相原正明の個人オフィスのホームページです

2007年4月〜2008年3月

心象スケッチ 2007年4月〜2008年3月

2008.3.21 今年度最後の市議会終わる(第59号)

本会議場風景

2月22日から始まった定例市議会が、3月19日に終わった。ほぼ1箇月である。疲れたという思い、ホッとした思い、やったぞという充実感などが入り混じる。

年4回の定例議会の中でも、特別な議会である。来年度の行く道・方角を大いに議論し、定める場だからだ、
市長の施政方針を述べ、それに対する質疑が約5時間行なわれた。次いで一般質問といって、市長に対する質問が、21人から、5日間にわたって続いた。

顔を出したクロッカス

答弁は、基本的なことを市長が、数字を含む細目を部長更には課長が答える。誰でも、最初は、何を述べたか覚えていないほど緊張する。
私も県職員時代の記憶が鮮やかに蘇る。そういえば、滝沢村の助役に就任した年(平成4年)の初答弁で、岩手日報に「堂々の初答弁」と書かれて冷や汗をかいたことを思い出す。

後輩の諸君のために申し上げれば、こうした答弁も、”場数を踏む”ことで、落ち着きとコクが増すものであるから、心配ない。

来年度の予算を集中審議する予算審査特別委員会も5日間開かれた。こちらの答弁は、主に部課長である。ということで、他のことを考えたりしていると、突然のように「そこで、これについては市長に聞きたい」と言われ、前段で何を言ったのか思い出せずに慌てることもある。

市長答弁

最終日は、夜9時の終了であった。議員も執行部も本当にお疲れ様でした。これで、新年度が迎えられます。

次の日は、休日。愛犬の綱を引きながら、写真のクロッカスや水仙など、春に誘われて顔を出し始めた花々をゆったりした気持ちで眺めた。

 

2008.2.17 第19回 全日本農はだてのつどい(第58号)

庭田植再現

2月9日、奥州市を代表する祭りの一つである胆沢区の「第19回全日本農はだてのつどい」が開催された。私としては、市町村合併前から、通算3度目の参加である。

「農はだての由来」には、こう記されている。
「その昔、私たちの祖先は、1年を休みなく働き、唯一のやすみといえば、正月10日間だけだった。

農はだてとは、その休みが明けて、新年の農作業を始める日をいう。この日、男達は、朝早くからモトツと呼ぶ24本の縄をない、女たちは、小さなワラを束にして取り出し、稲ワラを苗に見立てて、田植えをし、その上から豆がらをしいて豊作を願った。(以下略)」

福俵引き

地域の方々のアイデアと当時の町役場の職員の協力で立ち上がったこの祭りが、伝統行事を大切にしながら、子供からお年寄りまでが参加するスタイルで、内外の支持を得、年々盛んになり、19回を数えるに至ったことは、大きな賞賛に値する。

市長の役割は、「胆沢のまつり実行委員会会長」として、小学生の縄ない大会や夢灯りコンテストでの表彰、福引大会の最高賞授与、そしてその直後の全体に向けての挨拶である。

午後3時すぎから、本部テントで甘酒をいただきながら、行事をこなし、祭りメーンの午後7時40分から、厄年連全員による福俵引き(中段写真)に声援を送った。

冬空花火

最後は、胆沢野球場特設会場の夜間照明を消し、真っ暗闇となった中での冬空花火である。夏の花火と異なり、ピリリとした緊張感が漂う。直立不動でひたすら眺めた。終わりころに映した写真(:下段)もどこか透き通って、美しい。

 

2008.1.19 奥州市民☆文士劇「水戸黄門」(第57号)

ポスター(題字は不肖私)

間もなく、NPOいわてルネッサンス・アカデミアが中心となった、奥州市民☆文士劇「水戸黄門」が上演される。
期日は、1月27日(日)、場所は、江刺体育文化会館ささらホールである。

市民劇は、江刺区においては、市町村合併直前に当たる平成18年1月の「江刺市民による最初で最後の市民劇『みんなの舞台・エサシウタノチカラ』に続く第2弾となる。
今回は、要所要所に作家の高橋克彦さんを始めとする有名人を配置して、「文士劇」要素を加えた点に特色がある。

練習風景その1
(水戸黄門役の作家高橋克彦氏と奥州総奉行役の私)

この企画立ち上げの時に相談があり、”チョイ役ぐらいなら引き受けてもいいですよ”と安請負してしまった。
結果、「奥州総奉行」というピッタリの役を仰せつかった。
せりふは、「ハハッー」という部分を含めて、6箇所である。

昨年末から舞台練習が始まったが、声が小さいと何度もクレームがついた。マイクでの挨拶ばかりに慣れていて、地声の程度が分かっていなかった。
約900席の奥まで声を届けようとすると、自然に腹の底から搾り出すように発声するようになる。
今後の”街頭演説”に応用できそうだ。

練習風景その2(オールキャスト)

また、挙措・動作のことである。あくまでも、客席から良く分かるように、”大きく・誇張するくらい”に演ずるよう、監督から気合がかかる。
滑稽だとか恥ずかしいなどと言っていられない。次第に別の自分になっているような気がしてくる。まさに、”役柄になり切る”である。

ふと、人生も同じではないかと思った。人は、職務や立場に応じて、本来の自分とは少し違う自分を演出している。また、それが自己を成長させている。

期日が迫るに連れて、だんだん本気になってきた。ゾクゾクする気分は格別である。
どうぞ、ご観覧あれ !

 

2007.12.22 二人の貫主とのひと時(第56号)

清水寺森清範貫主

12月1日、紅葉シーズンで大混雑の京都路を進み、東山区にある清水寺を訪ねた。
宝亀9年(778)創建の寺で、何と言っても「清水の舞台から飛び降りる」の言葉で有名な舞台が荘厳な構えを見せる。

応接間で出迎えられた森清範(もりせいはん)貫主は、人を包み込むような温和な表情で、「私にできることなら何なりと」と言い、奥州大使の辞令を受け取られた。

毎年、清水の舞台で、全国民に「今年の漢字一文字」を墨痕鮮やかに記されることでも有名な貫主様であるが、いつもながら、全く飾るところがない。
最後には、「清水寺八福神(七福神に『於福(おふく)』という女神が加わったもの)」の解説を頂き、それが描かれた袱紗(ふくさ)を頂戴した。

清水寺境内にある
「アテルイ・モレの碑」

翌日は、京都駅から、電車を乗り継ぎ、左京区鞍馬本町にある鞍馬寺(宝亀元年(770)創建)を訪ねた。山門から本堂までの坂道は、「枕の草子(清少納言)」の中で、「近こうて遠きもの、鞍馬のつづらをり(九十九折)」と記されているが、現在は、ケーブルカーが運んでくれる。

迎えて頂いた信楽香仁(しがらきこうにん)貫主は、女流歌人でもある。「冬なので一番暖かい部屋を用意しました。」と言って、ぽかぽかと日差しの当たるソファーに席を勧められた。正直なところ、石段を何段も登って汗ばんでいたので、少々暑いと思ったが、お心遣いが有難たかった。

鞍馬寺信楽香仁貫主

鞍馬弘教総本山の最高位にある方であるが、自然豊かな鞍馬山の保全に大変気を配っておられた。
鞍馬寺とは、源義経に縁の深いもの同士(江刺区はNHK大河ドラマ「義経」のメーンロケ地になった)ということであるが、奥州大使も快くお引き受けいただいた。
最後に、貫主と私は、二周り違いの鼠年生まれと分かり、話しが笑いを交えて盛り上がったことであった。

 

2007.11.17 マニフェスト大賞特別賞受賞(第55号)

表彰式後のそろっての挨拶。
前列の向かって右から、
松沢、北川、東国原の各氏。
2人おいて私。

11月9日、東京都港区六本木アカデミーヒルズで開かれた第2回「マニフェスト大賞2007」で、小生のマニフェスト「みんなで創ろう豊かな奥州市」が、首長部門審査委員会特別賞を頂き、恐縮し、また、感激した。

主催は、ローカル・マニフェスト推進地方議員連盟、同首長連盟で、首長部門(地方議会部門ほかもあり)には、45人がエントリーし、既にそのうち10人が大賞候補(ノミネート)となっていた。

まず、大賞として、松沢成文神奈川県知事が表彰され、次に審査委員会特別賞(準優勝に当たる)として、私と東国原(ひがしこくばる)宮崎県知事が順次表彰された。

会場に映し出された私の写真

小生の受賞理由は、次のとおりとなっている。
「決意、基本姿勢、戦略目標、政策宣言という構成。政策宣言における目標・方法・期限・財源の明示と合併選挙を意識した全体編・地区別編での提示など、決して派手ではないが、マニフェストのひとつの模範となるものを示し、住民の信を得た。
その後、実現のための専任体制、進捗状況の公表など、地道な努力もさわやかである。
議員を含め、地域へのローカル・マニフェストの浸透という効果も生まれている。」

今回の応募は、この企画の中心人物である北川正恭審査委員長(早稲田大学大学院教授・元三重県知事)に大変お世話になっているという思いの中で、応募総数に協力し、”枯れ木も山の賑わい”を目指したものであった。
それが、首長部門初の場で、全国的有名人と並んで、しかも市町村長ではただ一人の栄に浴するとは !

作成当時、一人黙々と作業した毎夜の苦労が、まさに吹き飛ぶ思いであった。

会場で挨拶する
東国原宮崎県知事

ところで、せっかくの機会と思い、超有名人である東国原知事に「これをご縁に是非奥州市にお越しください。」と声をかけたが、とりあえずは「宜しくお願いします。」との”一般的儀礼答弁”であったのは、多少残念な気がした。

 

2007.10.17 国際姉妹都市グレーターシェパートン市訪問(第54号)

コクシニアほかの花

10月7日から約1週間の日程で出張し、国際姉妹都市グレーターシェパートン市を訪問した(総勢17名)。

同市は、オーストラリア ビクトリア州の州都メルボルンから北へ187キロメートルの位置にあり、人口約59,OOO人、面積2,421平方キロメートルで、果物の産地であり、食用肉と乳製品の加工が盛んな市である。

昭和54年(1979)年に旧江刺市が、当時アジアクラブの理事であった椎名素夫氏の紹介で姉妹都市締結した。

コアラの母子

長い姉妹都市の歳月の間に、シェパートン市側の合併などの事情で交流が途切れがちになったこともあったが、奥州市合併後も交流を深めることとし、今回公式訪問が実現したものである。

メルボルンの空港まで、ジェニー・フーラハン市長(女性)自らの出迎えがあり、上の写真のコクシニアほかの花束を頂いた。
シェパートン市に着くとまず動物公園で、コアラとじっくりご対面。

ジェニー・フーラハン市長とともに

歓迎式典、奥州市がプレゼントした桜と紅葉の植樹セレモニーなど盛りだくさんの歓迎行事を楽しんだ。

奥州市の写真展の際、ジェニー市長から「相原市長は、俳人とも聞いている。是非ここで即興的に作り、発表してほしい。」と剛速球を投じられ、5分後みんなの前で披露した。

ホームランとまでは、いかなくとも、ヒットにはなったか !?

コクシニア 美しく咲く シェパートン   江山
春の日に コアラも眠る シェパートン   同

 

2007.9.16 姉妹都市長沼町の旅から(第53号)


9月12日、当市の姉妹都市である北海道長沼町の開基120周年祈念式典に出席するため、空路、新千歳空港に降りたった。

町役場の迎えの車に乗って、私たちの地域よりやや季節の異なる景色を楽しんだ、北海道らしい、大平原の中に、美しいひまわり畑もあった。ひまわりの背の高さを活用した、子供たちのための迷路遊びの場にもするという。

吉川鉄之助翁銅像

当日正午から、同町役場構内の吉川鉄之助翁銅像前で、同翁の追悼式が行なわれ、写真のように町長と私とで丸い大きな花輪を捧げた(他の関係者も)。

吉川鉄之助翁は、安政6年(1859)、現在の奥州市水沢区で生まれ、明治4年、家族とともに北海道開拓使の募集移民として札幌市平岸村に入った。

その後、札幌農学校の職員等を経て、明治20年夕張川河畔の長沼の地に入植した。第一鍬者となり、長沼の発展の基礎を築いた開拓功労者として、現在も尊崇を集めている。

昭和48年に姉妹都市締結されたが、これは吉川翁が取り持つ縁といえる。両市町の若い世代の人々にも、開拓の苦労の歴史(大雨のたびに排水できずに水浸しになる農地との格闘など)をしっかりと引き継いでいきたいものだ。

私の指先のトンボ(自宅)

ところで、記念式典が終了し、徒歩で会場から出た時に、トンボが私の左肩にしっかりとしがみつき、何時までも離れなかった。
トンボ君(嬢?)への返礼を込めた駄句。
姉妹都市 トンボが肩に とまりけり    江山

 

2007.8.17 Every dog has his day(第52号)

奥州水沢花火大会

左の写真は、私の撮影技術の未熟により、何を写したのかほとんど分からないもので恐縮である。8月10日夜に水沢競馬場で行なわれた奥州水沢花火大会の一こまである。

競馬場内の芝生には、どこから現れたのかといぶかるくらいの人・人が座りながら、上空を眺めている。これが、競馬振興にも繋がってくれればと、ため息も出る。

商工団体関係者とビール片手に花火を飽かずに眺めるうち、「花火師がおそらく何時間もかけて準備した成果が、大きく、文字通り花開いたと同時に、はかなく消えてしまった。」と感じた。

翌土曜日に花火のことを思いながら、庭の芝生を歩いていると、夏を惜しむ蝉と秋を告げる鈴虫の鳴く音が同時に聞こえた。

空蝉(うつせみ)

蝉は、幼虫として3-17年地下生活し、ついに地上に出て、天空を舞うが、わずか1ヵ月で命が尽きてしまう。”華の時”は極めて短い。時を惜しんで飛び、声を涸らすのは当然だ。

一方、鈴虫は、12ヶ月間の一生のうち、土の中で、8ヶ月を過ごし、地上で思う存分音楽を奏でることができるのは、4ヶ月だけである。
「”まだ夏”を主張する」蝉に遠慮することなく、「”わが季節が来た”とばかりに」時を惜しんで鳴かなければなるまい。

こうしてみると、それぞれが、天から与えられた限られた時間の中で、できるだけ大きな華を咲かせ、悔いなく生きようとしている様子である。一生の中の”最も盛んなとき”の演出でもある。

主人公愛犬くるみ

写真は、愛犬くるみ(コーギー犬、雌4歳)が゜、シャンプーを楽しんでいるところである。彼女にとって、”盛んなとき”はあるのだろうか。
ふと、英語のことわざ、「Every dog has his day」(誰にでも得意なときがあるものだ。)を思い出した。 頑張れ、くるみ !

ところで、人はー私はーどうだろうか。後日のメルマガのテーマに譲りたい。

 

2007.7.18 紫陽花(アジサイ)(第51号)

アジサイ
(セイヨウアジサイ)

梅雨のこの時期に庭に出て、期待通りに美しいのは、紫陽花である。「雨に降られている様(さま)に風趣賞すべきものがある」とも表現される。

写真中段のガクアジサイの方が、日本原産である。色が変わるので「七変化」とも言われるが、その土地の酸性度にも左右され、その度数が高いと青が強く、低いとピンクが強いという。

酒を飲みすぎると身体の中の酸性度が高くなるとのことなので、そういう時は、身体が青みがかっているのかなどと、脱線した連想をしてしまった。

ガクアジサイ

「あじさい」の名は、「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものといわれるが、「紫陽花」の漢字については、唐の詩人白居易が別の花(ライラック?)に名づけたのを、平安時代の源順(みなもとのしたごう 911-983)という学者が、アジサイに当てはめたことから、誤って広まったといわれている。

仮に最初は勘違いだったとしても、千年余も続いて支持されていれば「正解」に昇格している。

二男(小学時代)が描いた
アジサイの絵

右の絵は、私の二男の小学校5~6年の作品であるが、当時、担任の先生に高く評価されたものであり、十数年たった今も家の中に飾っている。小学生にしては、色使いが細やかと思い、気に入っている。

かって、先覚的に市町村合併を進めた県内のT市長が、「合併後の市の各地域は、アジサイの花のように、それぞれが異なった色を輝かしつつ、一つの花(市)として成長していく。」と表現したことがあるが、写真や絵を見るとその話しに納得する。

ある老婦人が友人の葬儀で詠んだ弔句に次のものがあった。
紫陽花に 見送りされて 黄泉の旅

私には、良い句がなく、敢えて挙げれば次のもの。
紫陽花を 縫うようにして 出勤す  (平成10年)

 

2007.6.20 あつま田舎まつりと元気老人(第50号)

あつま田舎まつり会場

6月17日、姉妹都市である北海道厚真町(あつまちょう。苫小牧市の東隣で人口約5,200人)で、35回目となる「あつま田舎まつり」があり、訪問団を結成して参加した。

厚真町には、旧前沢町から10人の花嫁が、昭和25年から49年にかけて嫁いでおり、そのご縁で昭和58年6月8日に姉妹都市締結をしている。

祭り前日には、町役場のある中心部で、町民参加の前夜祭があり、地元太鼓やフラダンスなどを楽しみ、夜は、「こぶしの湯あつま」(町営)で、ラドン温泉(人工)に浸かりながら、ゆっくり休ませていただいた。

翌日、絶好の天気と湿気の無い澄み切った空気の中、町中心部から約20㌔ほど北東の方向にある厚真ダム(昭和45年頃完成。総貯水量1,008万トン)に向かった。途中から舗装が無くなり、砂煙の中を車が進む。

祭り会場は、ダムの真下の広場にあり、ナラやクヌギなどの美しい豊富な木々に取り囲まれている。学校の校庭くらいの広さであろうか。
ステージの作り、林立する販売テント(前沢コーナーもあり)の並び方、参加者が家族等単位で座り、ジンギスカン料理を楽しむビニールシートの広がりなど、まさに前沢牛祭りの原型である(実際、前沢では模倣からスタート)。

元気老人橋本翁の牧場

ところで、この会場には、大スポンサーでもある近くの橋本牧場のオーナーであり、かの有名なスピードスケートの橋本聖子(:現参議院議員でたまたま来場していた)の父君である橋本善吉氏がデンと構えていた。

今年83歳になるという同氏は、見るからに壮健で、「100歳まで現役で働き、同歳の時、二十歳代の女性と自分との結婚式(数年前に夫人を亡くしているとのこと)の招待状を友人に送り、その後30年ほど隠居生活に入る。」と実に元気の出る楽しい話をされた。

帰途、敬意を表する意味で写真(下)のように、同牧場前で記念撮影をしてしまった。

 

2007.5.18 オープンガーデンの街づくり(第49号)

及川ヒロ子さん宅

5月12日、市内17箇所のオープンガーデンのうち、4箇所を訪問した(職員、関係者を含む公務スタイル)。

及川ヒロ子さん(江刺区田原)、千葉幸子さん(水沢区羽田町)、田代良子さん(水沢区太日通り)、近藤友さん(江刺区八日町)の順で回った。
なお、特に親しい人のお宅を回ったというより、たまたまこの日にオープンしていた所ということであるが(言い訳がましいが)、中でも、及川ヒロ子さんは、いわば師匠格の人である。

「オープンガーデンの街づくり」は、私のマニフェストの中にあるものであり、今年度からスタートし、講習会を開いたり、オープンガーデンマップを作成したりした(予算715千円)。
マップ2500部は、たちまち無くなり、現在増刷中である。

同宅のオープンガーデン

見事な花々の園に、ただだうっとりするばかりであったが、それにもまして、迎える女主人の生き生きと輝く表情が印象的であった。
同席の夫君もまさに添えばなであった。

「オープンガーデンの街づくり」は、実は、”女性が輝く街づくり”かも知れないと思ったものだ。

色とりどりの花の組み合わせ・配置、コースに応じた色の統一、客のもてなし工夫などに、それぞれ独創と夢があり、行く先々で新鮮な感動を覚えずには居られなかった。
最後に地元IN紙の「アンテナ」欄から。

「(相原市長は)視察には、薄いピンク色のネクタイを着用して花のある風景に調和させ、”そういうことです”とさりげない演出に笑み。」

 

2007.4.19 偕老同穴(かいろうどうけつ)異聞(第48号)

偕老洞穴(かいろうどうけつ)に関する記事

4月16日は、私たち夫婦の30回目の結婚記念日であった。真珠婚に当たる。ほんの限られた時間しか取れないが、二人でゆっくり過ごすことにした。

そのゆっくりした時間に、ふと地元紙の記事が目にとまった。
はじめて見る偕老洞穴(かいろうどうけつ)の写真である。
不覚にも偕老同穴が、太平洋などの深い海底に立っている海綿動物の一種を指すことを知らなかった。

中が空洞で、何故か雌雄一対のエビが住む。このエビの名をドウケツエビと呼ぶ。
発見当初は、このエビに「偕老同穴」の名がつけられ、後に海綿の名になったという。

「偕老同穴」は、もともと「詩経(しきょう)」の言葉で、「仲良く年をとり、死後は一つの墓に葬られる」いう意味から、「仲の良い夫婦の関係が永遠に変わらない」ことのたとえに使われる。
誠にめでたいことである。


しかし、この記事は、どこか衝撃的である。
ドウケツエビは、幼生の時、偕老同穴の胃腔と呼ばれる空間に入り、その中で成長して、そのまま一生を過ごすと言われている。
このことに関連して、記事では、「外に出られなくなるほどエビが成長」と表現している。そうだとすれば、”仲が良くても悪くても”、結局一生外に出れないのではないか !
妻と思わず顔を見合わせたものだ。

不安に駆られながら、(財)海洋博覧会記念公園管理財団のホームページで調べてみると、「偕老洞穴の網は、丈夫にできているが、ドウケツエビはハサミでそれを破ることができるだろうと言われている」とある。

やれやれ、ひと安心 !?

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