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2008年4月〜2009年3月

心象スケッチ 2008年4月〜2009年3月

2009.3.21 安倍一族そして阿弖流為(アテルイ)(第71号)

歴史シンポジウム「日本史の中の安倍氏・衣川」

3月14日(土)は、郷土歴史デーとなった。
まず、衣川区の国民宿舎サンホテル衣川荘で、歴史シンポジウム「日本史の中の安倍氏・衣川」が開催された。弘前大学教授「斉藤利男氏の基調講演やパネルディスカッションを大勢の聴講者が堪能した。

写真は、講演に先立って行なわれた「川西大念仏剣舞」で、同剣舞子供同好会による舞である。この剣舞は、藤原清衡公が創らせたといわれるもの。前九年・後三年の合戦の亡魂を成仏させるべく浄土へと導いていった御仏の化身である猿が舞う姿であり、御仏をたたえる舞であるという。

くくり雛(水沢区)

安倍氏の活躍舞台は、前九年の役(1051-62)であるが、私は、祝辞の中で、その時代から270年ほど遡った阿弖流為(アテルイ)と紀古佐美(きのこさみ)の巣伏の戦い(789年)に触れた。その際、将軍紀古佐美の軍営が衣川に置かれたことにより、「衣川」などを枕詞として、当時の都の人々が70首もの和歌を詠んだという。
「平泉」が世に出現し、知られる前に、中央方面では、まず「衣川」が知られることになったのである。大いに誇りに思う。

さて今度は、水沢区の水沢サンパレスホテルに飛んで、歴史小説「阿弖流為(アテルイ)」の出版記念祝賀会に参加した。
県立高校長等を勤めた及川洵(まこと)先生(80)が、30代の時に書き上げた小説(原稿用紙350枚)に50年ぶりに手を加え500枚の大著に仕上げたという。
パソコンのキーボードをぎこちなく、人差し指一本で叩いたとのこと。苦労の程がしのばれる。それにしても、これを成し遂げる情熱の素晴らしいこと。

歴史小説「阿弖流為(アテルイ)」

この日は、マイカーを運転する用務もあり、パーティでは、アルコールに口をつけずに済ませた。”さあ、読むぞ”という気負いで家に帰ったものだ。
いわゆる”寝っころがり読書”をするには本が重すぎて閉口したが、一気に読み進んだ。
男女の情愛の部分は、記載内容が薄くともそれなりに感じさせるものがあった。また、ハッピィエンドでない重苦しさがあり、阿弖流為の勇気とともに苦悩が身近に感じられた。
いつの間にか、阿弖流為が勤めた村長(むらおさ)に、現代の市長職を重ね合わせながら読んでいたようだ。

 

2009.2.21 市民劇「陽だまりのなかの春子さん」(第70号)

春子さんの前を通る(向かって左端が私)

2月7日と8日の2日間、水沢区のZホールで市民劇「陽だまりのなかの春子さん」が上演され、両日で2千人余の人々を感動させた。
これは、齋藤實生誕150年記念事業のフィナーレを飾るイベントとして、その実行委員会が企画したものである。

作家の松田十刻さんが原作を書き、地元の渡部明さん(:劇団芸術劇場所属)が脚本を書き、同じく地元の高橋瑛子さん(瑛子語り草子の会代表)が演出した。
春子役の醍醐うららさん、水沢病院長役の星鴉宮(ほしがらす・みや)さんは、プロの役者であり、上述の渡部明さんが齋藤實役、高橋瑛子さんがチヨ(春子のお手伝い)役と、いわば要所要所を専門家集団が固めている。

プレゼントされた花束

そのほかに多くの市民がキャスト(配役)として参加しており、2.26事件の際の陸軍兵士役には、水沢第一高等学校の野球部の生徒さんが扮した。
不肖私も「年番長」役で出演した。年番長とは、日高火防(ひたかひぶせ)祭りの囃子屋台の運行責任者である。
セリフは、一言で、春子夫人に囃子屋台の出発を告げ、ご覧いただくよう促すのである。

私が現職の市長のため、忙しいものと配慮していただき、事前練習は、当日の朝のみであった。それでも、セリフを覚えるのに夢中になったり、声や動作に工夫を凝らすために考えたりと、2日間は、あっという間に過ぎた。ある意味で、良い気分転換になった。

楽屋でプロと一緒に(向かって左から、星鴉さん、私、伊藤収入役、小澤さん)

ところで、待ち時間の待機場所として割り当てられた楽屋は、全く別世界の人々との”空間共有の場”となった。
左の写真の星鴉(芸名)さんからは、楽しい話、ためになる話を沢山聞くことができた。宮澤賢治にあこがれて、花巻市に移り住み、一人芝居などで生計を立てているとのこと。
また、舞台での声の出し方の話も聞けた。星鴉さんの声は、横向きでも後ろ向きでも、ホールの最奥の席でしっかり聞くことができる。本人の話は、「声をその席まで届ける意識で発声している」とのこと。

この話をもっと早く聞いていれば、”あんなに無理してガナリタテルこともなかった” !?

 

2009.1.24 織田信長ゆかりの円徳寺(第69号)

円徳寺(岐阜市内)

1月18日(日)の早朝、岐阜駅の近くの円徳寺に赴いた。実は、仏事等ではなく、岐阜市長選挙に立候補した細江茂光さん(60)の出陣式に出席し、応援するためである。

同氏は、私も参加している「未来の都市を創る市長の会(9首長)」の主要メンバーでもある。

岐阜市では、市立岐阜商業高校を廃止して、学校法人立命館の系列高校を誘致する政策を打ち出しているが、これに反対する人々が18万人の署名を集めた上で、反対の請願を市議会に提出した。議会ではこれを採択したため、細江市長(2期目)は、民意を問う趣旨で、任期を1年余残して、昨年12月に辞職し、再び、立候補したのである。

プレゼントされた花束

この日までの、選挙情勢は、相手陣営(市立岐阜商存続派)が候補者擁立を断念し、あくまで議会での決着の作戦に出たため、無競争の流れとなっている。通常なら、安堵感と明るさのムードが溢れるところであるが、どこか残念ムードが感じられる。

そこで、3番手ぐらいに回ってきた祝辞では、「夕方までに相手陣営が、立候補しないということは、もはや立命館移管に反対しないということではないでしょうか」と述べて、大きな拍手を誘った。

ところで、この寺は、織田信長との縁が深く、お寺の建物に多数掲げられた家紋は、織田家の木瓜紋であり、大きな信長の絵も本堂に飾られている。信長寄進とされる梵鐘もあり、市の重要文化財となっている。

楽市童子・楽座童子(円徳寺門前)

更に、門前にある楽市童子・楽座童子の小さな像に眼を奪われた。

実は、この寺の門前は、信長がすすめた楽市楽座の発祥の地とされているのである。

「楽」とは、規制が緩和されて自由になった意味であり、信長は、独占販売権などを持つ商工業者を排除して自由取引市場を作り、新興商工業者を育成し、経済の活性化を図ったとされている。

この度の細江市長の行動を何やら織田信長のようだと思いつつ、改めて信長の偉業を確かめたくなり、地元の書店で歴史書を買い求め、帰りの新幹線で読みふけったことであった。

信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』(幸若舞の『”敦盛 (幸若舞)” 』の一節)を思い浮かべながら。

 

2008.12.27 緊急雇用対策(第68号)

相談窓口の看板設置

アメリカ発の金融不況は、まるで台風のように、猛威をふるっている。あのトヨタ自動車が数十年ぶりに赤字を計上するということに象徴されるように、景気の牽引機関車であった自動車部門そして電子機器部品に使われる半導体の部門iにおいて、想像できなかったレベルで、売り上げが落ち込んでいる。
主に海外向けが、急激な円高とあいまって、不調のようだ。遂に、「百年に一度の不況」とまで言いわれるようになった。

今年の梅もどき(我家)

これに伴い、深刻な雇用問題が発生している。いわゆる非正規雇用といわれる「派遣」や「期間雇用」の労働者が次々と解雇され、奥州市関係でも、既に200人を超えている。

市としては、12月12日に「経済・雇用対策検討連絡会議」を開催し、国・県の機関との情報交換と対策の検討を行い、12月18日には、一定の対策をまとめた上で、市の幹部職員からなる「市緊急雇用対策本部」を設置した。

対策は、①雇用対策本部の設置、②企業への要請行動、③離職者対策資金利子補給制度の創設、④中小企業融資あっ旋制度の融資枠の拡大、⑤雇用創設事業の実施、⑥総合相談窓口の設置、⑦公共事業の前倒し発注等である。
⑤雇用創設事業の実施については、会議の席で「離職者の市による早期臨時雇用」の具体化を指示し、その場で担当者に可能な数字を述べさせた。

地元紙の一面トップ記事

翌日の地元紙岩手日報では、一面トップで「離職者を臨時採用へ 3ヶ月間、10―20人」と報じた。

コロンブスのタマゴのような話(自治体による臨時雇用は難しいことではない)だが、いち早く、具体的に明るい光を発出させたことが、期待をもって受け止められたのであろう。
かつてのアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(1882-1945)のニューディール政策のように、こういう時こそ、官が民をリードして助けるべきであろう。
(新年の明るい兆しを強く念願しながら記す)

 

2008.11.22 清水寺の秘仏(第67号)

森貫主ほかの皆さんと

11月8日、東京での会議(大学誘致懇談会)を終えて、京都に向かった。
京都駅前のホテル「瑞鳳閣」で、奥州大使の方々や関西奥州会の皆さんと懇談し、関西の地から奥州市の発展に向けて激励をいただいた。

奥州大使の一人である清水寺の森清範貫主もご子息の僧侶と一緒に駆けつけてくださった。  年末恒例行事として、清水寺の奥の院舞台で発表される「今年の漢字」について森貫主に問うと、「当日の朝、その文字を告げられ、昼にはテレビの前で墨書する(昨年は、「偽」)」とのことであった。まさに、名人芸である。

翌朝の古都京都は、小雨模様の中に紅葉が美しく輝いていた。清水寺に赴き、アテルイ・モレの慰霊祭に出席し、森清範貫主の下での法要に参加した後、みんなで境内にある、アテルイ・モレ慰霊碑に参拝した。

アテルイ・モレ慰霊碑にて

ところで、この日の参加者のお楽しみの一つに、「清水寺ご本尊ご開帳」があった。33年に一度しかご開帳されないご本尊を今年は、参拝できるのである。前回は、2000年であったので、本来は、25年後の2033年であるのだが、今年は、「西国三十三所の観音霊場巡りを中興された花山(かざん)法王様の一千年大遠忌」に当たる年として、秘仏ご本尊をご開帳することになった。

ということで、皆ありがたく、また、緊張しながら拝観させていただいた。25年後に再びお目にかかれるかどうかわからない(その時私は、85歳)と思いながら、しばし手を合わせた。

十一面千手観音

その秘仏の名は、「十一面千手観音」である。二本の腕を高々と頭上に掲げ、組んだ手の上に仏様を戴く、「清水型」というスタイルである。
解説書の中に、「十一面の意味」とあり、観音様の心を知るヒントになると思い、興味深く読んだ。  前三面は慈悲の相、左三面は憤怒・叱正の相、右三面は努力精進を激励する相、後一面は諸困惑を笑い飛ばす相、頂上一面は如来相とある。
古来人々に親しまれてきた観音様は、慈しむだけでなく、ある時は叱り、ある時は励まし、また、ある時は笑い飛ばすというのである。
大いに納得し、その後しばらく、公民館祭りなどで”土産話”として活用させていただいた。
くよくよせずに、笑い飛ばしてみましょう ! ワッハッハ ! ワッハッハ !

 

2008.10.24 盛り上がった清衡公遷都行列(第66号)

豊田の館出立の神事

全国的に有名な春の藤原祭りがある。「義経公の東下り」という呼び名で親しまれているビックなイベントである。

市議会での質疑応答の中で、平泉の世界遺産登録にちなんで、上記東下りのような新しい祭りを起こせないものかという話題が出たことがある。その際、平泉の基礎を創った清衡公(藤原三代の初代)が、江刺(奥州市)から平泉入りした故事を再現するする祭りを考える余地がある旨答弁した経緯があった。

大変な人出の水沢市街地

鎌倉幕府の公式記録でもある「吾妻鏡」の文治5年9月23日の項に、「清衡、継父武貞卒去の後、奥六郡を伝領す。去る康保年中、江刺郡豊田の館を岩井郡平泉に移し宿館と為す。」とある。

6月補正予算に4百90万円余を計上して準備に取り掛かった。途中、定例記者会見でマスコミに問われるまま、「東下り」に匹敵するような祭りに育てる気持ちを込めて「東上り」という名称もありうると発言し、記事になった。
しかし、この名称は、平泉方面の評判が芳しくないとのことで、最終的に「清衡公遷都行列」となったものである。

平泉到達式

清衡公役には、かってNHK大河ドラマ「炎立つ」で清衡役を演じた、奥州大使でもある、俳優の村上弘明さんに快く承引いただいた。  行列は、清衡、源義家(市長)、清原武貞(市議会議長)の順で馬上の人となり、他の武者や稚児は徒歩の形で行進した。
天候にも恵まれて、各地とも大変な人出であった。特に、水沢区では、5千人近い群衆で、大いに盛り上がった。
それにしても、村上弘明さんの人気は、絶大で(大部分は女性?)、すぐ後ろにいる私は、霞みそうであった。
それでもめげずに手を振るうち、「シチョウさぁーん !」という声もチラホラあり !?

 

2008.9.15 どぶろく特区第1号「雪ぼたる」完成(第65号)

どぶろく「雪ぼたる」

9月7日午後5時、待ちに待った、どぶろく特区第1号「雪ぼたる」のお披露目会が、胆沢区若柳の農家レストラン・ほたるの宿で開かれた。

店主の佐藤カヨ子さんは、「この日を迎えることができたのも、相原市長のマニフェスト、岩手銘醸(造り酒屋)さんのアドバイス、皆様の温かい支援のお陰。」とご挨拶された。

ほたるの宿でパチリ

テーブルの上のご馳走は、これまで見たこともないような豪華なものであったが、何と言っても主役は、「雪ぼたる」である。 実は、”私だけ”既に試飲している。左の中ほどの写真は、8月23日のまちづくりフォーラムに先立つ昼食会で、IBCアナウンサーの村松文代さんとご一緒した時のものである。
このとき、佐藤店主に馳走になったのであるが、その色合い、舌触り、しっとりとした味に合格点を感じたのであった。

どぶろく特区は、年間6キロリットル未満の製造でも酒税法上の免許が取得できるが、自分の農地で米を栽培し、その米で酒を作らなければならないなど制約も多い。

お披露目会の風景

佐藤店主の積極性によって、ほたるの宿さんに、手を上げていただいたことにより、特区の申請を国にすることができた。
そうしたことから、今回のことで、感謝しなければならないのは、マニフェストの遂行義務を担う私の方である。

「何事も最後は、人である。」と改めて思いつつ、
ありがとう ! そして、頑張れ「雪ぼたる」 !

 

2008.8.18 第12回未来の都市を創る市長の会(第64号)

パネルディスカッション

8月2日(土)、奥州市のZホールで、未来の都市を創る市長の会が開催された。出だしの挨拶の際、真っ先に気になったのは、入り込み具合であった。
しかし、案ずるより産むが安しである。”事前運動”が奏功してほぼ満席であった。

満員御礼

これに気をよくした私は、最初の挨拶と基調報告「マニフェスト(政策宣言)の導入による行政経営」を時間オーバーで行なってしまったらしい。
次の野平前銚子市長(司法修習生)の基調講話「千葉県銚子市への大学誘致活動について」の際、同氏が「相原市長が15分オーバーしたので、持ち時間20分のところを5分で決めたいが、そうもいかない」と話したことで、気が付いた。

休憩後のパネルディスカッションでは、コーディネーター役ながら、時間内にいかに、遠来の首長さん方に多く発言いただき、地元の聴衆にその話を楽しんでもらえるかに腐心した。

向かって左から、細江岐阜市長、五十嵐横手市長

細江岐阜市長、青木東京都目黒区長、五十嵐横手市長、野平氏は、パネルディスカッションのテーマ「マニフェスト(公約)を活かした行政経営と市民評価」を意識しながらも、自らの主張やスタンスをしっかりアピールしたようだ。

最後に会場からの質問も複数あり、5分少々時間オーバーした形で、まさに盛会裏に終了することができた。

終了後、廊下で出会った知り合いの女性に「硬いテーマで聞くのが大変だったでしょう」と話しかけると、「面白かったですよ」と答えてくれた。

向かって左から、野平前銚子市長、青木目黒区長

後日、同級生の懇談の席で、女性陣から、「あの市長さんは、本当に素敵だった。もっと話を聞きたかった」などの話をされ、気回しの良い男性が、あわてて、「相原市長の次にだろう」と発言する一コマもあった。

まさに、友であり、好敵手であり、師である。

 

2008.7.21 一歩後退二歩前進の平泉世界文化遺産登録(第63号)

ペルー大使館を訪問した知事と三首長

7月7日は、七夕。牽牛と織姫が年に一度だけの逢瀬を楽しむ日だ。
しかし、平泉世界文化遺産登録を待つ身にとっては、「今年は、残念ながらお会いできません」と言われたような日となった。

午前9時40分にカナダのケベック市に出張している岩井副市長から電話があり、「たった今終了した世界遺産委員会の審議の結果、イコモス勧告と同じ『記載延期』に決定した。論議は、39分も要し(通常案件は15分程度)、登録を支援する流れもあったが、逆転登録には至らなかった。」とのこと。

どうやら「石見銀山」の再現はならず、二匹目のドジョウに会えないことになった。
写真のように、イコモス勧告(5月23日)後、知事を先頭に21の委員国の大使館回りを行なったり、姉妹都市であるオーストラリアのグレーターシェパートン市長に応援要請をしてきたが、判定は、”暫し待て”となったのである。
なお、グレーターシェパートン市長からの返信によると、政府を通じてユネスコ出席の委員に伝えた由。こうしたことも手伝ってか、世界遺産委員会での論議では、いくつかの国からの好意的な論調が目立ったようである。

庭のアヤメ

残念ながら、逆転登録にはならなかったものの、、これまでの他国の登録事例を見ると、「記載延期」から短期間で「登録」となったものが多数ある。
また、今回の事態は、日本政府として初めてのことであり、国内はもとより、現地カナダでも、日本側の精力的な活動や圧倒的に多い報道陣によって大きな注目を集め、大きく知名度をアップさせた。
さらには、新たな住民一丸となりうる目標ができたともいえる。

災い転じて福となそうではないか。一歩後退二歩前進である。

 

2008.6.18 岩手・宮城内陸地震(第62号)

決壊した市道

6月14日は、まずまずの穏やかな日和であり、朝8時40分過ぎ、公用車に乗って、水沢区羽田地区の水沢ふれあいの丘公園で開催される県民体育大会ゲートボール大会の開会式に出席するため、のんびり構えていた。

同45分ごろ、伊手川の橋を渡ろうとしたあたりで、パンクでもしたようなブレを感じ、小野寺運転手の「地震です」の声とともに、橋の手前で停止した。他の車もみな止まり、川面が海のように波立っているのが見えた。
しかし、家並みが倒れたという様子もなく、安堵しながら再び会場を目指した。

愛犬と四葉のクローバー

会場に到着して、担当者のメモを見て、「震度6強」とあるのに驚いたものの、実感がわかず、そのまま開会式に臨み、祝辞を述べた。大きな余震もあった。
間もなく、市役所に向かい、災害対策本部長として、諸情報に接するうち、大変な事態である事が分かってきた。

全国トップニュース、栗原市(宮城県)、一関市方面には死者発生、当市ではブナ林探訪バスツアーががけ下に転落、道路の決壊、水道管の断裂、住宅倒壊などが、一気に訪れた。
こうなれば、無心で全力を尽くすほかはない。早速現地にも飛んだ。自然の力の下に人の造しものが、いとも簡単に捻じ曲げられてしまっている。無残な道路をみながら、残念な思いに浸っているとき、のんびりと謳う鶯の声が、やけに澄み切って聞こえた。

天井が落ちた公民館

住居倒壊などのため、体育館に避難している一人暮らしのおばあさんも見舞った。後片付けの仕様もなく、寂しく微笑むのみの彼女をみて、つい、「職員の力を借りてでも、あとかたづけしましょう。」と言ってしまった。
その後これが実現して安堵したが、今後の生活の見通しは暗く、みんなの協力を待つしかないようだ。

「親父」はともかく、地震と雷はいまだに強い。

 

2008.5.17 愛犬との十の約束(第61号)

愛犬クルミ

我が家の愛犬クルミは、平成14年11月9日生まれの5歳の雌犬で、コーギー犬である。
この欄にもかって登場している。

2年ほど前に盛岡に住む二男坊が、思うように世話ができないとして、預けていったものである。
クルミという名も、彼が飼っていたウサギの名のミルクを逆読みにしたものと言う。

「犬と私の十の約束」

実は、室内犬であった。半年ほどは、その通りにしたけれども、毛の散乱に悲鳴を上げ、申し訳ないが、外に出すことにした。

外といっても、昼は小さな蔵を占領し、あるいは農家ゆえの広い庭を跋扈させ、夜は、母屋と棟続きの納屋兼車庫に寝床を取る。

我が家のメンバーは、父、母、妻そして私であるが、それまで犬を飼ったことはなく、戸惑いの連続であったが、いつもそばにいて、常に変わることなく愛想を振りまく愛犬に皆魅了されてしまったようだ。

ところで、作者不詳の短編詩「犬の十戒」をご存知だろうか。これをモチーフにした映画「犬と私の十の約束」もでき、写真の本も出版されている。

愛犬に対して忘れてならないのは、「1日2回の散歩」ぐらいしか思いつかなかった私にとって、次の2点が特に印象深いものであった。

我が家のフルメンバー(二男も)

☆ 私の一生は、10~15年くらいしかありません。ほんのわずかな時間でも、貴方と離れているのは、辛いのです。私のことを飼う前に、どうかそのことを考えてください。

☆ 時には、私に話しかけてください。たとえ貴方の言葉を理解できなくとも、私に話しかけている貴方の言葉で、理解しています。

爾来、とにかく話しかけ、一緒にいる時間を多く取るようにしている。
“まだまだ不十分よ !”とは、愛犬の声か !?

 

2008.4.20 奥州市の春まつりと祝辞での冷や汗(第60号)

江刺甚句まつり42歳年祝連の披露会

百花繚乱の季節とともに、奥州市の春祭りの季節がやってきた。3月30日には羽田火防祭(水沢区)、4月20日には奥州前沢春祭り(前沢区)、4月26日には水の郷さくらまつり(胆沢区)、4月28、29日には日高火防祭(ひたかひぶせまつり、水沢区)、5月3日には子供騎馬武者行列(水沢区)、同日から4日まで江刺甚句まつり(江刺区)と目白押しである。

市長は、そのすべてに出席するが、日高火防祭では、囃屋台(はやしやたい)の行列の先を練り歩き、子供騎馬武者行列では、馬に騎乗し、江刺甚句まつりでは先頭で踊りを踊る。

自分にとって、初回の印象は強烈で、生涯忘れることはないだろう。江刺甚句踊りなどは、何度練習しても”手と足が同時に出てしまう”という初心者特有の動きが直らず、自宅でカセットテープを聞きながら直前練習に汗を流したものだ。

それだけに、終わった後の充実感・満足感には、何ともいえないものがあり、その際のビールの美味いこと、美味いこと !

我が家の梅の花

ところで、こうした祭りには、厄年連(年祝連)が主役等として踊るなど大きな役割を果たす。
奥州前沢42歳厄年連「桜未申友会(おうみしんゆうかい)」、日高火防祭25歳厄年連「子勇伝(しゆうでん)」、同42歳厄年連「翔未会(しょうみかい)」、江刺甚句まつり25歳年祝連「心舞蓮(しんぶれん)」、同42歳年祝連「讃祥会(さんしょうかい)」の皆さんである。

このような厄年連(年祝連)の方々の踊り披露会などに呼ばれて祝辞を述べる際、原稿を手にしない主義の私としては、固有名詞を頭に入れなければならないが、正直なところ、簡単には記憶できない。さてどうしたものか。

良く見ると、会員が身に着けているスタッフジャンパーの背中にその名称がくっきりと描かれている。「よし、それを見ながら述べればよい。」

ところがである。「好事魔多し」である。私の祝辞を聞こうとして、皆くるりとこちらを見たからたまらない。”あれれ、肝心の背中が見えなくなってしまった !!”
あとは、どうなったか、聞かないでほしい。

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