相原正明の個人オフィスのホームページです

2022年4月~2023年3月

 2022年4月~2023年3月

 

2022(R5).3.31

ー工藤厳(いわお)元岩手県知事を偲ぶー

(第119号)

滝沢村助役時代に工藤厳知事と面談(知事室)

「永遠の今に生きるー回顧・前知事工藤巌」(1996)

県復帰後、退任間際の工藤知事にご挨拶
(知事室で)

毎日の昼食後、自宅2階の書斎で20~30分程度、故人となった父母の諸資料のほか、本に目を通すことにしている。間もなく眠くなって昼寝となるが、毎日の積み重ねで結構な読書量となる。その本も新しく購入するものだけでなく、本棚他にある昔読んだものもある。その中に、上に掲げた「永遠の今に生きる―回顧・前知事 工藤巌 (1996)」があった。岩手日報社から発行されたもので著者は同社編集委員室となっている。

実は、工藤知事さんとは個人としても特別な思い出がある。私が県派遣の形で滝沢村助役の任(1992(R4)~1994(R6)年度)に就いていた時である。滝沢村で助役人事が2回も村議会否決となったのを受けて、工藤知事の後援者である滝沢村議複数が同知事に助役の派遣をお願いし、知事が協力する旨の発言をしたと聞いていた。助役2年目に入り、ある程度様子もわかり助役任務に自信も出始めていた私は、この時期に、知事に一定の報告をすることが良いのではないかと考えていた。当時知事秘書を勤めていた、県職員としての仕事仲間でもある倉本氏に相談したところ、しばらくして知事が快諾したとの知らせが入った。

その面会日時は、1993(R5)年4月30日(金)午後1時半であった。役場から公用車(助役車)で県庁に出向き、知事室に入った。工藤知事とは初対面であり、当然緊張していたが、知事さんはにこやかにまるで親戚の後輩が訪ねてきたときのように笑顔で迎えてくれた。上(左)の写真のように対面し、用意の簡単なペーパーをもとにお話(報告)をさせていただいた。正直なところ、派遣されている県職員が自ら申し出てこのような面会をすることをどう感ずるのかという不安はあった。しかし、教員・行政幹部・市長・衆院議員を経て知事になられた工藤先生はむしろこうした積極性を評価してくれた様子であった。まずは大仕事を終えた満足感があった。

2回目は、1995(R7)年4月4日(火)である。工藤知事さんはこの月の28日に退任(後任は増田寛也氏)することになっていた。私は、滝沢村助役を3年勤め上げ、この3月に退任し、4月1日から企画調整部資源エネルギー課長に就任していた。いわば帰県庁のご挨拶に出向いたのである。上(右)の写真のように一切の荷を降ろしリラックスした中で「やあ、ご苦労さん。よく帰ってきたね。」という感じであの笑顔で応対していただいた。もうすこし仕事や人生のことで教えをいただきたかったと思った。

本の中では、「人生は演劇である」との考えのもとに「天与の配役に全力」を尽くされたとのことである。著者がつけた「永遠の今に生きる」のタイトルもピッタリの人生であったと感ずる。

 

2022(R5).2.28

ー「著述集Ⅲ」印刷作業奮闘記ー

(第118号)

大活躍のプリンター

印刷後の姿(左:奇数ページ 右偶数ページ)

この心象スケッチの2022(R4).5.31付け第109号で、「相原正明著述集Ⅲと生涯出版計画」について述べた。大きな構想話をゆったり展開した。ところで、それは表舞台のスポットライトを華やかに浴びる部分で、裏方の埃まみれ、汗まみれの話しが別にある。ここではその苦労話をご披露したい。

第Ⅲ集A5版226ページものがほぼ出来上がった時期である。お世話になっている印刷屋さんに印刷・製本の見積もりをお願いした。やがて出していただいた見積もりの数字を見て愕然とした。これでは財源的に生涯10冊出版計画には全く届きそうもない。おそらく第Ⅴ集で資金切れ終了となる。

熟考の結果、経費を大幅縮減するため、印刷会社には製本と表紙のみを頼み、原稿(既にワード形式で終了)と用紙への印刷は全て自分で行うこととした。この線で再相談したところ何とか資金的にはいけそうである。ただし、印刷機は家庭用のプリンターであり、印刷技術は不案内である。いわて未來研会報の発行で鍛えた技術に頼るしかない。

まず、そろそろ古くなっていたプリンターを新調し、高紙質のA5判用紙を印刷屋さんから買い揃えた。目標は、150部であり、1日2冊印刷として、余裕を見て5か月で仕上げると計画。 

9月10日ついに印刷をスタートさせた。時間は、午前の前半の約2時間で、印刷機が動いている合間に洗顔したり、朝食を取ったりという形だ。いろいろなことを考えながらなので、とにかく間違えないように作業を単純化して、用紙の位置、上下なども変えないようにした。

印刷機は、大量印刷の負担軽減のため、カセット方式(くるりと紙を回して印刷)ではなく、後トレイを活用し、印刷用紙が自らの重みで1枚ずつ上方から落ちてくる間に印刷するスタイルを取る。

細かい注意事項が無数にある。まずは本を開いたとき見やすいように「とじしろ」を5mmに設定したが、間もなく気づいて、奇数ページは左側に、偶数―ページは右側にとじしろを付する設定が必要と気づく。

次に226頁をまず表側奇数ページ印刷で行い、次に裏側偶数ページ印刷で行った。ところが出来上がりを見るとページがズレてうまくつながらない箇所が出る。印刷後に一枚ずつめくりながら調整。間もなくうっかりミスで偶数ページから先に行なったら、何と一発できれいにページ順(1~226)となった。コロンブスの卵よろしく解決。

さらに苦難は続く。30冊ほど進んだ頃、ページ表記の部分に10枚に1枚くらいの割合で印刷の汚れが付くようになった。仕方なく2冊分の印刷が一応終了後、汚れページを抜き出して再印刷。時間が余分にかかることになった。しかし、あることに気づいた。それは裏側印刷をした113枚(表裏で226頁)のほとんど全てに汚れが付かないのだ。そうするとプリンターの問題ではなく、印刷紙のよじれからくるものではないかと察せられた。改めて印刷前の紙を数十枚重ねて見ると結構たわみがあり、ひょっとするとこのたわみがインクをはじいて散らすかもしれないと推理。そこで印刷に入る前に113枚を一度白紙コピーする形でプリンターにくぐらしてみた。時間的には2~3分要するのみ。するとご正解!! 見事に印刷の汚れがなくなった。なにやら犯罪捜査の名刑事になった気がした。

ここまで試行錯誤した結果、洗顔、朝食などの雑事をこなしながら、約1時間半で226頁物の本2冊の印刷を終えることができた。このノウハウを販売できないか!?

このような苦労をしながら、予定より早く仕上げることができたのである。そこで余裕冊数分としてさらに50部増やすことにし、続行。プリンターがストライキを起こすこともなくスムーズに終了。2月26日の発行日に十分間に合わせることができた。

成せばなる ! 改めて努力の成果、人の力を感ずる事が出来た。

 

2022(R5).1.31

― 心象スケッチ風選挙アラカルトその1 ― (第117号)

県企業局長執務写真

江刺市長選挙風景

 

令和5年2月26日に「相原正明 随筆・エッセイ 著述集Ⅲ―初代奥州市長2年目の軌跡・滝沢村助役心象スケッチほか―」をA5判226頁で150部自費出版した。その後書きの中で、亡父正毅が生前に7冊の本を世に出したことを挙げ、それを追い越すべく努力する旨述べている。出版を取材報道頂いた地元3紙にもそのことが掲載された。

早速、第Ⅳ集に向けて歩み出しているが、構想として何か特色を持たせる意味で、「心象スケッチ風選挙アラカルト」を10篇ぐらいまとめてみようと思った。「アラカルト」は、本来食堂などで、客が自由に選んで注文できる一品料理を指すが、料理だけでなく、音楽や芸術作品でも一つ一つの作品を「アラカルト」と言うことがあるとされる。ここでは、「互いに順序も関連もばらばらに」といった意味合いで用いたい。

最初に、岩手県職員の退職者で組織するいわて県友会の会報「いわて県友第93号(平成28年3月8日)」に掲載頂いたエッセイを紹介する。

「県を退職した頃 」  奥州市 相原正明

この欄の記事としては異例かと思いますが、私の場合は普通の県職員が選挙に出てしまったという変わった話の持ち主でもありますので、この機会に多少お話させて頂きたいと思います。

平成14年に32年余お世話になり、私の人生そのもののような県職員を企業局を最後に退職することになりました。郷里江刺の市長選挙に声が掛ったのです。5期20年務めた前市長の後継ということでした。とはいっても地元有力政治家との一騎打ちという前提であり、決断までには七転八倒の苦しみがあったことはお察しのとおりです。

それにしても政治家の家系とは無縁の家に生まれた私に何故受ける気持ちがあったのか。妻の父が都南村長であったこと、滝沢村助役に派遣されていた時期に村長死去により五十日間職務代理者を務めたことなどにより、県退職後の可能性の一つぐらいの思いがあったことは確かです。しかし、生計を維持できる家業も無い身で家族を抱えながら中途退職(54歳)し、やってみなければわからない選挙に出るということは冒険そのものでした。家族の反対も当然です。

それでも「虎児」を得たい想いが強く、遂に「虎穴」に入ったのでした。退職直後から三カ月余かけて江刺の一万世帯を回り、およそ四か月目に無投票当選となりました。結果は吉と出ましたが、後輩の方々には余程条件が整わない限りお勧めしないつもりです。

その後奥州市長職も経て退任となり、現在は貴重な経験と一定の蓄積を還元したいと願い、政経関係のNPO活動などで忙しくしております。

 

2022(R4).12.31

― 政策意見提言への誠意ある対応に感謝 ― (第116号)

知事あて提言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市長あて提言

 

 

 

 

 

 

 

私が会長を務めさせていただいているNPO法人いわて未来研では、毎年政策・意見提言を取りまとめ、大臣、知事、市町村長さらには県選出の国会議員や政党の本・支部に提出している。

およそ半年かけて240名余の会員から意見などを募り、事務局(といっても実際は会長兼事務局長の私)が取りまとめて成文化している。

今年は10回目となるが、例年並みの16項目をまとめた。内容的には、主に国政に関わるもの三分の一、主に県政に関わるもの三分の一、主に市町村政に関わるもの三分の一という風にバランスを取っている。全体の件数が少ないので、これらを分冊せずに一冊の提言書にする。丸一カ月に及ぶ集中作業の中では、政治家、首長、行政庁のトップ官僚などのいわば一流どころに伍して引けを取らないセンス、視点・視野、分析力、解決に向けての先見性となるよう心血を注ぐ。出来上がった時は、背もたれの大きい椅子にゆったりと座り一杯のコーヒーを啜りながら、なかなか立派な姿をしていると自画自賛する。

理事会で承認を得て、早速提言行動を開始した。

第1回目から知事関係は会長の私が、市町村長関係(実際には対奥州市長)は副会長さんにお願いして動いている。一時期は国会議員の方々、県議会の各会派を訪問したことがあるが、基本的には知事関係を代表して県南広域振興局長、市町村長を代表して地元の奥州市長に面会し、他の行政機関(大臣を含む)や政党に対しては文書送付の方式を採っている。

常々感謝していることであるが、県側では、県南広域振興局で事前にこちらの提言内容について、県の各部局に問い合わせ、その回答を得て私たちの訪問当日に局長さんからお話し頂いている。これは二重の意味で有難いことである。すなわち、「聞き置く」だけで回答がない状態とはならないということと、県の各部局にこちらの提言が確実に伝わるという意味においてである。ちなみに国の行政機関ではこのような対応がルール化されておらず、文書送付しても何の対応も反応も感じられない実態であり、極めて残念である。同様の内容を国会議員に送付しているのでその側面支援を期待している。

もう一つの重要局面は、奥州市長への面会・提言書手渡しである。会長の私が出向かず、副会長と理事が出向いているが、第1回から常に市長自ら応対いただいている。この間、小沢昌記氏から倉成淳氏に交代しているが同じ対応として頂いている。必ずしも奥州市には直接かかわらないような市町村一般の事案についても丁寧にお聞きいただき、コメントを頂戴している。次の年もがんばるぞという気持ちが沸き起こってくる。感謝 !!

2022(R4).11.30

― ハロウ校視察記 ― (第115号)

ミック校長と私

 

 

 

 

 

 

 

 

        ハロウ安比校

11月23日(水)、休日(勤労感謝の日)ではあったが、相手先の都合に合わせ、いわて未来研会報・情報誌の取材に八幡平市の安比高原に向かった。当会W理事と会員(私の妻)が同行した。

取材の相手は、驚くなかれ、今年8月に開校したばかりのハロウインターナショナルスクール安比ジャパンのミック・ファーリー (MICK FARLEY)校長である。地元紙に大々的に報道され、岩手県、八幡平市と連携協定も結び注目の的であった。450年に渡り、リーダー(チャーチル元英首相など)を育成してきたハロウスクールイギリス校の姉妹校で日本初という。アジア地域の富裕層の子弟を集め、7~13年生(小学6年生~高校3年生)の約900人を見込む。全寮制で学費は年900万円前後。世界の一流大学に進み、世界のリーダーとなる人材育成を目指す。

全く夢のような話でとても現実とは思われない気がしていた。

ともかくいわて未来研会報・情報誌にインタビューの形で掲載できたら、インパクトの大きさは計り知れない。勇気を出してまずは窓口に電話してみた。応対が英語なのに意気阻喪気味となったが、すぐに日本語でも通じることが分かり、しかも取材対応メニューが用意されていた。応対に出たAさん(渉外担当部長。女性)に当会はもとより私個人のピーアールを懸命に行った。10日ほどして出た結果はOK。ミック校長が直接対応するとのこと。扉は開いた。

望外のことであったが、取材の前に1時間ほど校内を案内して頂けることになった。安比高原の山間地、有名な安比ゴルフ場に隣接した土地約10haに「校舎などの延べ床面積25,000㎡。ITを駆使した最先端の教育を受けられるイノベーションセンター棟やスポーツ棟、寮棟など全8棟を備える。」施設をA部長の案内で隅々まで拝見した。通常の教室風の空間はなく、実験・実習エリアの連続の感がする。立派な屋内温水プールもあり、豊かな財力に裏打ちされているようである。全寮制の寮内も一部拝見しながら遠く日本まで来て山間部に長期間住む子どもたちの心を思った。寂しくないのであろうか。しかし、この点は携帯電話で毎日でも海外の家族と話ができるとのことで安堵。

ミック校長は、気軽・気さくな雰囲気で応対してくれた。奥様と安比に住んでおられ、甘いものが好物の様子。土産の羊羹の話をするとほおが緩んだ。予め詳細な質問項目を出している(相当勉強し相当時間を掛けている)ので、基本的には予定のやり取りとなる。最初気になったA部長の通訳を挟むことも次第に気にならなくなり熱が入る。ついこちらの意見・感想を予定外に言ってしまい、それに反応いただく場面もあった。

詳細はいわて未来研会報・情報誌第51号(2023.2.3)をご覧いただきたい(ホームページに掲載)が、「ハロウスクールの価値観である勇気、名誉、謙虚、友情は、生徒そして卒業生が常に立ち返ることのできる原点です。世の中に出て、いろいろ悩むこともあるでしょうが、この価値観を念頭に考えれば、おのずと答えは見えてくることと思います。そういった存在としてこの価値観はあります。」とのお話が特に印象に残った。

日本と岩手に突如訪れた夢のようなスクールを好奇心レベルから応援レベルに昇華した想いで、ハロウ校を後にした。

 

2022(R4).10.31  

― 私とゴルフ ― (第114号)

内丸会優勝プレート
2001(平成13年).8.4

 

 

 

 

 

 

 

 

息子2人とのゴルフ
2001(平成13年).8.15

 

 

 

 

 

 

 

10月14日(金)、年に一度の楽しいゴルフ会があった。ここ数年は同じ3人のメンバー(私以外は盛岡在住)で、秋に県内のいずれかのゴルフ場で行っていた。今年はメンバーの一人の希望(ほかの用事との関係で都合が良いらしい)で、地元の江刺カントリー倶楽部となった。これまでとは考えられないくらいのんびりと自宅を出て、10分余で到着。遠方から駆けつけたメンバーは既に到着していた。

この地元のゴルフ場には、県職員時代に中学校同級生の面々としばしば訪れていたし、市長時代は始球式で何度かクラブを振っていた。しかし、現職時代にプレーから遠ざかっており、その後もほとんどゴルフをしていないことから、この地元ゴルフ場は本当に久しぶりであった。緑のコースと青い池が調和した美しいゴルフ場である。

ゴルフを始めたのはいつ頃であろうか。実は正式なゴルフ場のコースでプレーした記録を残している。第1回は1988年(昭和63年)9月で、県庁の先輩U氏に連れられて盛岡ハイランドカントリークラブで行った薄暮ゴルフ(14時から15時以降のスタートで、9ホールまたは18ホールを回る)である。2人での練習ラウンドで、前半79、後半70、計149(パープレイ72から77オーバー)の立派な初心者スコアであった。

その後、年6~10回コースに出たが、練習場にはほぼ毎週通った。年平均のコース成績は、初年度155から3年後には125となり、初心者脱却の108を切ることも出来るようになった。

しかし、県職員職場でのコンペ(大会)では、冷や汗、恥掻きの連続で、辛い場面が多かった。生来の運動神経にも関係したかもしれない。それでも当時はゴルフを嗜み、宴席でその話ができないと一流コースからは遠ざかる雰囲気があり、また、唯一の運動=健康対策としても有用なため頑張り通した感がある。

神は努力を見捨てず、コース104回目にあたる2001年(平成13年)には、著名な大会「内丸会」で優勝(スコア94)することができた。翌2002年には、江刺市長選出馬のため、県を途中退職し、地元(江刺市)に戻ってあいさつ回りを始めたが、その際作成した自己ピーアールリーフレットの趣味の欄には、堂々と次のように記すことができた。ハンディ27とは、平均スコアが99(パープレイ72から見て27オーバー)の意味合いである。

趣味:俳句、囲碁(五段)、ゴルフ(ハンディ27 ?)

開店休業した市長時代以降は、練習も本番(コース回り)も激減し、スコアも限りなく初心者時代に戻りつつある。それでも年1回のコース回りのために、練習場に1~2回出向き、ゴルフ用具を鼻歌交じりに磨くのは楽しい。俳句、囲碁と並んでやはり生涯の友である。ゴルフよありがとう。

 

2022(R4).9.30 

― 我が家の十大ニュース ― (第113号)

第1回に記載された登山の写真

 

 

 

第8回の餅つきの写真

我が家の十大ニュース作りを毎年行っている。1984年(昭和59年)を第1回とし、2001年 (平成13年)の第18回まで18年間途切れることなく続いた。十大ニュースには順位がついて おり、その決定ルールは家族6人(私の父母、私夫婦、私の子2人の計6人)の投票によると いうものである。いつも年末の家族がまる時期に行い、投票当日に発表し、それを肴に加 えて年越しを過ごすのである。候補案の作成、投票準備、集計・発表、結果表作成配付は 全て私の仕事である。その18回それぞれの第1位の一部を次に掲げる。多少表現を修正し たものもある。  

第1回(昭和59年)… Y(長男5歳)、A(二男2歳)、お父さん、お母さん、おばあちゃんと姫神山(1,125m)に登り、頂上を極める。(5月)  

第3回(昭和61年)… おじいちゃん、長年蓄積した手記を取りまとめた「わが来し方わが出会い」を出版し好評を博す。(9月) お父さん、課長補佐昇任。 (4月)  

第5回(昭和63年)… Aちゃん小学校入学。喜び一杯でお兄ちゃんと通学。 (4月)  

第8回(平成3年)… おじいちゃんの発案で、何十年ぶりかで、臼による餅つきとなる。 親・子・孫の三代全員が杵を振るう。(12月)  

第9回(平成4年)… お父さん、滝沢村議会において、満場一致で助役に選任され、翌月 から就任。(3月)  

第12回(平成7年)… 土地改良事業に端を発した愛宕邸の移転新築もついに完成。洒落 た設計と色彩の新居で、総坪数78坪。10月1日、70年近く慣れ親しん だ旧家屋に別れを告げ、新宅に移り住む。(10月)

第14回(平成9年) … お兄ちゃん、○○大学に入学。Aちゃん、○○高校に入学。共に新し い学生生活に大張り切りで踏み出す。(4月)    

この十大ニュースは平成14年に中断している。実はこの年の10月に私が永年勤めた県 職員を辞し、江刺市長選に出るために両親の住む江刺市に移り、選挙準備のため何かと 落ち着かなくなったためである。  2017年(平成29年)に16年ぶりに復活した。理由は明確でないが、古希を目前とした私 が、かつての自分の記録や先祖の記録を暇を見て読み出したことと関係があるかも知れな い。特に当時96歳となっていた父が大切にしていた書類つづりの中に、上記18回のわが家 の十大ニュースを記したものがあることを知った事が大きかったかもしれない。  

読み返すうち、重要な家の歴史書でもあると感じた。同居の両親は九十代の高齢であり、 二人の息子は独立して遠隔地に家族を持っていることから、かつての様に投票して点数・ 順位をつけることはできないので特に大きいと思われる項目に〇印を付す程度である。ま た、各項目ごとの文章が長くなり、記録集にも見える。仕上げ時期はなんと5月とか6月で ある。大切に保管し、出来たものは息子家族にも送っている。  そのうち、私の次の著述集(現在、明年2月発行予定のものを加えて第Ⅲ集まで)の中に 入れ込んで、後世にきちんと残るようにしたいと考えている。

2022(R4).8.31   ― 遠隔地の孫に贈る言葉 ― (第112号)

遠い九州地域に孫が3人いる。高校生の女子、中学生の男子、小学高学年の女子である。近年はコロナ禍の事情も加わり容易に会うことができず、誕生日などの節目の電話や写真・動画の交換程度である。祖父としての指導育成を多少なりとも果たしたいとの思いもある。私自身は中学1年まで江刺で祖父母と同居し、有形無形の教え・支援を頂いてきた。その有難い経験を形を変えて生かせないかと考えた。

思いついたのは、この心象スケッチでも取り上げた手紙である。肉筆の手紙なら何十年も残り、ときに読み返すこともできる。おそらく手紙のやり取りなどの経験はないだろう(携帯での電話・メール・動画送りで済ませている)から、良い人生経験にもなろう。

誕生日の順は年齢のそれとは異なっており、最初は、小学高学年の女の子である。

「岩手のじいちゃん、ばあちゃんは今すぐ会いたい気持ちですが、遠いので残念です。そこで今回は手紙を書くことにしました。おそらく初めて受ける手紙かも知れません。手紙は何十年も残るものですから大事に保管してもらえればありがたいと思います。

まず一つの言葉を贈ります。「真・善・美(しんぜんび)」です。人間として目指すべき最高の状態という意味を持つ言葉とされています。習字の中でも書いたことがあるかも知れません。もう少しで中学生ですから、この言葉をかみしめてみてください。」

次は、高校生の女の子。

「高校生のあなたには、『目標のないところに成果は生まれない』という教訓を贈ります。どんなに良い素質があったとしても、漫然と過ごしていては上達や成長の貴重なチャンスを逃してしまいます。

幸運の女神には前髪はあっても後髪はないと言われます。めったに訪れることのないその女神様をしっかり捕まえる(そら来たと前髪をつかむ。ぼんやりしていて後で気が付き、後ろ髪をつかもうとしてもできない。)ためには、あらかじめ目標・狙いをもって日々を送らなければなりません。これは勉学にもスポーツにも当てはまります。自分なりにかみ砕いてみてください。

最期は中学生の男子。

「剣道部の君には、剣道・剣の道に通ずる話をしましょう。柳生宗矩(やぎゅうむねのり。江戸時代、徳川将軍家の兵法指南役(指導役))が書いた『兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』に次の趣旨の記述があります。

『弓射る時に弓を射ると思う心があると弓前が乱れて定まらない。太刀を使う時(剣を取って戦う時)太刀を使うという心がある(たとえばこう打てばああくる、ああ来たらこう打つなどの想い)と太刀先が定まらない(ズバッと決められない)。』『やはり平常心が大切である。』

心が何かにとらわれていると良い成果が得られない。無心・平常心で臨むのが一番良いということです。中学生には難しいかもしれませんが、どこかで思い出すようにしてみてください。特に何をやってもうまくいかない時など解決のヒントになるでしょう。」

2022(R4).7.31   ― 九十代同級生からの弔辞 ― (第111号)

前号(第110号)の心象スケッチに紹介した故母ミツの葬儀の際の弔辞のことである。6月19日の葬儀後、母の若柳小学校時代の同級生(95歳)のK・Aさんにお礼の電話をしながら、訪問を了解いただいた。

6月26日の予定の時間に妻とともにお邪魔すると玄関前の広屋根の下で野良着を着けた姿で椅子に座って待っておられたた。手土産の菓子をお渡ししながら改めて弔辞の御礼を述べた。目も耳もしっかりした状態でお答えいただく。同級生はほとんど亡くなったというので、私が知っている供養塚のM・Sさんの名を挙げると彼女始め女性の何人かは存命と述べる。

本題の弔辞を持ち帰られた話に及ぶと「急いで乱雑に書いたものだったので持ち帰った」とのこと。「記念になり、また後日活字にすることも考えておりますので是非頂戴したい。ゆっくり清書いただき、郵送いただけないでしょうか。」とお願いすると二つ返事で快諾された。記念写真を撮ってお暇した。

その弔辞は9日後に郵送された。ありがたく仏前にお供えした。

謹んで以下に紹介させていただく。

「 弔 辞  謹んで今は亡き故相原ミツさんのご霊前にお別れの言葉を申し述べさせていただきます。今年もようやく春も過ぎ真夏日の続く今日この頃でございますが昨日の新聞の慶弔の記事の中に若柳小学校同級生相原ミツさんのお悔みの記事を目にいたしました。

近年養護施設に入所していることは伺っていたところでありましたが、きっと元気になられるものと安堵いたしておりましたが誠に残念でなりません。人生100年時代にきっと100歳まではと思っておりましたところ誠に残念でなりません。心から哀悼の誠を捧げ御悔みを申し上げます。

ミツさん、私達は昭和8年4月1日75名の御友達と共にあこがれの若柳小学校に入学し良き先生良きお友達と共にミツさんとは6年間心に残る楽しい小学校生活をおくる事が出来ました。この思い出は90歳を過ぎた今でも昨日のように思い出されます。

ミツさんは小学校6年生を卒業と同時に若柳小学校から唯一人、水沢女学校に進学され、私達も驚いてただ見守っていたものでした。その後は御会いする事もなく長い年月が過ぎ去りました。そしてその後江刺愛宕の相原様と御結婚なさいました事を知り驚いたところでありました。その後は長い間御主人様と共に盛岡市に居住する事となり、同級会等にも参加する事もなく、しばらくの御無沙汰でございました。

ミツさんがしばらく振りで江刺愛宕にて生活する様になりましてからは同級会にも顔を出し、私達を励ましてくれ楽しく過ごすようになりましたね。ありがとうございました。更には持ち前の書道にも力を注ぎ、私達にはあまり知られていない「破体書」との出会で、いつの間にか半生期が過ぎ去った事をお聞きし驚いておりました。書芸「相原北路」を名のり、更なる発展をいたしましたね。全国各地での書芸展に参加し、その腕前を御披露なさいました。そして東洋書道学会所属役員となり東京を始め各地での書芸展示に参加し、その腕前を御披露なさいました。その功績は素晴らしいものでしたね。私達は唯々敬意を表すると共に感激の連続でありました。

ほんとうにご苦労様、ありがとうございました。人生100年時代に97歳で天寿を全うなされ、安養の御浄土への旅立ちとなられました。この上はどうぞ安らかに御眠りなって下さい。

ミツさんのこれまでの御功績を讃えますと共に安らかなる御冥福をお祈り申し上げ御別れの言葉といたします。

ミツさん さようなら

令和4年6月19日   若柳小学校同級生       K・A   」

 

2022(R4).6.30   ― 常に味方の母逝けり ― (第110号)

令和4年6.17(金)遂にその日が来た。朝6時半、母の入院先である病院の看護師から「呼吸が緩やかになっている。危ないかもしれないので来院願いたい。あるいは来院途中で呼吸が止まる事態もあるかも知れない。」との電話が入る。妻と直ちに車で駆けつけ、午前7時には病室に入る。脈拍を示す計器は既にゼロを表示しており、首筋にはぬくもりが感じられるものの額からほほにかけては冷たさが出ている。2日前にリモート面会したときは、画面越しに本人の顔を見、看護師からいつもと変わらない旨話を聞いていた。翌日病院から電話があり、血中酸素濃度が下がったのでがっちりした酸素マスクをかけることにしたと連絡はあった。しかし、突然逝ってしまわれた思いである。「おばあちゃん、頑張ってね」が最後に掛けた言葉となった。

95歳(満年齢)であり、7年前(平成27年6月)に脳梗塞で倒れてからは話すことも食べることも出来ない胃ろう生活であった。仕方がない、天寿でもあるなどと考えながら、涙が出るわけでもなく、思いが定まらない。生まれた時から自分にとっては太陽の存在、どんなことがあっても最後は味方してくれる絶対の心の拠り所・存在を遂にあの世に送り出した。そんな私ももう74歳。一足先に母が父正毅のもとに旅立っただけとも感ずる。

令和元年末に父正毅が満98歳で逝去した後、生前にはそれほど改めては感じたことのなかった父への感謝の気持が日に日に強まるのに驚いた。母の場合はどんなことになるのか(気持が) 見当もつかない。葬儀などが終わってから圧倒的な勢いで襲ってくるだろう。

入道雲 常に味方の 母逝けり
この句は、直後の現代俳句協会ネット句会への投句作品である。150人程度の参加者が全体 300句程度の中から一人2句選ぶルールの中で、1名が選に採ってくれた。

6.19(日)あわただしい日程ながら和尚さんの都合もあり、この日に火葬と葬儀を行う。葬祭センター(岩谷堂)に安置された母ミツの遺体の周りには自宅から持ち込んだ屏風(母の書道作品) や額入りの書を置く。祭壇の遺影は父の叙勲祝い(平成21年11月)に夫婦で並んで写真館で写したもので、引き伸ばしても全くぼやけない素晴らしいものとなった。母としても生涯最良の日の写真でもあった。前夜は私・妻・息子の3人で母に添い寝する。

新型コロナウイルス対策のため火葬場(さくらぎ苑)は人数制限があり、親族のみで午後1時半から。葬儀会場の葬祭センターには一般ご焼香(15:30~16:15)の直前に到着するが既に列をなしている状態。受付から焼香台までは母の書道作品を並べ、また、葬儀会場の祭壇横には母が平成25年 9月に書道教室を閉じる記念に開いた作品展示会場にメインとして掲げた「鬼剣舞」など3幅の大きな作品を掲げる。百数十人の弔問(新型コロナウイルス感染対策のため一般の会葬者は焼香のみ)を 受けたのち葬儀開始。弔辞は書道教室生徒の佐々木恵美子さん、地域での活動をよく知る酉丸恪夫さん(元市議)であらかじめお願いした方々。3人目はなんと奥州市胆沢(母の生まれ故郷)から駆けつけていただき、花輪まで掲げていただいた同級生(95歳・男性)の阿部一江さんである。足は弱っているものの耳も意識も声もしっかりしていた。母が小学校同級生七十数名の中でただ一人女学校に進学した話などを初めて伺う。後日談であるが、弔辞文を持ち帰られたので、ご自宅を訪問し、送付を依頼したところ、清書してお送り頂いた。

儀終了後、夕刻6時近くなっていたが、まだ薄明るい中、親族による納骨を済ませる。まだ熱いくらいのお骨を私がわが家の墓のその場所に入れる。2年半前に墓入りした父正毅が「待っていたぞ。 なんだまだ熱いな」と言って迎えた気がした。

最後は息子家族とともに葬祭センターに戻り、きれいに後片付けをして終了。息子・孫たちに助けられつつ、こちらはダウン気味。やっと終わった。これからゆっくり心の中で母と語り合おう。

御会葬御礼の文を次に掲げる。万一の時を考え、あらかじめ用意していた。

謹啓 亡 相原ミツ儀(享年97歳) 葬儀に際しましてはご多忙のところ
御会葬御焼香を賜り且つ御丁重なる御厚志を戴き誠に有難うございました
故人の生前賜りました御厚情に対しましても厚く御礼申し上げます
お蔭様で葬儀を滞りなく相済ませることができました
母ミツは 現奥州市胆沢若柳に生を享け 県立水沢高女を卒業し
その後現奥州市江刺愛宕で復員軍人として農業に従事していた相原正毅と結婚しました
夫正毅が県職員(獣医師)として遠隔地に赴任する中
舅藤治郎 姑テルヨに仕え 正明 博子を育てました
その後夫の県本庁への転勤に伴い 盛岡で専業主婦として家を守り 子育てに励みました
生来感情を表に出し過ぎたり 話をし過ぎたりということはなく
子に対しても 自主性を重んじ、意見や注意は短い言葉で最小限という風でした
趣味としては 編み機を使っての編み物に精を出し
後に若い女性に教えたりもしていましたが
50歳頃から書道に目覚め 東洋書道芸術学会宮部北流先生に師事しました
水を得た魚の如く熱心に取り組み 数々の賞を頂き
やがて同学会教授となり 北路会(書道教室)を主宰するに至りました
平成25年(86歳)に体調不良を理由に書道教室を閉じましたが
表 した書は 江刺の名刹ほかに飾っていただいております
平成26年に脳梗塞で倒れてからは
話せず 食べれず 寝たきり胃ろうの状態となり
夫に見守られ 息子夫婦による在宅介護を受けておりましたが
夫正毅の逝去後の令和2年から病院に移り療養しておりました
若いころからの日記を見ましても家族を思い家族に尽くす日々の中で
向上心と強い意志の下 遂には書家ともなり
夫や家族の愛に育まれつつ天寿を全うした
素晴らしい人生であったと家族を代表して感謝申し上げ賛辞を贈る次第です
茲に改めて 皆様のご厚情お導きに御礼の御挨拶を申し上げますと共に
今後とも宜しく御交誼下さいますようお願い申し上げます
謹言

令和4年6月19日
岩手県奥州市江刺愛宕字橋本119
喪主 相 原 正 明
外  親 戚 一 同

2022(R4).5.31   ― 相原正明著述集Ⅲと生涯出版計画 ― (第109号)

このほど相原正明著述集Ⅲ「随筆・エッセイー ― 初代奥州市長2年目の軌跡・滝沢村助役心象 スケッチほか ―」をようやくまとめることができた。その前書きの「ごあいさつ」の中で次のように記述している(抄)。
❉ 2013年(平成25年)7月に「相原まさあきのメルマガ―江刺市長時代」を世に出し、次いで5年後の2018年8月に「相原まさあき著述集Ⅱ―奥州市長初年度のメルマガほか」を出版しました。いずれも自費出版で、県立図書館、市立図書館、知事、県内市町村長、お世話になった方々へお贈りさせていただきました。
想いとしては、人の尊い行いの一つとして、最後に文字で後世のために事実の記録や考えを残すことを実践し、併せて現職市長時代のものを著すことで、当該自治体の正史の補完資料としての役割を期待するというものでした。
その著述出版の目標ペースとしては、最初は1~2年に1冊程度、その後現実を踏まえて数年に1冊でしたが、前回出版から早くも4年半が経過してしまい、この度ようやくまとめることができました。
これまでと異なる新しさを出そうと思い、最初に滝沢村助役時代(1992-1994)の心象スケッチを登場させました。岩手県庁から派遣され初めて特別職を経験した3年間のフレッシュな印象録です。県復帰後に内々書き溜めていたものを表に出した形です。ある意味で私という人間が浮き彫りになっている気がします。
もう一つはタイトルです。「随筆・エッセイ」としましたが、もともとメールマガジンや心象スケッチはその分野に属していると思います。日本古来の伝統を活かす意味で「随筆」を、同義ながら新しい風を纏う意味で「エッセイ」を用いました。
メインはやはり、初代市長2年目(2007.4~2008.3)の現職としての著述・発言録です。5市町村合併後の新生奥州市のリーダーの熱い想いを明らかにするものです。
更に市長退任直後に政治・政策と市民の距離を縮めることを目指しNPO法人いわて未来政策・政経研究会を立ち上げましたが、その代表者として活動した10年間の軌跡―その間の著述(メールマガジン、心象スケッチほか)を収録しています。
今回も自費出版とし、150部を作成し、首長ほかの政治家、行政機関、報道機関、図書館、知人ほかにお届けしました。
(注) 今後ご希望の方が読むことができるよう、ホームページへの掲載を含めて工夫し努力してまいります。❉
(注) 自前印刷に時間を要し、令和5年2月発行の予定
こうした出版を人生の最後まで一定年数ごとに実現できれば本望であり、父正毅の7冊出版を超えることも夢ではない。著述能力は自然に任せるとして、大きな壁はやはり財源である。
今回の第Ⅲ集の出版を実現するために印刷業者さんと協議し、改めてそのことに気づかされた。
そこで、生涯出版計画を再樹立。生涯10冊の野望を満たすには著述集Ⅲを含めてあと8冊出さなけれ ばならない。計算上は95歳の時に最後の10冊目となる。頭が健康でさえあれば本の中身はなんとか蓄積できそうなので、問題は資金である。支出額を抑えるため、印刷まで自前(編綴と表紙とカバーのみ印刷 屋に依頼)、部数も150部程度とする。これだと印刷屋への支払いは紙代含めて約○○万円に収まり、こちらはプリンター代、インク代、送料で約○○万円と何とかなりそうである。
ただし、200ページもの(A5版)150部を自前印刷するとなると一日2部として約4カ月の時間はかかりそ うである。
ともかく、やれやれ、やっと見通しがついた想いである。。

2022(R4).4.30   ― 滝沢村助役心象スケッチ ― (第108号)


私は残りの人生の目標として、著述出版を一定年数ごとに行おうとしている。想いとしては、人の尊い行いの一つとして、最後に文字で後世のために事実の記録や考えを残すことが大切というものだ。

その目標ペースとしては、最初は1~2年に1冊程度、その後現実を踏まえて数年に1冊であるが第1冊目から2冊目に5年、さらに3冊目にやはり5年近く(予定)を要している。

この第Ⅲ集では、これまでと異なる新しさを出そうと思い、最初に滝沢村助役時代(1992-1994)の心象スケッチを登場させた。岩手県庁から派遣され初めて特別職を経験した3年間のフレッシュな印象録である。県復帰後に内々書き溜めていたものを表に出した形だ。ある意味で私という人間が浮き彫りになっている気がする。

その前書きに次のように述べている。

「この心象スケッチは、私が県職員時代に岩手県滝沢村(現滝沢市)に派遣されて村の助役を勤めた1992年(平成4年)4月から1995年(平成7年)3月までの3年間のうち、初年度の前半の印象を書き留めた形となっている。

いつ書いたかといえば、県に戻って暫くした1998年(平成10年)に私が教育次長をしていた頃と思われる。その助役時代を含めて当時は毎日日記を付けており、それを基にゆっくりしたペースで書き起こしたと記憶する。残念ながら途中で止まっているが、内容的には今読み起こしても新鮮かつコミカルで自分の作品にしては良い方と感じる。

本書に厚みを付け、楽しい要素を膨らませるため今回掲載した。自分にとっては涙が出るほど懐かしく、まばゆい作品である。改めて当時の滝沢村の皆さんに心から感謝を申し上げつつ……。」

このうち、2編を紹介する。全文は令和4年度内発行を目指す第Ⅲ集「相原正明著述集Ⅲ 随筆・エッセイ ― 初代奥州市長2年目の軌跡・滝沢村助役心象スケッチほか ―」をご覧いただきたい。なお、出版(自費出版、無料配付)部数に限りがあるため、ホームページで閲覧できる形(ネット公開)にしたいと考えている。

「6  初出勤

4月1日午前8時30分、昨夜から特別に泊まっていた妻に見送られて助役公舎(マンション)を出る。晴れ。主要地方道盛岡環状線の 歩道を広大な田地にみとれながら歩く。5分もしないうちに4階建の赤茶けた役場に到着。窓際に沢山の職員が寄って、こちらを見ている。I総務課長の笑顔の出迎えに役場への一歩を記す。

予定の時間に村長室のドアを開ける。S村長はズボンをはきながら、「すみません。少し待ってください。」何となくホッとする。暫くして、収入役、教育長の侍立の中、村長から「助役に選任する」という辞令を受ける。読み上げる村長の低い声が印象的。

すぐ場所を移して職員辞令交付式に臨む。村長に紹介されて挨拶。「これまで市町村職員として仕事をしたことも、滝沢村に住んだこともありませんが、村長のご指導の下、職員の皆様のご支援、ご協力をいただきながら、微力を尽くしたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。」

「7  助役室

助役室は、廊下を挟んで村長室の向かい側にある個室である。もと会議室を改装した室で、絨毯の上に机、椅子のほか応接セット、木製のロッカー、書架、観葉植物、テレビが置かれ、エアコンもあり、更に大きな絵まで飾られてある。

来室したある県職員が、冗談交じりに県の副知事室より立派だと言ったほどである。窓からは、里の山々の奥に大好きな岩手山(2,039m)が望める。今後の我が公務員生活でこれほどの待遇を受けることは、もはやあるまいとさえ思う。

ただ、当初は、初めての個室勤務に何となく落ち着かず、たまに来室者があったり、電話が来たりすると、ホットしたものである。」

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