相原正明の個人オフィスのホームページです

2008年4月〜2009年3月

メールマガジン 第40号〜第51号

第51号

謹啓 朝食を取りながら、朝のテレビドラマを見ていると、窓の外に妖精のような大粒の名残雪が次々と降り立ってきました。春まだ浅きこの頃です。メルマガ第51号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第51号(H21.3.31)
戦国武将と健康管理

自衛隊ヘリ搭乗後、大隊長さんと記念撮影(H20.6)

NHK大河ドラマ「天地人」が茶の間の人気を集めているようだ。奥州市の歴史公園「えさし藤原の郷」がロケ地になっていることもあり、毎回楽しみに見ている。
序盤の山場に、上杉謙信(1530―78)が突如みまかり、深刻な跡目争いが起きるストーリィがある。武将の死イコール滅亡の危機でもある。謙信は何故このようなことになったのであろうか。食生活習慣そして健康管理は、どうであったのか。

火坂雅志著「天地人」によると、「謙信は、厠(かわや)を出たところで、突如倒れた。脳卒中であった。8年前にも軽い脳卒中を起こしている。後遺症で手がふるえ、書状の花押が書けないようになり、以来、印判を用いていた。今回の発作は2度目である。酒を愛した謙信ならではの病であり、塩辛いものを多く取る越後の食生活、永年にわたって心身を酷使しつづけた無理なども原因になったと思われる」。

他の資料によると、「大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方を好まず、ひとり縁側に出て、梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと言われる」。また、「酒の飲み過ぎからくる胃癌、食道癌説もある」。
天正6年(1578)3月13日(旧暦)逝去、享年49歳であった。これで、織田信長(1534―82)は、天下取りがぐっと間近になった。

当時の健康管理の教えはどうなっていたのであろうか。特段の情報もなく、なんらの対策も取っていなかったかもしれない。謙信がもし現代の奥州市に生きていれば、「健康おうしゅう21プラン」によって、もっと長生きできたことは、疑いない。同プランによれば、市における三大死因が、がん、脳卒中、心臓病であることから、「血管の若さを保つ良い生活習慣を続ける」ことを目標に掲げている。市民に対しては、「塩分を控え、バランスの良い食事を心がける」、「定期的な運動を行なう」、「適正体重を維持する」などを呼びかけている。また、市として、「健康診査・保健指導を実施する」、「メタボリックシンドロームについての情報や知識を身につけさせる」、「バランスよい食事メニューの提供を図る」としている。

「上杉謙信と現代」というテーマで思い出すのは、1979年に角川映画として制作された「戦国自衛隊」である。当時、大ヒット映画となった。ストーリィは、「伊庭三尉(キャスト千葉真一)を隊長とする近代武器で武装した21名の陸上自衛隊員が、演習に参加するための移動の際、偶然、補給地ごと戦国時代にタイムスリップしてしまい、成り行きから、後の上杉謙信となる長尾影虎(キャスト夏木勲)に味方することになり、天下を取ることを決意することになるが…」というものである。

この映画では、戦車やヘリコプターなど近代兵器のみ目立ったが、もし優れた軍医がいて、謙信に健康管理上のアドバイスをしっかり行なったならば、”歴史にいたずらして変えてしまう”とまで行かないレベルで、謙信を長生きさせることになったのではないか、と想像してしまう。

戦国武将の中で、健康管理の面でも出色なのは、徳川家康(1543―1616)で、当時としては極めて長寿の満73歳まで生きた。秀吉 (1537―98) の死後18年も長生きしたことにより、豊臣政権を倒し、徳川幕府体制を確立したのである。
家康は、健康オタクとも言うべき健康管理人であった。食事のつりあいや消化の良さなどを考えて、台所に献立を通達したいたといわれる。生薬にも精通し、その知識は、専門家が舌を巻くほどのもので、自分で調合していたとも、孫の家光の大病を治すのに役立ったとも伝えられる。司馬遼太郎は、「運動が健康にいい事を知った日本で初めての人物かも知れない」と述べている。
なお、家康は、鷹狩りに出た先で倒れ、その3月後に亡くなったが、死因は、鯉の天ぷらによる食中毒説が有力である。胃癌か梅毒という説もある。

最後に、「WHO健康都市」について触れたい。これは、世界保健機関が進めている取り組みで、世界中の都市で健康を維持し、高めていく条件が悪化しているという認識のもと、保健医療の分野だけではなく、福祉や環境、教育、文化、まちづくりなど、私たちの健康にかかわっている広い分野で地域を挙げて活動していこうとするものである。しかも、その取り組みを都市が単独で行なうのではなく、同じような目的を持った都市が結束することで大きなパワーにしていこうとするものである。

千葉県市川市(人口約47万人)では、「WHO憲章の精神を尊重した『健康都市いちかわ』宣言」を行い、「体と心―保健・医療」、「社会―福祉・地域・労働環境・安全確保」、「文化―文化芸術・教育・スポーツ・アメニティ」、「まちー生活基盤・バリアフリー・環境」を組み合わせた健康都市プログラムを樹立し、先進的に取り組んでいる。

謙信も家康も後世の健康管理がここまで進んでいると知ったなら、切歯扼腕したことであろうか。

新しい皮袋に新しい酒と申します。間もなく始まる新年度には、新発想で大いに飛翔したいものです。ご健勝・ご活躍をお祈り致します。

小園亭主 敬白

第50号

謹啓 木々に宿る子雀も、道の辺の残雪の下の草の芽も、躍動の時機を窺っているように感じられますが、いかがお過ごしですか。メルマガ第50号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第50号(H21.2.28)
齋藤實とフランクリン・ルーズベルト

市民劇「陽だまりのなかの春子さん」楽屋風景

2月7日と8日の2日間、水沢区のZホールで市民劇「陽だまりのなかの春子さん」が上演され、両日で2千人余の人々を感動させた。
これは、齋藤實生誕150年記念事業のフィナーレを飾るイベントとして、その実行委員会が企画したものである。作家の松田十刻さんが原作を書き、地元の渡部明さん(劇団芸術劇場所属)が脚本を担当し、同じく地元の高橋瑛子さん(瑛子語り草子の会代表)が演出した。
多くの市民がキャスト(配役)として参加しており、2.26事件の際の陸軍兵士役には、水沢第一高等学校の野球部の生徒さんが扮した。
不肖私も「年番長」役で出演した。年番長とは、日高火防(ひたかひぶせ)祭りの囃子(はやし)屋台の運行責任者である。セリフは、一言で、春子夫人に囃子屋台の出発を告げ、ご覧いただくよう促すのである。

私が現職の市長のため、忙しいものと配慮していただき、事前練習は、当日の朝のみであった。それでも、セリフを覚えるのに夢中になったり、声や動作に工夫を凝らすために考えたりと、2日間は、あっという間に過ぎた。

平成21年度の予算を審議する市議会3月定例会の初日に、市長の市政方針を述べたが、その結びで、次のように齋藤實(1858―1936)とフランクリン・ルーズベルト(1882―1945)に触れた。
「今、私達は、未曾有の大不況という困難に遭遇しておりますが、歴史上このような事態はあったのでしょうか。七十数年前、それはありました。郷土の偉人、齋藤實翁が内閣総理大臣を拝命した時がそうでありました。
ときあたかも、アメリカでは、フランクリン・ルーズベルトが世界大恐慌の嵐の中、1933年に大統領に就任していました。ルーズベルトは、就任100日以内に、ほとんど全ての部門にわたる新しい経済・雇用対策―いわゆるニューディール政策―を実行しました。全国の銀行の業務再開、生活困窮者を救うための連邦緊急救済法の制定、TVA計画を始めとする公共事業の推進などであります。そして、アメリカ経済は最悪の状態から抜け出すことができたのです。

齋藤實の書

ほぼ同時期の1932年(昭和7年)、齋藤實翁は、内閣総理大臣に就任しました。当時の日本は、昭和の初めの金融恐慌以来、出口の見えない深刻な不況にあえいでいました。農村は疲弊し、失業者が街にあふれていました。こうした日本を救うべく、齋藤翁は国民に指針を示しました。それは、「自力更生」です。国民の自立的意思を高め、官と民とが相呼応して不況を克服し、難局の打開を図ろうとしました。このことを国民に向けてラジオで直接呼びかけるとともに、低金利政策による金融の円滑化、道路や農林土木事業の追加実施、貧困者の医療救護、小学校欠食児童への食料支給などの施策を実行したのです。
ルーズベルトのニューディール政策のスタートより1年早い実施でありました。

今、市民が不況に苦しみ、解雇の現実に出会うという困難の時に当たり、私達は、官民が力を合わせ、こうした先人の決断と実行の歴史をよく学び、今日の進むべき道を全力をもって歩まなければなりません。
そして、それは成長発展への新たな基盤を築くことに他なりません。
公選任期の最終年に当たり、渾身の力をもって、副県都の創造と新たな課題の克服を計らなければならないと強く決意するものであります。」

この二人には、上記のほか幾つかの共通点があるように思われる。
まず、就任直後に、ラジオで直接国民に呼びかけたことである。齋藤は、1932.5.26に内閣総理大臣に就任したが、7月6日に「自力更生」について述べるため、マイクの前に立った。ルーズベルトの方は、1933.3.4に大統領に就任し、3月12日には最初の「炉辺談話」でラジオを通して国民に直接語りかけ、”銀行はもう安全だ”と保証した。

もう一つは、二人とも特別の形に囚われない自然体で、実情に合わせて現実的に行動した政治家であったように思われる。齋藤が、首相に推された理由は、「海軍の中でも良識派、英語も堪能な国際派、東北人特有の粘り強さ、本音を明かさぬ慎重な人柄」にあった。同郷の1年先輩の偉人、後藤新平(1857―1929、東京市長、内務大臣)が鮮烈な意思と行動の人であったのと好対照である。

一方、ルーズベルトは、急進的な変革のプランは持たず、また、一貫した理論的な政策思想をも持ち合わせていなかったが、大胆な実験をも恐れない勇気と実践的精神を備え、現実の状況に巧みに順応する柔軟性を有していたといわれている。
両人とも「理想主義的現実主義」に立っていたのではなかろうか。

どうやら、私の理想とする型に両巨頭を無理に押し込めたかも知れない。しかし、一歩でも近づきつつ、急を要する今日の課題の解決に繋げたいという、偽らざる想いである。

いよいよ万物が躍動し始める弥生3月。張り切ってまいりたいと思います。ご健勝をお祈り致します。

小園亭主 敬白

第49号

謹啓 今年は元旦以来好天続きですが、何とかこの大不況の黒雲を吹き飛ばし、この天気のように回復すべく、渾身の努力をしなければと思っております。本年も宜しくお力添えをお願いいたします。メルマガ第49号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第49号(H21.1.31)
困難との遭遇そして脱皮へ

奥州市民文士劇で蕎麦屋の主人を演じる

百年に一度ともいわれる今回の”アメリカ金融恐慌発の大不況”は、まるで秋の夕日に例えられる”つるべ落とし”のように急であり、製造業などの売り上げや雇用が”真っ直ぐに早く”落ちている。今や受注減は、5割から7割にも達し、解雇も非正規雇用者のみならず、正規雇用者に及んでいる。歴史上このような大困難との遭遇はあったであろうか。
1782年から88年(天明2年―8年)にかけて、日本の近世史上では最大の飢饉が起きた。「天明の大飢饉」である。
東北地方の天候不良や冷害が長引く中、天明3年3月に岩木山、同年7月には浅間山が噴火し、火山灰被害だけでなく、日射量低下による冷害傾向が顕著になり、農作物に壊滅的な被害が生じ、深刻な飢饉状況となった。当時の田沼意次の政策とあいまって、米価の上昇に歯止めがかからず、結果的に全国的な飢饉に拡大した。
飢餓とともに疫病も流行し、最終的な死者は、全国で30万人とも50万人とも推定されている。弘前藩の例を取れば、8万人から13万人と伝えられる死者を出し、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況となったという。

こうした中、上杉鷹山(1751―1822)の米沢藩のみは、1人の餓死者も出さなかった。鷹山は新潟・酒田から米1万俵余を買い入れ、その資金として100石以上の家臣から金2分(1両の半分)を借り上げた。在郷の富農・富商と藩の備籾から五千俵の救米を出させたほか、町の物持ちから千両の御用金を徴収した。さらに、農民に対しては、飯のカテになり、冷害にも強い大麦を蒔くよう命じ、種麦を渡した。

鷹山は、翌天明4年には、前年の凶作を教訓として、長期の備荒備蓄の計画を立てた。家臣達に貸すお金を年利5分の20年返済とする制度を定めるとともに、藩の倉に毎年モミ5千俵と麦2千5百俵を蓄え、20年で15万俵を備蓄する計画とした。
この計画は、備籾倉の増設や新田の開発などによって着々と進められ、天明以降の大飢饉でも米沢藩から餓死者が出ることはなかった。

所は変わるが、同じ天明時代(1780年代)、伊達領内の江刺郡岩谷堂城(現奥州市江刺区岩谷堂地内)の城主岩城村将は、飢饉が続く中、米だけに頼る経済から脱皮しようと家臣の三品茂左右衛門に、箪笥の製作を命じ、また、箪笥塗装の研究をさせた。さらに文政年間(1820年代)には、徳兵衛という鍛冶職人が彫金金具を考案した。こうした取り組みが原型となり、伝統的工芸品として全国に知られる「岩谷堂箪笥」が誕生し、岩谷堂はその一大生産拠点となった。困難を克服しようとして努力した結果、新しい地域産業を創出したといえる。

さて、前号に引き続き、フランクリン・ルーズベルト(1882―1945)のニューディール政策である。
1933年3月4日に大統領に就任した時、世界大恐慌により、アメリカ経済は最悪の状態に陥っていた。失業者が街に溢れ、農村でも価格低落などで不満が高まり、暴動も起こりかねない状態だった。

就任後直ちに銀行救済のための緊急銀行法を制定し、ラジオを通して国民に「銀行はもう安全だ」と保証した結果、国民は銀行を信頼し、全国の銀行が業務を再開することができた。就任8日目のことである。
また、生活困窮者を救うために連邦緊急救済法を制定し、公共事業を推進する機構も整備し、さらに職のない青年を組織して植林活動などに従事させる民間自然保存部隊の構想を実行に移した。有名なTVA計画はその一環である。
農業分野では、農業調整法を制定し、農業不況を解決するため、作付け制限に同意した農民に政府が保証金を支給する一方、生産削減で価格の安定を図った。

こうして、6月16日に就任100日を経過した時、経済のほとんどすべての部門にわたり新しい政策が打ち出され、アメリカ経済は、最悪の事態を乗り切ったのである。
ルーズベルトの成功は、試行錯誤の中であっても、国民に行動の指針を与えることができたことにある。(以上、新川健三郎著「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」昭和59年清水書院)

時は移り、ルーズベルト就任後76年経過した本年1月20日バラク・オバマ氏が大統領に就任した。ルーズベルトの時代に匹敵するような大不況をいかに速やかに解決するかに全世界の注目が集まっている。日本経済の回復も基本的にそのことにかかっている。

まず注目すべきは、グリーン・ニューディール政策である。再生可能エネルギー(風力・太陽光・バイオなど)や省エネ技術などに重点投資することで短期的に雇用を生み出し、長期的には地球温暖化対策に役立てようとするものである。10年間で1,500億ドル(約13兆円)を投資し、最大で500万人の雇用を創出する狙いだ。
大統領就任演説でオバマは、「あらゆるところになすべき仕事がある。経済状況は力強く迅速な行動を求めている。私たちは行動する。新たな雇用を創出するだけではなく、成長への新たな基盤を築くためにだ」と述べている。

アメリカ大統領の良き伝統ともいえる”最初の100日での成果の達成”に期待しつつ、単なる対症療法で終わることなく、”新たな成長への脱皮”となることを強く願いながら本稿を終える。

不況の黒雲を吹き飛ばす願いを込めた新年の拙句をお届けしつつ、今年一年のご健勝をお祈り申し上げます。

新年の 雲を払いし 曙光かな   江山

小園亭主 敬白

第48号

謹啓 年末も大雪と道路の凍結があり、久方ぶりの車の運転も終始緊張気味でした。いかがお過ごしですか。メルマガ第48号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第48号(H20.12.31)
フランクリン・ルーズベルト

まず、私のホームページの今月の「心象スケッチ」欄に、写真を交えながら、次のように記した。
『アメリカ発の金融不況は、まるで台風のように、猛威をふるっている。あのトヨタ自動車が数十年ぶりに赤字を計上するということに象徴されるように、景気の牽引機関車であった自動車部門そして電子機器部品に使われる半導体の部門において、想像できなかったレベルで、売り上げが落ち込んでいる。
主に海外向けが、急激な円高とあいまって、不調のようだ。遂に、「百年に一度の不況」とまで言いわれるようになった。

これに伴い、深刻な雇用問題が発生している。いわゆる非正規雇用といわれる「派遣」や「期間雇用」の労働者が次々と解雇され、奥州市関係でも、既に200人を超えている。

緊急雇用総合相談窓口の設置

市としては、12月12日に「経済・雇用対策検討連絡会議」を開催し、国・県の機関との情報交換と対策の検討を行い、12月18日には、一定の対策をまとめた上で、市の幹部職員からなる「市緊急雇用対策本部」を設置した。

対策は、①雇用対策本部の設置、②企業への要請行動、③離職者対策資金利子補給制度の創設、④中小企業融資あっ旋制度の融資枠の拡大、⑤雇用創設事業の実施、⑥総合相談窓口の設置、⑦公共事業の前倒し発注等である。

このうち、⑤雇用創設事業の実施については、会議の席で「離職者の市による早期臨時雇用」の具体化を指示し、その場で担当者に可能な数字を述べさせた。
翌日の地元紙岩手日報では、一面トップで「離職者を臨時採用へ 3ヶ月間 10-20人」と報じた。
コロンブスのタマゴのような話(自治体による臨時雇用は難しいことではない)だが、いち早く具体的に明るい光を発出させたことが、期待をもって受け止められたのであろう。
かつてのアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(1882-1945)のニューディール政策のように、こういう時こそ、官が民をリードして助けるべきであろう。
(新年の明るい兆しを強く念願しながら記す) 』

12月25日に上京した際、帰りの時間を1時間遅らせて、東京駅八重洲口のブックセンターに寄り、「ニューディール政策」の書籍を探してもらったところ、経済専門書の一部に記述がある程度であった(古い本のため、在庫少なし)。そこで昭和59年に発行された「ルーズベルト ー ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著 清水新書)を30分ほど掛けてようやく購入した。” ニューディール政策は遠くなりにけり”と思いながら、帰途の新幹線で読みふけった。

1933年3月4日ルーズベルトは大統領に就任した。この日ワシントンは、どんよりとした鉛色の雲が垂れ込め、重苦しい気分が立ち込めていたが、アメリカ経済はこの時までに最悪の状態に陥っていた。景気指数で見ても、1929年を100とすると、総合事業活動指数は40.2、雇用者指数は56、実質賃金指数は47.1に下がっていた。しかも1933年2月のデトロイト諸銀行の倒産に始まった金融危機は、瞬く間に全国に広がり、大統領就任当日の朝には、事実上すべての銀行が業務を停止し、アメリカの経済機構は、完全な麻痺状態に陥っていたのである。

政権に就いたルーズベルトの第一声は、「我々か恐れなければならないのは、恐怖心を持つことだけである。国民は行動を求めている。しかも今直ちに実行に移らなければならない。」であり、国民に希望と自信を与え、気持ちを奮い立たせた。
ルーズベルト政府は、発足後直ちに行動を開始し、3月9日に召集された100日間特別議会の会期中に次々と法案を打ち出し、成立させていった。

まず、緊急銀行法によって、政府の援助による銀行の救済をはかり、ラジオを通して国民に「銀行はもう安全だ」と保障した。その結果、これまでの預金取り付けとは逆に、預け入れが引き出しを上回り、銀行は危機を脱した。大統領就任8日にして、大きな成果を上げたのである。

さらに、生活困窮者を救うために、連邦緊急救済法を制定し、公共事業を推進する機構を整備し、さらに職のない青年を組織して植林活動などに従事させる民間自然保存部隊の構想も実行に移した。
失業救済に自然資源保護を結びつけた事業の中で、最大の注目を受け、期待を集めたのは、テネシー渓谷開発会社(TVA)であるが、それは、ダムの建設や安くて豊富な水力発電と肥料の生産に、土壌保全や植林活動を結びつけた総合開発事業であった。
また、農業の復興のために農業調整法を制定したが、農産物の価格下落と余剰の増大に対処するために、作付けを制限し、それに同意した農民に政府が補償金を支給するという画期的な政策であった。

こうして、短期間にアメリカ経済を世界恐慌のどん底から回復させるという大きな成果を上げ、世界の歴史にその名を刻印したニューディール政策(New Dealとはトランプゲームなどで親がカードを配り直すことをいう)であるが、後世の評価は、「必ずしも成功とはいえなかった」、「太平洋戦争の開戦がなければ成功しえなかった」などの評もある。
しかし、国をリードする責任ある政治家として、常に、国民にラジオなどを通じて語りかけ、安心感を与えながら、100日という短期間の間に次々と画期的施策を実行した手腕・力量には敬服するばかりであり、現代の政治家に大いに見習ってほしいものである(小生もであるが)。

ところで、実は、ルーズベルトは、就任時に一貫した政策構想やイデオロギーを持ち合わせておらず、逆に、理論に拘泥することない現実主義が、次々と的確な施策を打ち出す原動力になったと言われている。興味深い話だと思った。
かねてイデアル・レアリスト(理想主義的現実主義者―戦後初の東大総長南原繁氏が自ら標榜)に注目している私にとって、一層親しみの持てる人物となった。

来年も不況など厳しさが続きそうですが、「地を往(ゆ)きて走らず、企てて草卒ならず、遂にその成すべきを成す」(高村光太郎の詩「岩手の人」)のように、着実に歩み、成果につなげたいと思います。どうぞ良いお年をお迎えください。

小園亭主 敬白

第47号

謹啓 メルマガ作成のため、キーボードに向かっていると、窓を雀がしきりに叩いています。内容にクレームがあるのでしょうか。何となく、浮き浮きしてきました。
お元気ですか。メルマガ第47号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第47号(H20.11.30)
ダーウィンからの連想

毎週日曜日の午後7時半からNHKのテレビ番組を見るのが楽しみである。ときに家族間でチャンネルの奪い合いになることもある。すでにお分かりの通り、「ダーウィンが来た!―生きもの新伝説―」である。

飛び魚はなぜ飛ぶのか。観察上の世界記録では、高さ10メートル、最長飛行距離400メートル、滞空時間42秒とのことである。”高い所が好き”という趣味であろうか。「チョッと待った!」と、おなじみのヒゲじいの声が聞こえる。

実は、大型魚のマグロやカジキなどから身を守るために、危険が迫った時に飛ぶのである。大型魚から水面上の姿は見えないため、危機を脱することができる。

メガネザルの目はなぜ大きく、顔いっぱいに広がっているのか。また、なぜ首が180度も回転し、真後ろを見ることができるのか。美人を目指し、また、柔軟体操を好んだ結果なのであろうか。ここでまたヒゲじいの「チョッと待った!」

大きな目は、夜行性に適したもので、暗いところでも良く見えるため、昆虫などを捕食することができる。それにしても、これほどまでに大きな目を持つのは、かつて、一時昼行性になったため、夜行性の哺乳類に存するタペータム(網膜裏側の反射膜)を失い、夜行性に戻ってもそれを回復できなかったためといわれる。また、目が大きすぎて、眼球を動かせないため、首を大きく回転させるとのことである。

このような生物の不思議な能力、生態を進化論という形で説明したのが、ダーウィン(1809-82)である。彼は、1859年に進化についての考えをまとめ、「種の起源」として出版した。ダーウィンの説の重要な部分は、自然淘汰(自然選択)と呼ばれるものであり、厳しい生存競争の中で、有利な形質を持ったものが、より多くの子孫を残し、そうした蓄積によって進化が起こるとした。

人間社会については、どうであろうか。ダーウィンからは離れるが、ユダヤ人になぜノーベル賞の受賞者が多いかの論に接した。(財)モラロジー研究所の服部道雄氏によると、アメリカに住むユダヤ人は、人口の2%余りであるが、アメリカ人に授与されるノーベル賞の30%を占めている。
著名なユダヤ人(ただし、ノーベル賞とは別)を挙げてみると、アインシュタイン、フロイト、マルクスなどまさに人類の歴史に輝く人々が多い。

ユダヤ人は、数千年にわたる受難の歴史を有している。祖国を追われたユダヤ人が異郷で生き延びるためには、命がけの努力が求められた。さらに、営々と築き上げた家や財産も迫害によって、いつ没収されないとも限らない。唯一誰からも奪い去られることのないのは、記憶と頭脳と品性のみと言ってよい。
ユダヤ人にとって、わが子に教育を施すことは、世間体を考えて、嫌がる子供にせめて高校だけは出てほしいと哀願するのとは訳が違う。生きるか死ぬかのぎりぎりの選択なのだ。(服部氏)

齋藤實生誕150年記念シンポジウム

11月15日に奥州市で開催された「齋藤實生誕150年記念シンポジウム」で、パネラーとして参加した私は、以上のことを連想的に考えながら、水沢の吉小路という一つの小さな街から、何故3人もの偉人が輩出したのかの推論を述べた。

3人とは、高野長英(幕末の蘭学者1804-50)、後藤新平(元東京市長・内務大臣1857-1929)、齋藤實(元首相1858-1936)であり、いずれも水沢城主留守氏(伊達家の家臣)に仕えた家の者である。吉小路には上級武士の屋敷があったという。

留守氏は、鎌倉時代以来の名門で、由緒ある家臣を多く抱えていた。寛永6年(1629)の水沢移封後も、1万6千石ながら800人余もの家臣を擁し、苦しい財政事情下にあった。そこで、留守藩では、自給自足の策を立て、食禄として土地を与えて耕作させ、女子には内職を勧めた。こうしたことから、魚網、筆、煙管、草履の生産が盛んになったといわれる。
さらに、学問の振興・奨励に力を入れ、優れた者をさらに学ばせて、儒臣として待遇する道を開いた。

私は、長い間のこうした取り組みや環境が”偉人輩出”の素地になったと考え、話した。

表題「ダーウィンからの連想」はそのような趣旨である。

ストーブを片時も離せない季節となりました。くれぐれもご自愛ください。

小園亭主 敬白

第46号

謹啓 我が家の葡萄畑には、”残り葡萄”が幾房か朝露に濡れてぶら下がっています。その甘さは、飛び上がるほどです。お変わりありませんか。
メルマガ第46号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第46号(H20.10.31)
国際姉妹都市での心の交流

音楽隊の歓迎

この10月、奥州市の国際姉妹都市であるオーストリア国チロル州のロイテ市(人口6,100人。面積約100平方キロ)とブライテンヴァング市(人口1,750人。面積約18平方キロ。両市は市街地で隣接)を20人規模で公式訪問した。両市とは、旧江刺市時代の平成3年に誘致企業のご縁がもとで姉妹都市締結している。
その後、毎年、中学生、高校生等の青少年を3人ほど交換交流(ホームスティ方式)ているほか、互いに公式訪問(3年ごとに受け入れと派遣を繰り返す)してきた。

ウィーンからチロル州の州都インスブルックに着いたとき、ブライテンヴァング市のハンスペーター・ヴァグナー市長が約80キロの道のりを車で駆けつけ、出迎えてくれた(ロイテ市からは副市長)。彼とは、平成18年5月の奥州市合併記念式典に出席頂いて以来の再会である。同市長は、平成17年にも当時の江刺市に公式訪問で訪れており、”親戚並み”の間柄でもある。

ブライテンヴァング市の主要道路の市堺には、それを示す大きく幅のある標柱が3箇所に立っているが、それに同市の紋章と並んで奥州市のマークが入っているのが、何とも嬉しい。本当に大事にして頂いているのが分かる。

同氏は、元スキージャンプのオリンピック選手であり、選手としてはメダルに届かなかったものの、指導者としては7つもの金メダルを獲得したとのことである。中学校の校長でもあり、市長職は非常勤である。市庁舎を休日に開ける際、「小さい役所なので自分で鍵を開け閉めする」と笑わせる。常勤の事務系職員は3人とのことであったが、その一人の若い女性シュルクさんもずっと付き添ってくれた。

市長職は、公選で任期6年であり、1期目の彼は、5年目であるが、「次の選挙で当選して、また、奥州市におじゃまします」、「こちらでは選挙運動などしない方がかえって評価が良い」などとジョーク交じりで話した。

無論、ロイテ市側でも、ヘルムート・ヴィーゼネッグ市長とその奥様、エリザベート・シュスター副市長(女性)など多くの方々に家族並みのお世話を頂いた。

記念植樹風景

ヴィーゼネッグ市長の奥様とは2日続けて晩餐会に同席したが、6年ほど前にウィーンにある日本大使館に招かれた際、天皇・皇后両陛下にお目にかかり、特に皇后様に声をかけられたと、新聞記事を示しながら誇らしげに話していた。ドイツ語圏ではあるが、片言の英語で「お仕事はなんですか。」と聞くと、「全くの主婦で、主人の食事作りが仕事です」と答えていた。夫の市長は、生粋の政治家で、議員経験のほか、10年以上も市長を勤めている(専任)とのことである。

シュスター副市長は、同じく10年以上の経験のあるベテランの市議でもあるが、若々しい印象で、ほとんどの日程に同行頂いた。旧江刺市を訪問した経験もあるという。特に、団員の一人が体調を崩し、市内の病院で検査などをした時は、身内同様の心配とお世話をいただいた。私が団長として、その大きな病院に見舞いに出向く時は、自分の車に乗せ、途中、自宅でコーヒーを馳走してくれた。街中ではあるが、木々に囲まれた広い庭のある、ゆったりとしたお宅であった。家中に娘や孫の写真が飾ってあり、”いずこも同じ”との思いがした。

いよいよお別れの時が迫り、インスブルックの空港から離陸する時、ヴァグナー市長、シュスター副市長、シュルクさんがバルコニーからいつまでも手を振っており、こちらも20人の団員一同感激して、プロペラ機の前で、思わず万歳三唱をしてしまった。
この心の交流は、今後の大きな財産になるに違いない。

なお、オーストリアの現地から、私が3回に渡って送信した「オーストリア姉妹都市訪問―墺・奥交流―現地リポート(上・中・下)」については、このホームページの「まさあき挨拶・著述集」に掲載しているので、ご一読頂ければ幸いである。

話は飛ぶが、大東亜戦争が日本の敗北で終ったとき、当時の中国国民政府の蒋介石主席は、かって魯迅が日本に留学した際(仙台医学専門学校)、恩師の藤野厳九郎先生に大変親切にしてもらったこと(魯迅の自伝的短編小説「藤野先生」に記述あり)を引き合いに出し、日本人は一部の指導者を除いて大概良い人達であり、「徳を以って恨みに報いる(以徳報怨)」として、対日賠償請求を放棄したという説がある。
国際交流、特に、人と人との心の交流の大切さを示す逸話と言えるかもしれない。

ダンケ・シェーン(ありがとう) !   アウフ・ヴィーダーゼーエン(さようなら) !

小園亭主 敬白

第45号

謹啓 奥州万年の森公園(前沢区内)の第1回植樹祭では、ヤマモミジ、クヌギ、コナラなど4,500本の広葉樹を植えました。いつの日か、その紅葉を見るのが楽しみです。いかがお過ごしですか。
メルマガ第45号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第45号(H20.9.30)
人材の盛衰

奥州万年の森植樹祭

前号は、「都市の盛衰」であった。その連想ではないが、「人材の盛衰」というテーマに挑戦してみたい。

つい先日、盛岡市内で、「管友会」という会合があり、岩手県立学校(高等学校ほか)で、「管理主事」(人事や学校管理を担当する職)を経験した人達の懇親会があった。
その際、OBとして出席し、求められるまま、中締めの頃ご挨拶した。

「(前略)この会場に来る前、車中で王莽(おうもう)の本を読んだ。中国の歴史の中で著名な人物で、前漢を廃し、新の国を建てた(西暦8年)。しかし、”人心を失い”、わずか15年で滅んでしまった(西暦23年。新が滅び、後漢が建国される)。エジプトのサダトや忠臣蔵の大石内蔵助と同じように、トップでない所から表舞台に飛び出したが、王莽は、成果を上げられなかった。教育の現場でも、同じことで、教職員や児童生徒などの”人心を失って”は、成功はおぼつかない。(後略)」

読んだ本は、「王莽」(塚本靑史著2003講談社)である。王莽(紀元前45―紀元後23)は、伯母が皇后となった縁で、一族が取り立てられる中、父の早死のため、当初は不遇であった。しかし、身を修め、学を究めるうち、官吏として出世を続け、大司馬(軍事を取り仕切る国防長官のような職)にまでなった。流民、盗賊が武装して各地で反乱し、北からは騎馬民族が食糧を求めて年々襲来する内憂外患の高まりの中で、王莽は、穀物を運び炊き出しを行って飢えた民の急場を救い、また、蓄財が一定規模未満の民を免税にするなど的確な施策を行い、次第に民衆の評判を高めていく。

やがて、幼帝の摂政(摂皇帝)となり、遂に西暦8年、漢帝国からの禅譲の形式で新を建国し、自ら皇帝に即位した。

しかし、「天下人になってからの政策は、非現実的な尚古(しょうこ)趣味だけを追求し過ぎた。彼は、急激で頻繁な行政機構の組織替えや地名変更、貨幣の改鋳を敢行し、形式の理想に振り回されすぎて、一番大事な人心を失ってしまった。曲がりなりにも、新の国が三代ほども続いていれば、弑逆(しいぎゃく)奸臣の汚名は免れていたことだろう。」(塚本靑史)

ある高官が王莽に対して、「古礼に合わせることに、やや疲れました。やはり政(まつりごと)は、今に合わせるよう皇帝が差配するものと、気づいた次第です。」と述べたことが、すべてを象徴しているかのようである。

エジプトのサダト大統領(1918―1981)は、どうだろうか。「戦略の本質」(2005日本経済新聞社)によって見てみよう。

1970.9.28、カリスマ的な権威を誇った指導者ナセル大統領が急死(病気)し、サダト副大統領が大統領に就任した時、全世界の誰もが、サダトの支配はせいぜい数週間で、いずれ真に実力のある政治指導者が出現するであろうと予測していた。政治的な野心がなく、ナセルの命令指示に唯々諾々と従う以外に能力のない、いわば、独裁者にとって最も安全で無害な人物と見られていたのである。

しかし、就任3年後には第四次中東戦争を主導し、油断するイスラエル軍を壊滅させ、勝利後直ちにアメリカの仲介の下に、エジプト・イスラエル平和条約を締結し、シナイ半島返還を勝ち取るという画期的な成果を収めた。なお、メルマガ第22号「油断」(H18.10.30)を参照頂ければ幸いである。

1978年には、ノーベル平和賞まで受賞したサダトであったが、イスラエルとの単独和平は、「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、イスラム教徒などの反感を招き、更には、経済自由化などの結果、急速に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていった。

こうして、次第に”人心を失う”中で、1981.10.6、戦勝記念日パレード観覧中に一兵士(中尉)によって殺害された。
トップになることによって、開花した才能であったが、優れた評価を継続させることはできなかった。

再び、東洋に戻って、我が大石内蔵助(1659―1703)である。この人材は、主君浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こさなければ、平凡な田舎藩家老で生涯を終え、日本の歴史には全く現れない人物であったと思われる。「昼行燈(ひるあんどん)」とあだ名され、凡庸な家老と見られていたようだ。

しかし、大事件が起こるや、その存在感を日に日に高め、最終的に赤穂浪士の心を一つにまとめ、万が一にも失敗の許されない吉良邸討ち入り(元禄15年12月15日未明)を見事に成功させた。元禄太平の世に咲いた「仇討ちの義挙」として、後の世まで庶民に語り継がれ、慕われることになる。

サダトと同様に、運命が突然内蔵助を表舞台に押し上げたが、その瞬間、それまで他の人々が予想できなかったような優れた能力を発揮し、その名を歴史に刻印した。内蔵助は、討ち入りの翌年(元禄16年2月4日)に切腹して果てた(享年45)が、もし生きながらえていればどんな実績を残したであろうか。

次々と目覚しい成果を上げたであろうか、それとも、再び凡庸な人材に戻ったであろうか。

人間の場合は、信念や考え方というものがあり、例えば「必要な時に必要なことをするのみ」の考えであれば、無理に光り輝き続けることもない。一概に予測できないところがある。
そこで、生物の生存競争の原理を紹介してこの項を終えたい。

「この世に生き残る生き物は、最も強いものでも頭の良いものでもなく、変化に対応できるものである。」(ダーウィン)

「古画鋲柱に二つ秋座敷」という私の駄句をお届けしながら、ご健勝をお祈りいたします。

小園亭主 敬白

第44号

謹啓 朝、耳を済ますと、車の行き交う音に交じって、虫の音がバックグラウンドミュージックのように聞こえました。秋が本格化しているようです。お元気ですか。
メルマガ第44号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第44号(H20.8.31)
都市の盛衰

8.23まちづくりフォーラムのオープニング劇(原作:相原正明)

市長になって通算6年目(江刺市長3年、奥州市長3年目)であるが、就任当初から、今もなお脳裏を離れないのが、「都市の盛衰」というテーマである。
江刺市長時代は、書籍を探すうち、「都市の未来―21世紀型都市の条件」(森地茂、篠原修編著 2003日本経済新聞社)を発見し、知識集積型の都市の発展力を確信した。奥州市長選に際しては、マニフェストの5つの戦略目標(strategy)に含めるとともに、当選後は、市総合計画の戦略プロジェクトに位置づけている。
その著書は、次のような趣旨を述べている。

情報化の進展により、重厚長大型産業が主導してきた工業化社会の都市とは異なった成長発展の仕方をする都市が現れた。米国のシリコンバレーなどのハイテク都市群で、共通点としては、知のセンターとしての大学や中核研究機関の存在があり、ここに研究者、技術者、起業家、企業等が集まり、自由で快適な仕事環境、生活環境の下に新しい産業を生み出し、集積させた。

さらに1990年代末からの第二の情報化の波は、経済社会全般にわたる知識化の波といえるもので、現象的にはインターネット・パソコン・携帯電話の急速な浸透によってもたらされ、市民のライフスタイルや企業のビジネススタイルを大きく変え、さらには都市のあり方を変えつつある。

同フォーラムで講演する村松文代IBCアナウンサー

一方、市民レベルでは、市民が個人として知識集積を進めるにつれ、コミュニティにおける新たな知の集積を通じた、まちの活力再生への挑戦をし始めている。

知識集積型の都市は、こうした動きを的確に捉え、都市の新たな成長発展を築こうとするものである。
なお、メルマガ第3号―知識集積都市―(H17.7.1)を参照頂ければ幸いである。

都市よりもっと大きい国家の盛衰ということについてはどうであろうか。これに関しては、「大国の興亡」(ポール・ケネディ著 1993草思社)がある。
まず、西暦1500年頃以降の世界を考察し、中国の明王朝、オスマン帝国、ムガル帝国、日本の徳川幕府といった国々が、すべて、信条と行動の統一を主張する中央集権体制をしき、国家の宗教だけでなく、商業活動や兵器の開発といった分野をもその体制化においた結果、衰退していったと分析する。

これに対して、ヨーロッパにはそのような最高権力がなく、様々な王国や都市国家の間で軍事的な対立関係が生じていたために、常に軍事の改良を求める動きが盛んであり、競争の激しい経済環境にも起こりつつあった新しい技術や商業の進歩とあいまって、経済成長とともに軍事的効率化を成し遂げ、世界のあらゆる地域に差をつけるという、実りある結果をもたらしたという。

つまるところ、大国の興亡のプロセスは、経済成長率と技術革新に格差が生ずるプロセスであり、世界的な経済バランスの変化に繋がり、次いで徐々に政治と軍事のバランスに影響を与えるプロセスであるとする。

ここで述べられているような”法則”が、都市の盛衰についても、より明確にされることを望んでいるが、当市としては、「副県都構築構想」を策定し、未来に向かっての休むことのない発展を目指そうとしている。この際、全国にも例のないことではあるが、副県都構築の理念を定めた。

それは、盛岡市(県都)を中心とする第一都市圏に対座する第二都市圏を形成し、その中心都市として、自律的、創造的都市を構築しようとするものである。内容としては、拠点都市形成戦略(ブランド力・牽引力)、市民力向上戦略(将来性・快適性)を柱に推進する。

マニフェストにも位置づけた、この副県都構想については、座談会などで、「一定の狙いをもって日日努力すれば、最初の頃は、例えて言えば分度器の角度の違いがわずかで、都市の発展力にほとんど差異がないように見えても、時間がたつにつれて、分度器のはるか先に大きな差(違い・距離)が生ずることになると説明したものである。

ピアニストの中村紘子さんが、「市政」(全国市長会誌)において、全国の市長さんへのメッセージを所望され、「ローマは一日にしてならず。十年、二十年先を見据えて、時間と手間隙をかけて善政を施してほしい」と述べたことがある。肝に銘ずべしと思う。

ときに重ね着などして、体調管理にはくれぐれもご留意願います。

小園亭主 敬白

第43号

拝啓 愛犬を引きながら、ふと、父が丹精込めて育てているリンゴ・葡萄を見ると大分大きく育っていました。夏の深まりを感じるとともに、改めて自然の揺るぎない営みに畏敬の念を抱いた次第です。お変わりありませんか。
メルマガ第43号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第43号(H20.7.31)
世界遺産への道

白鳥館遺跡(奥州市内)

7月7日(月)は、岩手・宮城内陸地震の復興作業で大わらわの時期であったが、その苦労と暗雲を吹き飛ばすような朗報を待つ日でもあった。また、七夕の日でもある。期するものがあった。
朝、9時40分、カナダのケベック市に出張していた副市長から電話があり、ユネスコの世界遺産委員会において、平泉の世界遺産登録に関する審議が、つい先ほど終わり、残念ながら、先のイコモス(国際記念物遺跡会議という名称のNGOでユネスコの諮問機関ともなっている。会員数は、7千人以上といわれる。)の勧告通り、「記載延期」に決したとのことであった。

21の委員国のうち、12カ国が発言し、モロッコ、ケニア、ペルーなどは、登録すべきという趣旨を述べ、オーストラリアは、委員国となっていないため発言権のない日本に答弁の機会を与えるなど、好意的な流れが強かったものの、「イコモス勧告を尊重すべき」という趣旨の主張もあり、逆転登録には至らなかった由(全会一致ルールの中で)。

ふと、山中鹿之助の「願わくば、我に七難八苦を与え給え」という言葉を思い出した。厳しい現実というものではあるが、前に向かって進むほかはない。
世界遺産登録に進む関門としてのイコモスの勧告は、4段階に分かれていて、「記載」、「情報照会」、「記載延期」、「未記載決議」となっている。「情報照会」はまさに登録一歩手前であり、1年後の登録が可能であるが、「記載延期」の場合推薦書の再提出が必要で、登録まで最短でも2年を要する。

そこで、せめてワンランクアップの「情報照会」にならないかとの期待があったのも事実である。しかし、後日の文化庁筋の話によると、イコモスの心証が変わらない限り、結局「記載」勧告には至らず、逆に再び「記載延期」勧告に戻り、無駄に年数を重ねるだけの危険があり、実例もあるという。やはり、一発逆転で試合を終了させなければならなかったようだ。

諸外国の事例を調べると、00年以降07年まで20件が、「記載延期」から次年度以降に「記載」に昇格しており、しかも、そのうち半数を超える11件が、3年以内に実現している。
平泉文化遺産は、日本では、政府が自らの判断で指定し、ユネスコに推薦した最後のもの(その後のものは公募による)でもある。国の威信をかけて取り組めば、実現も近いのではないか。

一方では、既に851件(07年現在)に達する世界遺産を前に、登録を抑制する基調が出ており、申請に対する登録率は、04年82%、05年68%、06年64%、07年63%と年々低下している。
あわせて、イコモス勧告を尊重すべしという意見が強まっているといわれる。毎年のユネスコの世界遺産委員会で、イコモス勧告と異なる結論が出るケースが、相当数あり、昨年の石見銀山の事例は、「記載延期」から「記載」に変更された二つのうちの一つであった。
あまり変更が多いと、イコモス勧告の意義が失われるという意味からは、当然とも言える。

しかし、更に述べれば、イコモスの審査のプロセスと内容は、不透明にも感じられる。
昨年の夏に、スリランカのジャガス氏が一人だけイコモスから派遣された形で、現地調査に訪れたが、なぜ仏教圏出身の人物が派遣されたのか(キリスト教圏の人はあえて避けられたのか?)、その後どういうメンバーでどういう論議をして勧告に至ったのか、勧告内容の決定までに当事国の責任ある反論の機会はどう確保されたのかなど、不明の点が多い。

イコモス勧告が、ますます重要な鍵を握るのであれば、その公的責任は大きく、手順・手続(反論の機会を含む)を含めて、透明性を高め、公正・公平感と信頼感を高めるべきであろう。
今回のユネスコの会議の後、「欧米の宗教・文化圏の人々の理解を得るのが難しかった」という感想も聞かれており、イコモスの一層明確な仕組みづくりが求められると思う。

それにしても、今後は、「傾向と対策」にしっかり、取り組む必要がある。日本側は、今回初黒星となったが、昨年の石見銀山の逆転登録に安心してしまい、この点がおろそかになったことは否めない。
今回は、最終段階になって、「浄土思想」と「文化的景観」が解かりにくいとされ、説明不十分と見なされたが、同じ轍を踏んではなるまい。
政府中心に取り組むことになるが、イコモスに参加している日本の専門家のネットワークを活用し、最新のイコモス審査の傾向をきめ細かく掌握し、また、国際専門家会議を数次にわたって開催し、その成果を即実行するなど最善の手を打つほかはない。

葡萄とリンゴ

その上で、世界の人々からの理解が深まり、親しみ・知名度が一層高まるよう、ネットワークを生かし、また、育てながら、有効な情報発信や遺跡への招致活動等を多彩に展開する必要がある。
無論、地元の自治体や住民はその中核にならねばならない。

3年後の七夕の頃には、間違いなく織姫と彦星が逢瀬を実現出来るよう(登録が実現するよう)、今から知恵と汗を搾る決意である。

月が替われば、間もなく立秋。ご健康にはくれぐれもご留意願います。

小園亭主 敬白

第42号

拝啓 万緑の中に赤いバラの花をみつけ、心安らぐところですが、一方では連日連夜、大地震復興対策に追われております。その後お変わりありませんか。
メルマガ第42号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第42号(H20.6.30)
三周年の御礼そして大地震との遭遇

ヒバの枝葉とバラ

このメールマガジン創刊号は、平成17年6月1日発行ですので、お陰さまで今月号をもって三周年となりました。平成18年1月15日の第15号までは、月2回発行でしたが、選挙で中断した後、平成18年4月28日の第16号からは、月1回となりました。
年賀状や気の置けない方の名刺から一方的に設定したメルマガの送付先も当初の約200名から、現在では約450名となりました。
あわせて立ち上げた個人のホームページ「相原正明行政文化小園」へのアクセス数は、約2万7千に達しています。改めて、ご愛顧に感謝いたします。

ところで、創刊号では、「アサノ知事のメルマガ」(前宮城県知事浅野史郎著)に刺激されてメルマガを始めたと述べていますが、今月偶然に、「アサノ知事のスタンス」(同著)を手にし、同氏の書きぶりに改めて注目しました。率直で飾らず、感性の赴くまま記しているようです。これまでの私の40余号のメルマガは、この点ややハードで堅苦しかったかもしれません。それだけ、下調べに時間をかけ過ぎたきらいもあります。
読み手は、むしろ現職市長の本音的つぶやきを期待しているとも思われます。というわけで、今回から少し軌道修正(?)を試みることにしたいと思います。

さて、大地震との遭遇の話である。6月14日午前8時43分、私は、市長車(センチュリー)で、水沢区と江刺区の境を流れる伊手川を渡ろうとしていた。県民体育大会ゲートボール大会の挨拶用の原稿に目を通していたが、パンクでもしたような不自然な揺れを感じた。
O運転手が、「地震ですね」と言って、車を橋の直前で止めた。思わず、川の水面に目をやるとまるで海のように波立っていた。胸の中も連鎖反応で動き出す。
収まって間もなく車は走り出したが、周りの家の様子は、あまり変化がないように見えたので、そのまま、会場入りした。祝辞を述べる時も大きな余震があった。

土砂崩落により不通となった道路

しかし、市役所の災害対策本部に到着し、テレビの全国ニュースを見ながら、被害報告を聞くうち、容易ならざる事態であることがわかった。ダム工事現場での落石による死亡事故、ブナの原生林を観察する同好の人々を乗せた山中でのバス転落による重軽傷事故、水道の水源損傷や管路損壊による千戸近い断水、住めなくなるほどの住宅被害、いたるところの道路損壊、急傾斜地における巨大な落石、農地崩落、防災ダム上流部における土砂によるせき止め湖の発生など地震の怖さをまざまざと見せ付けた。
「岩手・宮城内陸地震」(震度6強)の発生である。

この後は、連日の災害対策本部詰め、対策の打ち出し、被災者への見舞い・励ましなどに全精力を費やした。
気がついたことがいくつかある。一つは、国の対応が異常なくらい早かった。昨年7月の新潟県中越沖地震(震度6強)クラスであったからなのかも知れない。緊急消防援助隊と言う名の東京・横浜・青森・秋田などからの編成部隊がヘリコプター、消防車両とともに、あっという間に登場して活動を始めた。一方、ヘリコプターや重機とともに多数の自衛隊員が一気呵成に作業を開始した。これらのことは、国の危機管理体制が充実してきていることを感じさせた。

二つ目は、マスコミの力とその活用である。地元報道機関はもとより、NHKをはじめとする中央機関が総力を挙げて取材に奔走した感がある。記者たちは、行政のみならず、被災住民に直接取材し、課題を浮き彫りにしながら、核心報道に努めた。全国ネットによる情報も豊富である。ある中央報道機関の記者に、「1週間目の節目に犠牲者への黙祷をしないのか」と立ち話で軽く聞かれた。本部で話し合い、それを実施したところ、大きく報じられたし、あわせて他市の同様の行動も報道によって知った。むしろ、マスコミに教えられたということになる。
ある時私は、職員に災害対策の諸会議は、むしろ公開で行い、それをいち早く報道いただくことにより、市民に安心と信頼を与えることができると説いた。マスコミを味方にできたなら、対策の威力は倍加する。

三つ目は、災害対策本部での各担当部署から報告する際の基本視点のことである。ややもすると、現在何に力を入れ、どの程度の進捗があったかを報告するに留まり、被災者が最も知りたい「あと何日で復旧するのか」、「いつそれが実現するのか」という視点をぼかした報告が目立つのである。これは、数字を言ってしまうと後が苦しいという意識が働くためである。対策本部会議では、しばしばこのことで苦言を呈した。マニフェストではないが、数値目標をあげて、自らを追い込み、成果を早めることが大切であり、市民の負託に応える道と思う。

このメルマガを仕上げる時に、また大きな余震がありました。くれぐれもご注意され、ご健勝で過ごされますようお祈りいたします。

小園亭主 敬白

第41号

拝啓 家の窓から、新緑の中にひときわ輝く紫の一群が見え、思わずカメラを手に近づきました。隣家のリンゴ園の一角に咲くアヤメです。お変わりありませんか。
メルマガ第41号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第41号(H20.5.31)
お 洒 落

リンゴ園と一群のアヤメ

誰でも知っている、あのナポレオンの馬上の赤いマント姿。みんな、青い帽子そして白馬との見事な色のコントラストにアッと驚き、じっと見とれることになる。彼の連戦連勝の秘訣は、このお洒落にもあったという説がある。その姿を遠くから見るだけで、味方の兵は奮い立ち、敵兵は恐れをなした。

我が戦国武将たちにも、共通した美々しい姿を見ることができる。信長の西洋式甲冑のいでたち、秀吉の真っ赤な陣羽織ときらびやかな千成瓢箪。東北の雄、伊達政宗の三日月をあしらった大兜も圧巻だ。見る者は、知らずその気迫に飲み込まれる。

ところで、「お洒落」とは何か。広辞苑によれば、「みなりや化粧を気のきいたものにしようと努めること。また、そうする人」。また、洒落の語源は、「晒れ(され:長い間、風雨や日光に当たり、白っぽくなるという意味)・戯れ(され:たわむれの意味)」が転じたとされ、これらの意味から「洗練される」、「しゃれて趣がある」という意味合いになったもののようだ。

誰でも、お洒落には気を配っている。私の場合は、ネクタイとポケットチーフである。ネクタイについては、多くの思い出がある。県職員の採用面接にネクタイのつけ方を知らず、結局着けて行かなかったこと、最初に買った店の店員に「ネクタイはその日の朝の気分で決める」と教わったこと、妻からの最初のプレゼントがネクタイであったこと、ネクタイが歩 いているような派手好みの伊達な友人がいたことなど、数え切れない。

それにしても、総じて無頓着に近かった私が、背広とのバランスなどを気にしだしたのは、市長になる頃からのような気がする。周囲の人たちが、私のネクタイを話題にすることが多くなったせいかもしれない。アメリカのブッシュ大統領が、真っ赤か真っ青のネクタイをしていることにも影響されたと思う。どうも目立つ方に向かったようだ。

ポケットチーフについては、テレビ出演のアナウンサーやタレントの姿にヒントを得た。やや値は張っても、品質の良いものを一度身に着けると手放せなくなるように思う。最近は、朝の十分くらいのところで、背広姿に身づくろいするが、最後の楽しみは、ネクタイとポケットチーフの組み合わせである。たとえば、青系の背広の場合、ネクタイを赤、ポケットチーフを黄として、”三原色”を決め込む。(“信号機みたいだ”などと言うなかれ! )

という訳で、東京駅八重洲口にあるブックセンターの地下1階の某コーナーを覗いてみる。
まず、「男のおしゃれ開運学」(藤木相元著)から。「第一印象の6割りは外見で決まる」、「男のお洒落の目的は、メッセージを発信するところにある」、「小男の小村寿太郎が、欧米で金策に成功し、ひいては日露戦争の勝利に貢献したのは、彼の一世一代のお洒落にあった」など。

次に、「男の服装ーお洒落の基本ー」(落合正勝著)。「お洒落は学習であり、学習は、基本を覚えなければ上達しない」、「お洒落のため、まず、始めに投資すべきものは、流行が目立たないもので、長持ちするものである。それは、靴とネクタイである」、「爪先の反りが少ないほど、靴は美しく見える。そのためには、オーバーサイズの靴を履かないこと、靴の購入時に必ず新しいシューキーパー(靴の形を崩さないためのもの)を購入すること」、「ネクタイの本当の価値は、締めやすさであり、素材と作りが大事である。多くの人は、柄だけにつられて買ってしまう」、「最もクラシックなネクタイの柄は、紺地に白の小さなドット(水玉)である」など。

最後に、自治体(県や市町村)にお洒落はあるのだろうか。自治体の思想や想い・意気込みが、外から、お洒落のようにすぐ分かり、住民を元気づけるということがあるのではないか。
わが市の場合、総合計画で定める目指すべき都市像「歴史息づく健康文化都市 産業の力みなぎる副県都」は、いわば、ベースとなるスーツとワイシャツともいえる。そして、靴は、「子育て環境ナンバーワンプロジェクト」ほかの三つの戦略プロジェクトであり、ネクタイは、「マニフェストの実現、その一、その二」といったところか。
首長も自治体も、もっともっとお洒落を磨かなければなるまい。

どうぞ、人生をお洒落で、明るく楽しみながら、ご健勝でお過ごしください。

小園亭主 敬白

第40号

拝啓 気温の乱高下に戸惑いながらも、チューリップのにこやかで晴れやかなな行列に励まされておりますが、いかがお過ごしですか。
メルマガ第40号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第40号(H20.4.30)
減反(げんたん)

我が家の宝物の一つに、公選初代岩手県知事国分謙吉翁(昭和22-30知事)が、昭和25年に記した書「畯功成食饒(しゅんこうなりしょくゆたかなり)」がある。これを頂いた祖父の藤治郎(故人、当時岩手県食糧検査所水沢支所長・西磐井支所長を歴任)の解説によると、「農政に携わる官吏(畯)が一生懸命仕事をし、功を挙げることにより、食糧が豊かになる」という趣旨であり、食糧検査所などに勤務する職員を励ました書ともいえる。
この祖父が残した文は、少ないが、昭和48年2月の「種子法施行20周年の歩み」に掲載した「史上に見る米穀問題」という一文がある(当時74歳)。食糧の潤沢は、即ち国力の充実であり、経済大国の源泉であることを述べながら、余剰米・食管赤字の莫大さに世上の批判が強まり、減反実施となっていることを嘆き、「あの荒廃した減反休耕田の惨憺たる姿を眺めるとき、誰が涙せぬものがあるだろうか」と記している。勤勉で農業・農政一筋であった祖父の無念さが伝わってくる。

減反は、米の生産調整を行なうための農業政策であり、米作農家に作付け面積の削減を要求するために、減反」の名が付いた。戦後、食糧管理法によって、米は、政府が全量固定価格で、買い上げる(政府米)ことになっていたことから、生産量が飛躍的に増加して、政府が過剰な在庫を抱えることとなり、更には、もともと買取価格(政府の)よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であったことなどから、赤字が拡大した。

このため、昭和45年、政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした米の生産調整(減反)を開始したのであった。

その後、平成7年に、食糧管理法が廃止されて、いわゆる食糧法が施行され、政府の米買い入れは、備蓄目的となり、大幅に減少した。また、米の価格は、原則市場取引により形成されることとなり、生産数量は、原則生産者(実際は農業協同組合を中心とする生産者団体)が自主的に決定することになるなど、米の統制は、緩み、自由性が高まった。

更に、平成16年度からは、転作する面積を配分する方法(ネガ配分)から生産目標数量を配分する方法(ポジ配分)への移行が行なわれるなど、”猫の目農政”といわれるようにめまぐるしく変わった。

このような、いわゆる減反が、果たして成果を上げたかと言えば、そうではない。
全国トータルの数字で見ると、平成15年度まで目標未達成ゼロであったのが、16年度1.5%、17年度2.3%、18年度4.1%、19年度4.5%と、未達成割合が増えている。特に、19年度の未達成府県数は、実に31に上っている。

米価は、年々下落を続け、コメ価格センターの入札結果は、平成5年(近年のピーク)の60キロ当たり23,607円が19年度には、14,714円と37.7%も下落している。

危機感を募らせた農林水産省は、20年産以降の生産調整にむけて、地域や農業者に対するペナルティ措置を強化しだした。産地作り交付金(転作奨励金に代わるもの)の減額、各種補助事業の不利な取り扱いなどである。また、統制強化に戻るかの如くである。
しかし、農政の本来の目標である農村・農家を守り、食糧を確保するということからすると、問題解決への道は、険しく、遠いと思われる。
生産調整の目標達成を確保することが、現状では困難と見られる上、基本的に市場に価格を委ねている米価の再上昇は期待しがたい。
一方、農村では、採算を度外視した年金生活者が農業・農村を支えている要素が大きいとされているが、こうした人々が退場した後は、米の生産そのものが、落ち込み、また、農村に人がいなくなる危機的状況も考え得る。果たして、解決策はあるのであろうか。

私は、日本人の主食である米の生産力を維持し、更には、水田の持つ国土保全等の多面的機能を確保し、農村の存続を図るためには、米について、生産費を基にした所得補償を制度化し、あわせて海外への米輸出の拡大なども図りつつ、結果として米余りにならないよう、明快・簡明な措置をもって、確実な生産調整を行なうことが必要と思う。

その政策を国の責任で確立し、あわせて食糧自給率向上策を積み重ねていかなければならないと考える。
迷ったときは、基本に戻れである。

今回は、日高火防祭(ひたかひぶせまつり:4月28-29日)、江刺甚句まつり(5月3-4日)に”出ずっぱり”を言い訳に、メルマガ発信が数日の遅れとなり、失礼いたしました。

今後ともご愛読をお願いいたしますとともに、ご健勝をお祈りいたします。

小園亭主 敬白

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