相原正明の個人オフィスのホームページです

2009年4月〜2010年3月

メールマガジン 第52号〜第57号

第57号

謹啓 気が付けば、大晦日。公務と選挙(来年3月の市長選)準備に追われる日日でした。紅白歌合戦を聞きながら、キーボードに向かっています。この1年は、如何でしたか。このメールがいつ読まれるのか楽しみです。

相原正明行政文化小園 メールマガジン57号(H21.12.31)
奥州市の事業・財源配分などについてのQ&A

Q & Aパンフレット

奥州市長選の運動が進む中、市政執行に関する様々な誤解が生じていることに気が付きました。市議会などの場では、論議を尽くし、問題点を解明しながら、予算を決め、事業を執行してきました。しかし、一般の市民の方々への説明は、十分でなかったと反省しております。
つきましては、以下に、Q & A (質問・回答)の形で、ご紹介したいと思います。ご質問・ご意見がありましたら、お知らせいただきたいと存じます。
なお、Q1からQ5までは、既に、分かりやすいパンフレットを作成し、配布を行なっています。

Q1:市の事業・財源配分は、何によって決めているのですか。旧5市町村の区ごとにバランスが市の事業・財源配分は、何によって決めているのですか。旧5市町村の区ごとにバランスが取られているのですか。
合併直後の奥州市では、合併時の取り決めによって、旧5市町村に標準財政規模(人口や面積などに対応したもの)に応じた財源を配分し、必要な事業を組み立てています。この事業を、通常「ルール内事業」と呼んでいます。その総額は、260億円で、内訳として、水沢区73.8億円、江刺区63.0億円、前沢区25.1億円、胆沢区35.3億円、衣川区15.1億円、広域枠(行政組合や防災関連事業)47.7億円となっています。なお、これは10年間の合計です。

Q2:特定の区に、事業が多く配分されていると聞きますが、本当ですか。
市長や市政の基本方針は、旧5市町村の平等発展・均衡発展でありますので、そのようなことはありません。ただし、合併時に各市町村が持ち込んだ基金(持参金)による事業があり、これは、約束事項として、その区(旧5市町村)のために使われることになっています。
この事業を、通常「ルール外事業」と呼んでいます。持参金額は、水沢区1.1億円、江刺区12.7億円、前沢区3.7億円、胆沢区2.3億円、衣川区2.8億円でした。
このことによる事業が、特定の区に多く事業投入されているという見方につながっていると思われます。このことは、約束事項ですので、やむを得ないのですが、合併建設計画実施期間(平成18?27年度)である10年のうちには、すべて解消されます。

Q3:区ごとの事業投入額がアンバランスに見える事情は、他にないのですか。
例えば、「ルール内事業」は、10年間(平成18年度?27年度)の事業ですが、前半の4年間(平成18年度?21年度)の事業投入割合は、水沢区40.0%、江刺区64.4%、前沢区63.3%、胆沢区36.4%、衣川区78.5%となっています。これは、合併前に各市町村が計画したもので、実施時期の違い、土地改良事業の負担金など事業の性質などの違いによるものです。
また江刺区については、平成22年3月まで現行過疎法の指定を受けており、その間、合併特例債より財源手当上有利な「過疎債」を使えることから、当該区事業の一部を前倒しして行ってきた経緯もあります。
各区の事業配分ペースについては、今後更に検討して、調整していくことも大切です。

Q4:「合併時の約束でもある、ルール内・外の事業」のほかの事業については、どうなっていますか。
そのような事業を通常「オール奥州事業」と呼んでいます。
「オール奥州事業」のうち、政策的判断で実施された市道・市の施設の維持修繕費など一般事業について見てみますと、平成18年度から20年度までの3年間の合計で、水沢区4億9千9百万円余、江刺区2億9百万円余、前沢区1億5百万円余、胆沢区8千9百万円余、衣川区1億1千4百万円余となっています。
これらの事業については、全市(オール奥州)の一般財源により、各区の均衡発展に配慮しながら実施しています。

Q5:最近10億円もの「地域活性化・経済危機対策臨時交付金」が国から奥州市に配分され、それに基づいた事業予算が決まったと聞きました。その区ごとの配分は、どうですか。
21年7月の臨時議会に提案し、全会一致で可決されましたが、区ごとに集計してみますと、水沢区3億5千7百万円余、江刺区1億1千2百万円余、前沢区5千6百万円余、胆沢区6千2百万円余、衣川区5千1百万円余となっています。なお、残りの3億6千万余は全区にわたる事業となっています。

Q6:奥州市誕生後、職員について部長制度が採られていますが、旧5市町村の出身者のバランス配置に留意されているのですか。
本来は、適材適所ですが、合併後しばらくの間は、そういう配慮も一定の限度で必要と思います。ちなみに、18年度は、旧水沢市出身者7人、旧江刺市出身者3人、旧町村出身者各1人でした。19年度は、水沢(略して記します)6人、江刺2人、町村各1人、20年度は、水沢7人、江刺2人、町村各1人、21年度は、水沢4人、江刺3人、町村各1人でした。なお、この数には、参事職や行政事務組合等への派遣職も含まれています。

Q7:市町村が岩手県総合事務組合に支払う退職手当負担金について、旧江刺市が、16億円という金額を支払わないままに、合併に入ったのは問題であるという話を聞きますが、どうなのですか。これまで、公に論議されてこなかったのですか。
誤解を解くために、3点に整理して、お話しします。
①まずこの16億円という額は、直接支払わなければならない額ではありません。上記の組合が支払った一定期間内の退職金総額と市が納めた退職手当負担金総額の差(組合の支払い超過)が、5億円を超えた場合(この額は年によって変動する)に、それが解消されるまで、毎年、1000分の220(職員の給料総額に対して)という基本額に、さらに1000分の20(職員の給料総額に対して)を加算して支払うというものです。
② このことについては、合併前の市町村長会議で、競馬、病院経営、土地開発公社などの累積債務と異なり、特別の調整措置(累積債務額の4%から8%相当分をペナルティとしQ1にあるルール内事業の財源から差し引くもの)を講じないことと決められたものです。これは、行財政改革により、大幅に職員を削減したことに起因するものであり、人件費の節減効果があると判断されたものと理解しております。
③ これらに関する、奥州市議会の質疑応答は、合併直後の18年6月議会で行なわれております。

水沢保育園園児の皆さんからの贈り物(市長室)

年が明ければ寅年。これまではどのような年でしたでしょうか。私には大いなる飛躍の年でもありました。新しい年のご活躍、ご多幸を心からお祈り申し上げます。

小園亭主 敬白

第56号

謹啓 ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしたか。次期市長選(来年3月)に向けたマニフェスト作りのため、メルマガを3ヵ月休んでしまいました。
この間、各方面から再開への強い要請と励ましがあり、感激した次第です。新マニフェスト(暫定版)から一部を引用する形で、メルマガ第56号をお届け致します。
なお、マニフェスト全文については、ホームページをご覧いただきたい(今週中に掲載)と存じます。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第56号(H21.11.9)
市長選出馬への決意ー新マニフェスト(暫定版)から

奥州市が誕生した最初の大事な4年間、初代の奥州市長として、市民の皆様とともに全力で駆け抜けてきました。
「新生奥州市政策宣言―相原まさあきマニフェスト―」を掲げて当選した私は、まずこれを市議会の議決を得て市の総合計画(2007―2016)に位置付け、スタートを切りました。
目指すべき都市像を「歴史息づく健康文化都市 産業の力みなぎる副県都」と定め、産業・教育・福祉などの施策に強力に取組んで参りました。
この間、市民との対話(トークデーほか)、市政懇談会、地区要望を聞く会、福祉現場等の訪問、審議会等への民間委員の参画などを進め、自治基本条例、市民参画条例を制定することができました。
また、市町村合併時の約束を誠実に履行することを基本とし、新市建設計画(合併建設計画)をもとに新しい全市的な事業も加え、5区(旧5市町村)の伝統を生かしつつ、均衡ある発展に努めて参りました。
無論、すべての職員の協力を得て、マニフェスト(公約)の速やかな実現を図り、概ね達成(3年経過時の外部評価は85点)することができました。

新市スタート直後は、まさに多事多難であり、合併協議事項の実現は、多くの困難を伴いました。
しかし、そうした中にあっても、市町村合併協議の際、最も大きな問題となった岩手競馬は、18年度末の廃止という危機を乗り切り、多額の返済(市から県へ)を毎年続けながらも、当面の安定軌道に乗せることができました。また、大きな累積債務を抱えた総合水沢病院については、国の支援のもとに、24億円余の不良債務を解消する道筋をつけ、再スタートさせることができました。

このように、合併直後の混乱期を安定的にまとめ、新市の基礎もようやく固まりつつあります。今こそ、この新しい土台の上に花を咲かせ、夢の実現に近づけなければなりません。
まさに、奥州力(副県都奥州市の力)を全開させ、パワーアップさせるべき時であります。

私は、この時に当たり、初代奥州市長として、新市の最初の4年で築いたこの基盤の上に立って、市総合計画10ヵ年計画と合併建設10ヵ年計画を仕上げつつ、新しい発想と感覚を加え、さらに強力に発展させる責任があると、強く思いを致しました。
合併時の想い、市域の均衡ある発展をより確実なものとし、市民の皆様の視点に立ち、市民の皆様とともに、更なる発展を図っていかなければなりません。

菊花展(後藤伯公民館にて)

ここに、合併の成果を熟成・顕在化させ、「日本をリードする、暮らしやすく、人材と活力に満ちた副県都奥州市の創造」を政策の理念として、市民の皆様との約束―新マニフェストをご提示するものであります。
この新マニフェストをもとに、市民の皆様とともに、新たな気持ちで力強く歩んで参りたいと強く念願するものであります。

新型インフルエンザの流行も心配されます。くれぐれもご自愛願います。

小園亭主 敬白

第55号

謹啓 平成17年からスタートしたメルマガも、大好きな松井秀喜選手の背番号と同じ号数になりました。お変わりありませんか。メルマガ第55号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第55号(H21.7.27)
ふくけんと奥州大会と障がい者福祉

ふくけんと奥州大会資料

7月12日奥州市江刺区のささらホールで、「第52回岩手県身体障がい者福祉大会―ふくけんと奥州大会―」が開催された。毎年1回、市町村持ち回りのような形で開催されているが、今回奥州市で開催するに当たり、会議のサブタイトルを地元市長に命名してほしいと依頼された。私としては、県レベルの行事で、「副県都」の名称を冠したいと思った。というのは、市では、目指すべき都市像を「歴史息づく健康文化都市 産業の力みなぎる副県都」としているからである。
いろいろ検討し、柔らかい表現とするため、「ふくけんと奥州大会」とした。
ところで、この大会の宣言文の中に、「『障害者自立支援法』が施行されてから3年目を迎え、その見直しについて、大きな局面を迎えている。本大会を通して私たち障がい者が、安心して、地域で当たり前に暮らせる環境体制を整備し、格差のない共生社会を実現するための礎となることを強く訴えるものである。」とある。

障害者自立支援法について述べると、同法は、障がい者が障がい種別(身体障がい、知的障がい、精神障がい)にかかわらず、自立支援を目的とした共通の福祉サービスが受けられることなどを目的として、制定され、平成18年10月から本格施行された。
しかし一方では、制度の理念・理想とは異なり、急激な制度変化に伴って、障がい者福祉の現場に問題が次々と発生した。

現場では、利用者の負担増⇒障がい者による施設の利用中止⇒施設への国補助金の削減⇒施設のサービスの低下や施設の閉鎖⇒障がい者の行き場がなくなる、という悪循環が生じたのである。
具体的に見てみると、まず、障がい者が通所施設で作業を行なうと月額平均約1万円程度の工賃が支給される。以前は、施設利用料が原則ゼロであったので、働き甲斐のある状況であった。ところが自立支援法施行後は、市県民税課税世帯で月約3万円の利用料と食費が請求されることとなり、結果として作業所等で働くために、差し引き約2万円の自己負担が発生する事態となった。
このため、一部の施設では、障がい者の自己負担分を施設の内部留保から持ち出したり、自己負担を免除したりするところも出てきた。

このような問題があるため、法施行後間もなく、障がい者団体や地方自治体などから見直しを求める声が相次ぎ、一部政党からは、自己負担1割の凍結を柱にした改正法案が提出されるという動きも起こった。
こうした状況の中、国は、平成18年12月の与党合意に基づき、法律そのものの見直しは行なわないものの、負担軽減のための予算化を行なった。これによって、たとえば、「税額・資産などの一定要件を満たす場合の在宅利用者の負担上限額」が4分の1に軽減(例:24,600円⇒6,150円)されることとなった。

今年3月には、ついに障害者自立支援法改正案が閣議決定され、国会に提出された。
ポイントの利用者負担については、これまの「応益負担」・「1割負担」を改め、利用者の負担能力に応じた「応能負担」を原則とした。これまでの軽減特別対策を法律上も明確化したのである。

ところがである。7月21日の衆議院解散によって残念ながら廃案となってしまった。この解散では、政府提出の17法案と、衆参あわせて97の議員提出法案が廃案となったが、その中に含まれた形である。
障がい者の不安を解消し、安心できる、実態にあった恒久制度とするため、総選挙後速やかに「応能負担」を原則とした法律が成立することを期待したい。

ノウゼンカズラ

盛夏とはいえ、早朝の涼しさ・心地よさは格別です。朝飯前の仕事も”はかどり(能率が良くなり)”ます。くれぐれもご自愛願います。

小園亭主 敬白

第54号

謹啓 今年も我が家の裏手のヒバに絡みついた、逞しく美しいバラの花々に見とれています。お元気ですか。メルマガ第54号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第54号(H21.6.30)
歴史秘話ヒストリアからの連想

総合テレビの水曜夜10時からの「歴史秘話ヒストリア」は、渡邊あゆみアナウンサーの語り口とともに、内容豊富で楽しみな番組である。松平定知アナの「その時歴史が動いた」がなくなるということで寂しい思いをしていたが、これで安堵。
6月10日は、「オヤジいいかげんにしてくれ!信長家族騒動兄弟抗争・奇妙子育て織田選手談」であったが、信長の嫡男であるの信忠(1557―82)の最期に感慨を覚えた。

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発した。歴史上の巨人信長が明智光秀に急襲・殺害され、日本の歴史が大きく動いた日である。この時、信忠は、信長と同じく京都に滞在していた。宿所は妙覚寺であり、信長の宿所の本能寺が光秀に襲われたことを知ると、直ちに救援に向かった。武士として、子として当然の行動であったろう。

ところが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく、わずかな軍兵とともに京都二条新御所(二条城の前身)に篭城した。やがて明智軍が押し寄せると、衆寡敵せず自害した。享年26歳。なぜ京都を脱出して、柴田勝家や豊臣秀吉とともに捲土重来を期さなかったのであろうか。京都脱出の可能性は十分あった。

面白いことに、信忠の享年と同じ26歳の時、信長は九死に一生を得る事件に遭遇している。元亀元年(1570)の金ヶ崎の戦いである。同年4月越前国の朝倉義景領に侵攻し、破竹の進撃をしていた織田徳川連合軍は、信長の義弟でもある浅井長政の突然の裏切りにより、背後からも攻撃され、まさに袋の鼠の立場に追い込まれてしまった。
この時信長は、迷わず単騎でも脱出することを考え、秀吉などに殿(しんがり)を託し、逃げに逃げ、4日後に京にたどり着いた時は、供はわずか10人程度であったという。意地や見栄をかなぐり捨て、とにかく己の命のみを存続させて、大望を果たそうとしたのである。

秀吉の場合を見てみよう。絶対絶命のピンチではないが、瞬時に判断し、危機を脱しようとした場面を私は思い出す。天正12年(1584)に秀吉と家康(形は信長の次男信雄との連合軍)とが対峙した小牧・長久手の戦い。戦況膠着の中で、秀吉軍が放った「中入り」という家康領へ奥深く侵攻する作戦が失敗し、逆に家康軍に包囲されそうになった時の秀吉の行動である。テレビ映像の記憶では、秀吉は、食べていた飯を椀ごと放り投げて、たちまち喚きながら走り出した。一刻も早く脱出するためである。実際には、家康の「勝ちすぎてはいけない」という慎重無比の考えに助けられ、包囲の軍は到来しなかった。しかし、私は、前述の信長の脱出と同じく、「まず我が身を助け出し、何としても天下取りを実現させる」という強い意思を感じた。

私の愛読書、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」に記された「鴻門の会」での、劉邦の逃げ振りも見事であり、これが漢(前漢)帝国の樹立に繋がった。紀元前206年に楚の項羽(BC232―BC202)と漢の劉邦(BC247―BC195)が、秦の都咸陽郊外で会見した故事である。詳細は省くが、兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上の項羽の怒りを鎮めるため、劉邦は項羽の陣に詫びに出向き、ひたすら辞を低くして、謝り、項羽を褒め称え続けた。項羽が劉邦を殺害する理由を失った雰囲気を捉え、厠に行く振りをして、あっという間に自軍に逃げ帰ってしまった。結果的にこれが項羽の滅亡と漢帝国成立の分岐点になった。

歴史に若しもはないが、ことをなすに当たっては、その瞬間に何が最も大切かを判断することが大切と分かる。知識、経験、瑞々しい感性そして運も必要のようである。

キーボードに向かう間にも汗が滴り落ちます。くれぐれも暑さに負けないよう、ご自愛願います。

小園亭主 敬白

第53号

謹啓 万緑の中のアヤメの紫色に心を和ませていますが、いかがお過ごしですか。メルマガ第53号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第53号(H21.5.31)
国際リニアコライダー(ILC)

今、地元は、新たな夢の出現に沸き立っている。この不況や平泉世界文化遺産の登録延期などで、意気消沈しがちな空気を吹き飛ばす勢いのある話が出ている。実は、まだアメリカやヨーロッパとの競争をまず制し、国内でも九州(背振山地)との競り合いをこの北上山地が制する必要があることを知りながらである。
「投資額は、8千億円程度であり、完成の暁には、世界各地から一流の科学者が千人以上も研究滞在し、家族も含めると3~4千人が住むことにもなる。地上には、中央研究所的な施設や機能が必要となり、学徒のための大学機能も必要となる可能性が高い。近郷の道路や橋そして下水道、情報通信機能の飛躍的整備が進むであろう。」と聞き、空想を膨らますともなれば、それも無理からぬことではある。

国際リニアコライダーとは何か。リニアは「直線」の意味であり、コライダーは、「衝突加速器」のことである。何を衝突させるかというと、電子と陽電子であり、何故加速というかというと、光速まで加速させるからとのこと。地下約100m付近に掘った、全長50kmほどのトンネルの真ん中で衝突させ、「宇宙誕生=ビックバン」直後の状態を再現するというものである。

世界中の科学者がこの装置を活用して、質量の起原や時空構造、宇宙誕生の謎に迫ることを目指す。また、ILCは、新材料、超精密加工、超伝道技術など極限技術を駆使して創る。そうした技術は、IT、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー、医療、環境などの様々な先端的研究分野にも応用可能であり、新たな産業の創出や関連産業の立地等が期待される。

国内・世界の加速器の現状はどうか。国内には、つくば市内の高エネルギー加速器研究機構(KEK)の1周3kmの円形加速器がある。世界中から毎日300人ものユーザーが共同利用を行なっている。
国外では、スイスのジュネーブ近郊に「欧州合同原子核研究機構(CERN―セルン)の円型加速器LHC-大型ハドロン衝突型加速器)がある。地下100m、周27kmのトンネル内に建設されたもので、2009年に本格稼動する。
このLHCは円形のため、軌道を曲げられることによるエネルギーの損失があり、ILCはそのマイナスを解決する究極の加速器といえるようだ。「LHCが初めて見せてくれる眺望に、ILCという高解像度の望遠鏡でズームイン」という表現もなされる所以である。

再度、ILCの研究に伴って開発される技術を見てみると、「医療への応用、新しい交通手段、生体のリアルタイム撮影、新しいコンピュータツールの開発、通信・映像産業のための新しい撮像素子など」とされ、科学者・産業界にとって、最大級の研究開発のメッカになることは疑いない。

また、私のマニフェストにある「大学誘致」の関係では、「世界各地の研究所や大学では、現在、数百人の学生が先輩研究者の指導の下にILCの研究に取組んでいる。」ということであり、誘致戦略の大きな柱ができた思いである。

よく政治家の大切な仕事の一つは、人々に夢を与えることであると言われる。実現しなかった時のリスクも大きいが、夢を示し得ないのも情けないことであろう。

このILC構想は、2012年には、立地が決まるとも言われる。更に、この構想は、北上高地を有力な候補地として、十数年以上も前から科学者ともども暖めてきた”珠玉”でもある。昨年のノーベル物理学賞を日本人が一気に3人(南部陽一郎氏(87)、小林誠氏(64)、益川敏英氏(68))も受賞したことにより、政府も大乗り気とされる。

全くの蜃気楼ではなく、目の前に迫る現実でもある。
心して一致団結し、「人事を尽くして天命を待つ」つもりで、ILC招致を実現しようではないか。
奥州市では、この6月補正予算にまず調査費を計上する。

この稿を終えて気が付くと、遠田の蛙(かわず)の声が応援団のように天にこだましています。ご健勝・ご活躍をお祈りいたします。

小園亭主 敬白

第52号

謹啓 ソメイヨシノ桜が去り、しだれ桜の姿を追っていると、突然一面に広がる菜の花に出会い、感動しております。いかがお過ごしですか。メルマガ第52号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第52号(H21.4.30)
世界遺産追加登録への道

世界遺産は、現在878件が登録されている(文化遺産679、自然遺産174、複合遺産25)が、日本では、文化遺産が11、自然遺産が3となっている。
文化遺産は、「法隆寺地域の仏教建造物(1993登録)、「姫路城」(1993登録)、「古都京都の文化財」(1994登録)、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」(1995登録)、「原爆ドーム」(1996登録)、「厳島神社」(1996登録)、「古都奈良の文化財」(1998登録)、「日光の社寺」(1999登録)、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(2000登録)、「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004登録)、「石見銀山遺跡とその文化的景観」(2007登録)であり、自然遺産は、「屋久島」(1993登録)、「白神山地」(1993登録)、「知床」(2005登録)である。

このように、1993年以来、順調に登録が進み、日本では、推薦すれば登録が当然と思われていたと思う。しかし、世界的に見れば、必ずしも推薦イコール登録ではなかった。
このことを最初に実感させたのが、”石見銀山ショック”である。2007年にユネスコから評価依頼されていたイコモス(国際記念物遺跡会議)は、5月に「登録延期」を勧告した。ここから、日本側では強力な巻き返しに出る。6月のユネスコの世界遺産委員会での逆転登録を成し遂げたのだ。まさに、起死回生の逆転ホームランであった。日本政府代表の近藤誠一・全権大使は審議終了後、「『環境に優しい』が決め手になった」と振り返った。

歴史は、繰り返す。翌2008年5月、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」が、イコモスから「登録延期(記載延期)」とされたのである。今回も同じ近藤大使を中心にユネスコ世界遺産委員会メンバー国への説明・説得活動に入った。国内でも、同国々の大使館を知事・市町長が回り、協力を呼びかけた。しかし、7月の世界遺産委員会では、”二匹目のドショウ(柳の下の)は、いなかった”。残念ながら、3年後の登録を改めて目指すことになった。

その後、2008年9月に国内の専門家からなる世界遺産登録推薦書作成委員会が、立ち上げられ、国際専門家の意見も聞きながら、5回にわたって検討が行なわれた。その結果、再来年の世界遺産登録を確実にするためには、9資産のうち、「中尊寺」、「毛越寺」、「無量光院跡」、「金鶏山」、「柳之御所遺跡」の5資産(いずれも平泉町内)をまず先行して推薦し、「達谷窟」(同町)、「白鳥舘遺跡」(奥州市)、「長者ヶ原廃寺跡」(同)、「骨寺村荘園遺跡と農村景観」(一関市)の4資産については、追加登録を目指すことになった。

次回のイコモスの審査をパスするために、「浄土世界」を表す建築・庭園の観点に絞って構成資産を選択することにしたものである。「白鳥舘遺跡」、「長者ケ原廃寺跡」ほかの4資産については、残念ながら「それぞれの課題を踏まえて、将来的に調査研究の成果が整理できた段階で、『拡張』により構成資産に含めることが適当」とされた。
そしてこのことは、住民説明会等を経た上で、4月23日の国・県・市町の代表者会議で正式決定された。

ところで、「白鳥舘遺跡」、「長者ケ原廃寺跡」、「骨寺村荘園遺跡と農村景観」については、もともとは平泉文化遺産のコアゾーンには含まれておらず、後に国の指導により加えられた経緯がある。地元としてはこれを歓迎し、官民あげて盛り上げ、取り組んできた。こうした事情もあるだけに、大変残念であり、地域住民からも反発の声が上がった。
しかし現実的に判断し(そもそも中心本体が登録されないことには、全てが無に帰す)、住民や議会に説明した上で、国の責任において追加登録を目指すことを前提として、その方針を受け入れることとしたものである。
また、住民の皆さんが心配している市内の2遺跡の今後の整備等については、追加登録を推進するためにも、さらなる発掘や整備を進めていきたいと考え、そのように説明している。

世界における追加登録の実態をみると、現在の文化遺産679の4.6%を占める31遺産が該当している。また、その半数以上が6年以内の追加登録(拡張登録)となっている。昨2008年には、アルバニアの「べラットとギロカストラの歴史地区」(当初登録から3年後)、スペインの「アルタミラ洞窟と北スペインの旧石器時代の洞窟画」(同23年後)の2件が追加登録を果たしている。

捲土重来を期し、災い転じて福と成すよう、着実に取り組んでいきたいと思う。

市内小集落の集会所で、「桃李自芳(とうりおのずからかんばし)」の書に出会い、心身が爽やかに洗われる思いがしました。ご自愛のうえ、ご活躍ください。

小園亭主 敬白

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