年1月号ー「発信」ー

奥州市民☆文士劇「水戸黄門」の楽屋で作家高橋克彦氏と私

平成19年11月9日、六本木アカデミーヒルズ49階で第2回マニフェスト大賞授賞式があり、東国原宮崎県知事と並んで、首長部門審査員特別賞を頂いた。なお、大賞は、松沢神奈川県知事であった。
奥州市は、平成18年2月20日、5市町村(水沢市・江刺市・前沢町・胆沢町・衣川村)が合併して、人口約13万人の岩手県第二(人口)の都市となった。
合併して最初の選挙(06年3月)に立候補するにあたって、私は具体的な政策公約であるマニフェストを掲げて臨んだ。その内容とその後の取り組みが評価されたということであった。
マニフェストの内容は、「副県都の構築」、「自治基本条例」などの23項目の全体編と、合併協議における新市建設計画の事業を五つの旧市町村ごとに掲載した27項目の地区別編から成る。
就任後は、「マニフェスト担当課長補佐」という職名の職員を置き、専門に施策推進と進行管理に当たらせるとともに、1年ごとに評価(自己評価)して公表している。 かって、平成15年(03)の統一地方選挙において当時の増田岩手県知事(現総務相)が全国に先駆けてマニフェストを掲げて当選した。私はその時の言葉が忘れられない。県職員が、当選直後にマニフェストの内容を実現するための方策を早くも提案してきたというのだ。
このことは、私も実感した。マニフェストの全体編の内容は、いわば全国最先端的な施策である。まずは、思いつきと受け止められがちで、実際に政策の実施に向けて職員に全力投球させるには、相当の準備とエネルギーを要することを予想していた。ところが、いわば有権者からお墨付きを頂いた形のマニフェストには、神が宿ったかのような力、つまり神通力があるようだ。これは、市議会に対しても同様であり、議員側の理解に格別の感がある。就任1年以内に議決を得て定めた「市総合計画」の目指すべき都市像は、「歴史息づく健康文化都市・産業の力みなぎる副県都」である。それを実現するための三つの戦略プロジェクトは、「子育て環境ナンバーワンプロジェクト」、「知識集積型都市・高度教育都市構築プロジェクト」、「世界文化遺産を核とした文化交流・観光プロジェクト」であるが、いずれも私が選挙で掲げたマニフェストに関連があるものだ。

全国の首長のみなさん、是非マニフェストをお試しあれ !

奥州市長 相原 正明

 

ー 副 県 都 の 創 造 ー

「地方行政(H19.6.18日号)ー時事通信社ー」の「道標」欄から転載

相原正明(あいはらまさあき) 岩手県奥州(おうしゅう)市長

玄関の八角蓮(はっかくれん)

本年2月の臨時議会において、奥州市総合計画基本構想が議決されたが、その計画においては、目指すべき都市像として、「歴史息づく健康文化都市 産業の力みなぎる副県都」と謳っている。

当市は、平成の大合併で、水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村の五市町村が一つになり(平成十八年二月)、人口十三万人の県下第二の都市になった。

私は、この機会に岩手県における県都盛岡市一極集中時代を脱し、来るべき道州制時代をも展望した、強力な中核的都市を構築すべきと念願した一人である。

無論、一朝一夕に叶うことではなく、相当の年月を要する話ではあるが、大きく、明確な方向性を持った基本目標として有用と考えた。

合併直後の市長選挙においては、50項目のマニフェストを掲げたが、その一番目に次ように記載している。

政策1 副県都の構築

〔目標〕 岩手県の県都盛岡に準ずる都市機能を集積し、東北の中核都市への展望に繋がるように施策を推進します。

〔方法〕 国・県・公共的団体の拠点的機能、さらには全県レベルの企業や団体の本社・本部機能の奥州市立地を一つずつ具体化します。

〔期限〕 二年以内に副県都構築構想を樹立し、具体化に着手(運動展開など)
〔財源〕 百万円(構想策定・運動経費)

市総合計画においては、「副県都を目す戦略プロジェクト」を施策の柱に位置づけ、さらにその具体化として、「①子育て環境ナンバーワンプロジェクト」、「②知識集積型都市・高度教育都市構築プロジェクト」、「③世界文化遺産を核とした文化交流・観光プロジェクト」を推進することとしている。

「副県都」の概念は、全国的に確立された定義はなく、その用語活用もほとんどないと思われるが、新生奥州市の『気概』として、その創造に向かって、市民と共に、一歩ずつ前進していきたい。

 

市民年賀の会挨拶(H19.1.4)

市民の皆様、新年明けましておめでとうございます。

亥年の正月は、近年になく暖かく、明るく、穏やかでした。知らず、この一年の無事と繁栄を願ったしだいです。
新年を迎えた瞬間に私が思いましたのは、「新しい年の初めに既に奥州市」であるということです。昨年が、合併の産みの苦しみと、ようやく立ち上がろうとした年であったとすれば、今年は、奥州市として歩き出す年だと思います。
無論、合併時の約束や願いを踏まえつつ、こんな気持ちで一緒に駆け抜けてみたいと考えています。

まず、今年まもなく総合計画がまとまりますが、この総合計画のキーワードを「副県都」としてまいります。都市の発展方向についての大きな目標であり、県都盛岡市に並び立つぐらいの気構えで、行政機能、産業、環境、福祉、教育文化のあらゆる力強い振興を図っていこうとするものです。年度内に議会の議決も得ながら、決定し、これに基づいて、市民の皆様と共に歩みだします。

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なお、合併時の大きな課題であった学校建設などの事業については、財源の目鼻をつけた状態で計画計上できる見込みであります。
次に、行財政改革の実施であります。この計画もほぼ出来上がり、5年間で70億円余を生み出す内容となっております。無論単に財源を生み出すということではなく、行政の効率化、市民サービスの向上に結び付けてまいります。痛みの伴う部分も当然ありますので、市民皆様の理解と協力を得ながら進めてまいります。
競馬問題解決などの負の問題を解決し、新しい財源を生み出し、力強い副県都を構築してまいります。

更に、私の公約・マニフェストの推進についてでありますが、本年は、住民投票制度などを内容とする自治基本条例の制定などについて、盛んに市民の論議を起こしながら進めてまいりたいと思います。マニフェストについては、1年ごとに検証し、公表しながら推進してまいります。

今年は、後藤新平の生誕150年記念行事、姉妹都市オーストラリアのグレーターシェパートン市への公式訪問、平泉世界文化遺産登録に向けた取り組み、岩手競馬の再生など多くの事業や課題を抱えております。

市民の皆様との対話を深め、共同作業として、新市を大いに発展させて参りたいと思います。

今年一年の皆様のご健勝と新市の限りない発展を祈りながら、念頭のご挨拶といたします。

 

― 「熱意」と「常識の優先」と「断固たる実行」と ―

「ザ選挙」のリレーエッセイー忙中閑話―原稿(H18.6.26)

早稲田大学マニフェスト研究所の草間剛さんから、「ザ選挙」リレーエッセイー忙中閑話―の原稿執筆依頼が突然舞い込んだ。

奥州市合併(平成18年2月20日に水沢市・江刺市・前沢町・胆沢町・衣川村が合併して、13万人余の県下第二の都市を誕生させる)後の初の本格予算を審議する議会開会中であり、期限までに間に合うか約束できないような状態であるが、この度の奥州市長選(三つ巴)を制する原動力となったマニフェストの”家元筋”からの話でもあり、眠い目をこすりながらしたためることとした。
担当の草間さんからは、「奥州市の地場農産物」のテーマについてサジェッションがあったが、それは、次の機会ということにしたい。
ただ、一言だけピーアールさせていただければ、食味ランキング11年連続特A(トップランク)の米(ひとめぼれ)、全国ブランドの前沢牛、同じく江刺リンゴの産地である。

北側の庭のバラ

さて、表題は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」から、私なりに得た感想の凝縮である。
時は、日露戦争時(1904-5)、所は、中国の遼東半島突端の旅順港とその背後地203高地である。
劣勢な極東ロシア艦隊は、旅順港内に潜み、東郷平八郎率いる日本艦隊が湾口を封鎖しているが、陸地砲が備えられているため、湾内に入って攻撃できない。迫りくるバルチック艦隊到着前に殲滅しなければならない。
そこで、背後の203高地を占領すべく、乃木希典将軍率いる第三軍が攻撃するも、何ヶ月かけても成果を出せないばかりか、すでに2万数千人の死傷者の山を築いている。
この危機の中で派遣された児玉源太郎大将は、砲兵専門家によって「据付に一個のビルを作るほどの基礎工事が必要などといった理由で不可能」とされていた28センチ榴弾砲(東京湾の要塞砲)クラスの重砲の陣地転換を「1門に1万人がかかってロープで引っ張ってでも24時間以内に実行せよ」と厳命(児玉の常識判断に基づく)し、しゃにむに実現させた。
そして、直ちに203高地の要塞を砲撃し、なんと2時間足らずで占領してしまった。明治37年12月5日のことである。数日のうちに、眼下の旅順港に浮かぶ戦艦4隻、巡洋艦2隻、小艦艇十数隻を撃沈もしくは破壊し、作戦は、終了した。
かって、私は、この題材をもって管理職員研修を行ったことがある。

表題のタイトルは、決して大げさなものと思わない。トップとして常に遭遇することであり、対処の際の教訓となることであると思う。

岩手県奥州市長  相原正明

 

弔辞(故千田善治様葬儀・H18.4.22)

本日ここに、千田善商店社長千田善治様の葬儀が執り行われるに当たり、心から哀悼のまこと を捧げ、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
叔父さん、千田善治の叔父さん! 奥州市長の相原まさあきです。一体どうしたのですか。つい 1週間前に退院したばかりではないですか。元気に笑っておられたではないですか。
市長選当選直後に、胆沢病院にお見舞いした際、新聞を片手に大喜びされましたね。
退院直後に、ご挨拶に伺った際は、早速、新市の三役・区長の人事が素晴らしかったとほめてく ださいましたね。
いつも見守り、励まし、そして本人には心配をかけないように根回ししてくださいました。
あれは何時(いつ)だったでしょうか。昨年の後半、秋も深まった頃だったと思います。
奥州市合併が決まり、合併に必要な協議も順調に進み、奥州市長選挙に向けて、世の関心も高ま り、当時江刺市長であった私に対する期待の声も寄せられ始めていました。
思い悩んでいた私は、まず、政治・経済の世界に造詣が深く、しかも最大の人口を抱える水沢の 中心部で活躍されている善治叔父さんに相談してみようと思い立ちました。
その時私は、積極的に出馬を考えたいという風に切り出したと思います。
じっと聞いていたおじさんは、「大変な要素があるが、頑張ってみたら」と同調してくれました 。その後、鉄の意志のごとく、善治おじさんの考えは、ぶれることがありませんでした。
水沢地区はもとより、江刺以外の他地区の後援会の構築は、困難を極めましたが、常に私を支えるように行動され、ついに五地区すべての後援会体制を実現させたのでした。

れんぎょう

また、水沢の市街地を挨拶回りしていたとき、あまりの反応のよさに驚き、感激したのでしたが 、よく聞いてみるとすでに善治おじさんが根回しした地域でした。
おじさんは、武田信玄の風林火山の歌が得意でした。「速きこと風の如く、閑(しず)かなること 林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」
まさに、この歌を地で行くような形で、大きなお支えとお力を頂き、初代奥州市長に当選する ことができました。
このご恩は、生涯忘れるものでは、ありません。本当にありがとうございました。
おじさんは、太平洋戦争に出征、さらにはシベリア抑留という大変な苦難を経て、郷里に帰還 され、家業の千田善商店を継ぎ、立派に経営を確立されました。
この間、水沢商工会議所議員や常議員を長年勤められ、数々の表彰を受けられました。また、昭和53年から1年間水沢ライオンズクラブ会長を勤められたほか、大町東南地区土地区画整理事業で中心的役割を果たされました。
さらには、平成4年から16年まで日高火防祭り保存会副会長として活躍され、平成9年から17年まで株式会社水沢商工会館社長の重責を担われたのであります。
このように、商工業や文化振興にかかわる多くの役職を歴任され、地域振興に大きく貢献されました。改めて、敬意を表し、感謝を申し上げます。
家族を残されての急な旅立ちとなり、大変心残りでありましょうが、家の方は、お孫さんの将智専務を始め、後継者が立派に育っております。家業の推進体制は、磐石と思われます。また、私ども一族あげて協力いたしますので、ご安心ください。
初代の奥州市長に当選させて頂きました私も、ご期待にたがわず、産業の力のみなぎる、福祉 が充実し、文化の薫り高い、力強い副県都を構築して参ることを、ここにお誓いいたします。
申し上げれば限りもなく、惜別の情は、尽きませんが、ここに改めて在りし日のご遺徳を偲び つつ、重ねて感謝申し上げ、ひたすらご冥福をお祈り申し上げますとともに、残された遺族にご 加護を賜りますようお願い申し上げまして、お別れの言葉といたします。

善治叔父さん、安らかにお眠りください。

平成18年4月22日 奥州市長 相原正明

 

藤原経清公命日祭(H17.9.17 AM6 江刺市岩谷堂五位塚史跡)

藤原経清公供養塔

秋が深まり、日に日に涼しさが増しておりますが、好天の中、今年も藤原経清公命日祭が関係者多数のご参列のもとに開催されましたことを、まずもっておよろこび申し上げます。

毎年、遠路ご臨席いただいております中尊寺の千田孝信貫首様に敬意を表しますとともに、主催されました地元の餅田史跡保存会の菊地勝一会長ほかの皆様に感謝申し上げます。

奥州藤原氏の初代清衡公の父にあたる経清公は、もと亘理(わたり)の人で前九年の役の当初は、源頼義方に加勢しておりましたが、後に妻の父である安倍頼時の方に移り、貞任とともに朝廷軍に対抗して大活躍したことは、ご承知のとおりであります。

武運つたなく、厨川の柵で1,062年(康平5年)に処刑されて以来、943年の歳月が流れました。
佐藤孝一さんの「陸奥太平記」を読むと、厨川の柵が、滅ぶ際、経清公は、妻の中加(なか)に、当時7歳であった清衡のために、辛苦を乗り越えて生き延びるように諭します。

中尊寺千田貫首(向かって左)ほか

一緒に死のうと思っていた中加は、やむなくその言に従って捕虜となり、やがてその美貌と安倍氏の血筋の故により、敵方の将である清原武則の子武貞に再婚したのであります。
このことが、その後の奇跡的な清衡の勝ち残りー後三年の役での勝利ーに繋がり、藤原黄金文化へと進展していくのです。

経清公のご命日に当たり、改めてこうした歴史を振り返り、ご遺徳をしのぶとともに、同公が本拠地とし、清衡公の出生の地ともなった江刺(館は、豊田館(とよだのたち))の貴重な宝として、こうした史跡等を今後一層守り、育てていかなければならないと思う次第であります。
改めて、これまでの関係者のご尽力に感謝を申し上げ、ご挨拶と致します。

(H17.9.25  掲載)

 

江刺市成人式式辞(H17.8.15 江刺市体育文化会館)

新成人の皆さん

平成17年度の江刺市成人式をとり行うに当たり、明るくはつらつたる皆様にまずもって、成人のお祝いを申し上げます。
また、皆さんを今日まで慈しみ、育まれてきたご両親、ご家族の皆様に併せてお祝いと感謝を申し上げます。
皆さんは、すでに社会人として仕事をされている、あるいは勉学に励んでいる方々ですが、成人を機会に世の中の動きに大いに関心を示されていると思います。

振り返りますと、昭和30年代から高度経済成長が続きましたが、毎年のように給料が上がり、事業の規模が拡大するという時代でした。しかし、平成に入って、バブルがはじけ、以後、長く景気が低迷しています。
この間、江刺におきましては、経済成長下に人口が流出し、昭和45年には過疎地に指定され、低迷が続いておりましたが、昭和57年に東北新幹線が開通し、その3年後の昭和60年に水沢江刺駅が誕生しました。

さらに昭和55年に分譲を開始した江刺中核工業団地への企業立地が順調に進み始めました。平成5年には、NHkの大河ドラマと連携しながら、「歴史公園えさし藤原の郷」がオープンし、県内の代表的観光地として全国的に江刺の名を高めました。その後、蔵を活かした街づくり、農業面では江刺金札米、江刺リンゴなどによって着実に力をつけ今日に至っております。

さて、来年2月20日に江刺市は、水沢市、前沢町、胆沢町、衣川村と合併し、人口13万人余の県下第2の都市奥州市となります。その意味でこの成人式は、江刺市としての最後の記念すべものであります。
私は、行政や産業の中核的機能を集中させて、副県都を構築するとともに、大学や高度な研究機関の知的ノウハウを活用し、産業振興や生活環境の向上に役立てる知識集約型の都市づくりを進め、さらには、大学の誘致などを含め、教育と芸術文化・スポーツを盛んにし、健康・福祉の充実した新都市の創造を目指すことが大切と考えております。

市長の式辞

これからの時代は、まさに皆さんの時代です。
まず、積極的に人の輪に入り、あるいは自らそれを作り、大いに論議し、切磋琢磨の中で、自分を鍛えながら世の中の様々な問題に取り組んで頂きたいと思います。
そして、夢を持ち、その実現に向かって、努力し続けて下さい。必ずや成果が得られることと思います。「成功するまで続けないことを失敗という」とも言われます。是非頑張って下さい。

皆様の洋々たる前途を祝福し、健康で存分の活躍をされるようお祈りし、式辞と致します。

平成17年8月15日   江刺市長 相原正明

 

市長から職員への手紙(H17.7.14)

拝啓 梅雨の最中に蝉の声を聞くこの頃ですが、お変わりありませんか。
クールビズは、すっかり板についたことと思います。正直なところ、私は、雨の朝などは幾分寒さも感じて、ネクタイが恋しくなりますが、「運動として取り組んでいる」と思い直しています。

さて、今日は3点(私は、3という数字が好きなようです。)について述べます。

1点目は、合併協議の進展です。
7月7日に今年度2回目の合併協議会があり、事務組織及び機構についても報告されました。本庁と総合支所の組織がほぼ出来上がり、配置人員数も内々固まりつつあります。本庁には、各市町村から一定割合(標準財政規模割合が基本)で職員が配置されます。まさに職員レベルでも融合(合併)して新市の建設に当たることになります。

このほか、納税関係事業、国民健康保険事業の取り扱いなども報告され、調整作業が着々と進んでおります。
職員の皆さんは、通常業務に加えての合併協議事務で何かと大変と思いますが、宜しくお願いします。

2点目は、市長権限の内部委譲です。
4月に申し上げていましたが、内部調整が終わり、7月1日から実施しています。

事務の効率化、迅速化を図るため、専決規程の見直しを行ったものです。一例を挙げますと、委託料に関する支出負担行為の助役専決額を1,500万円未満から3,000万円未満に、財政課長専決額を300万円未満から1,500万円未満に引き上げました。こうした措置により、従来市長決裁だった支出負担行為の約40%が助役決裁に、従来助役決裁だったものの約65%が財政課長の決裁に、水道事業所においては、従来市長決裁だったものの約80%が所長決裁となります。改正の趣旨を生かした取り組みをお願いします。

3点目は、市長と職員の意見交換会の様子です。
月2回のペースを堅持して行っていますが、6月は、保育士や幼稚園教諭の方々に多くお会いしました。正規職員の適正な人員配置を求める意見や一人一台パソコンの徹底配置を望む意見などが活発に出されました。
現場での苦労がヒシヒシと伝わってきました。できる限りの対応に努めて参ります。

なお、以前にも話しましたが、「地域住民の一人として地域行事へ参加してほしい。」との声が寄せられることがありますので、事情があるとは思いますが、宜しくお願いします。

これから暑さが一層増して参ります。十分ご自愛ください。

敬具

 

社長から社員への手紙(H17.7.14)

拝啓 梅雨明け前は、どこか肌寒く、時折聞く蝉の声に夏を思い出しているこの頃ですが、お変わりありませんか。

お蔭様で、義経ブームの勢いは続いており、藤原の郷の入場者も前の年と比べて、3倍近くに伸びています。他の施設でも健闘しております。

社員の皆さんには、献身的に来客増などに対応していただいており、感謝にたえません。
このような意味合いも込めて、今夏のボーナスは、前年よりも多目の支給とさせて頂きました。

さて、開園十年余となった、えさし藤原の郷の建造物群は、大分傷んできております。
奥州市合併を控えて、できる限りの補修をしたいと考えておりましたが、このたび、6月市議会で、約1億5千万円の予算を認めて頂きました。
早速、設計・工事に取り掛かっております。
このリニューアルによって、より観光拠点としての輝きを強めたいと思います。

ところで、7月13日の会社主催の恒例のゴルフコンペでは、取引先の企業さんに多数(50人超)参加頂きました。
私は、公務の都合で開会式のみの参加となりましたが、始球式では、シングル級(!?)のナイスショットを飛ばすことができました。
この調子で、会社を運営できればと願うばかりです。

社員の皆さんの一層のご協力をお願い致します。
暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

敬具

平成17年7月14日

社員の皆様
社長 相原正明

(注) 社長は、江刺開発振興株式会社(歴史公園えさし藤原の郷ほかを経営)の社長

 

相原正毅著「橋本の今昔」に寄せて(平成17.6.25)

このたび、父正毅が世の中にまた著作を出すという。これで何冊目であろうか。
自分史である「わが来し方わが出会い」(昭和61年)、地域の習俗を現した田谷老人クラブ発行の「田谷の婚礼と葬儀の昔物語」(平成5年)、田谷戦争体験記を作る会名で出した「あの時の思い出ー戦争とその前後ー」(平成7年)、身内にのみ配布した「わが陸軍記」(平成13年)などをこれまで発表している。

発行人:相原正毅 (岩手県江刺市愛宕字橋本119番地) 発行日:平成17年6月25日 題字:相原ミツ(北路)

「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言われるが、私は、人は文字を残すことも大事だと思う一人である。
司馬遷の「史記」などを見てつくづく思う。
そういう意味でこうした父の試みは、大賛成である。
無論、自分も追いつきたいと密かに考えている。

ところで本題に戻ると、今回の「橋本の今昔」は、父が橋本公民館長をしていた平成元年に集落向けのミニ新聞として発行し、およそ13年間にわたって73号に達した「橋本だより」を「絆」、「学び」等の項目別に編集し、執筆者を明記しながら、橋本の生きた歴史として集大成したものである。
一つの時代に橋本を支え、そこに生きた人々の息づかいや思いを証言として、後世に伝えようとしたものといえる。
橋本人の共同作品でもある。

地域の人々による文化面を含めた特色ある地域作りは、江刺市政の目標でもある。
そんな思いも込めながら、広くかつ末永く読まれ、親しまれることを期待したい。

 

エチオピア駐日全権大使歓迎レセプションにおける挨拶(H17.6.3)

テナステリン ! (こんにちは !)  私は、江刺市長の相原正明です。
エチオピア駐日全権大使コアング・トゥトゥラム・ドゥング様と奥様を心から歓迎致します。
先ほど、市長室でお会いしましたが、東京より北にお出かけになられたのは、秋田に次いでこの江刺とのこと、大変光栄です。
また、エチオピアの数字がデザインされたネクタイも頂き、早速身に付けました。素晴らしいおみやげを大変ありがとうございました。

このたび大使におかれましては、五井(ごい)平和財団が全国の小・中・高の学校で推進している平和教育プログラムの一環として、江刺の児童生徒等と交流するため、おいで頂いたところです。
明日の講演会が大変楽しみです。
この企画を実現して頂きました五井平和財団、江刺市国際交流協会はじめ関係の皆様、特に財団の会員で市内(広瀬)在住の細川さんご夫妻に心から感謝申し上げます。

皆様ご承知のとおり、エチオピアの国は、アフリカ大陸の北東で、ケニアの北にあり、アフリカの角と呼ばれております。
人口は、6,500万人、面積は、日本の約3倍です。アフリカの中でも植民地化されず、独立を貫いた国であり、アフリカで唯一固有の文字を持っている国であります。
コーヒーの発祥地であり(エチオピアのコーヒーは「モカ」)、また、マラソンのァべべ選手やロバ選手、ソロモン王朝の最後の王であるハイレセラシエ王を知っている方も多いと思います。

3時間ほど前市長室では、農業が中心であること、金が採れることー但し江刺の場合は昔のことーが共通していると話題になりました。
少子化問題にも話が及びましたが、日本の女性が一生の間に生む子供の数が2人を大きく割り込んでいる(1.29人)と話したところ、エチオピアでは5人ぐらいで、むしろ人口抑制が大きな課題であるとのことでした。今後の国力のことを考えるとうらやましいような気がしました。

また、ユネスコ世界遺産が7つあり、さらに2カ所追加申請の予定ということでした。日本では、白神山地など12 ありますが、江刺と縁の深い平泉は、現在暫定リストの段階です。大使に応援をお願いした次第です。

江刺では、在住外国人が約130人おり、ケニアからお嫁に来ている本日出席のンドゥトゥ・メリセラ・ムズイさんもその一人です。
市と国際交流協会や関係者が協力して、もっと国際理解の活動を進めたいと思います。

それにしても、エチオピア語(アムハラ語)の中に
貴方 = アンタ 、 貴女 = アンチ 、 非常に = バッタン、 美しい = コンジョナシ
貴女は非常に美しい =  アンチ バッタン コンジョナシ
とあるのには、何となく日本語に近いところもあり、親しみを覚えました。

大使のお人柄も大変気さくとお見受けしました。皆さんで大いに交流しましょう。

これで歓迎の挨拶を終わります。
アマセグナロ !(ありがとう!)

 

平成17年度江刺金婚を祝う会における祝辞挨拶(H17.5.24)

本日平成17年度の江刺金婚を祝う会が盛大に開催され、153組の方々が金婚を迎えられましたことに、心からお祝いを申し上げます。
該当の方は、昭和30年4月2日から31年4月1日までに結婚をされた方々です。
永年の地域や市政に対するご貢献に深く感謝申し上げます。

昭和30年と言いますと、江刺郡の1町9村が合併して江刺町となった年であり、皆様は、合併新自治体とともに歩まれたともいえます。また、「もはや戦後ではない」との言葉とともに、日本が高度経済成長期に入った時期でもあります。
こうした中、江刺においては、首都圏などへの人口の流出が続き、昭和45年には過疎地に指定されるなど、苦しい時期ともなりました。その後昭和55年には江刺中核工業団地の分譲開始、昭和60年の新幹線水沢江刺駅開業、平成5年の歴史公園江刺藤原の郷開園、蔵のある街づくり推進といった大きな成果を積み重ね、人口の流出を次第に食い止めながら、過疎からの脱却をめざし、市民一丸となって地域振興に取り組んできたところであります。

この間の皆様方の献身的なご努力に改めて敬意と感謝を申し上げる次第であります。
来年2月には、奥州市としてスタート致しますが、人口13万人余の副県都を目指して邁進致しますので、皆様の高い識見や豊かな経験に基づいた、一層のご高配を頂きたいと存じます。

さて、市の広報の中に、「めおと50年」というコーナーがあり、いつも楽しみにして読んでおりますが、それを見ると、「親同士が決めた結婚」、「その日1時間会っただけで半年後には結婚」、「農作業が大変でつらい思いもしたが、お互い何でも話して理解し、くよくよしないのが良かった」ということであったようです。
また、これからのことについては、ー若干気になったのですがー夫の側が「妻と二人で温泉に行きたい」と言うのに対し、妻の側のセリフは、「友達と行きたい」と言うようなところがありました。
いずれにしても、いつまでも仲むつまじく、ご健康で長生きをして頂きたいと思います。

あわせて、私たち後輩によろしくご指導くださるようお願い申し上げまして、お祝いのご挨拶と致します。
本日は、誠におめでとうございました。

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