相原正明の個人オフィスのホームページです

2006年4月〜2007年3月

心象スケッチ 2006年4月〜2007年3月

2007.3.23 二 つ の 蔵(第47号)

本家の蔵

1週間ほど前の寒い朝、父正毅(せいき85才)が隣の相原本家(当主、敏明氏)に招かれて、写真の蔵の取り壊し作業に先立つ神事に参加した。

建設以来102年経過すると言う。建設の年に生まれた娘に「クラ」と名づけている。
子供の頃、よく中に入って、探検したが、1階にはリンゴ箱が積まれ、2階には古びた箪笥、またその上に色の剥げ゛かかった花巻人形などがあったと記憶する。

それにしても、記憶の最たるものは、「一時の座敷牢」的体験である。平たく言えば、私の祖父藤治郎にいたずらの罰として、何回か閉じ込められた経験である。
おそらく、小学校に入る前で、我が家にまだ蔵がなかった時期である。

我が家の蔵

さて、もう一つの我が家の蔵である。祖父藤治郎が、昭和27年3月に岩手県食糧検査所西磐井支所長を最後に職を辞した後、間もなく建てたものである。
私の年齢で、5才前後の頃のことであり、今から54~55年ほど前ということになる。

10年ほど前に、母屋敷地が道路用地となって、母屋新築移転となった際に、およそ20~30m南に移動している。
小学校3年頃、この蔵の屋根に遊ぶ雀を題材に詩を作り、学校へ持っていったところ、先生が容易に自作と信じてくれなかった思い出がある。

今は、2階が古道具置き場に、1階が農機具置き場と愛犬くるみ(コーギー犬。雌4才)の昼のお休み所として使われている。

この蔵を今も毎日、自室から眺められるのは、つくづく幸せなことだ思っている。

 

2007.2.13 伊勢丹メンズ館と国立新美術館(第46号)

国立新美術館

2月の東京出張の折、空いた時間に”東京の新しどころ”を2ヶ所歩いてみた。
一つは、新宿三丁目にある伊勢丹メンズ館である。

店の宣伝をするようで恐縮であるが、全館紳士用品で固められていると聞いてのことであった。
入ってみると、B1Fから8Fまで、紳士服、紳士洋品、紳士雑貨、メンズビジネスウエア、紳士カジュアルウエア、紳士スポーツウェアとまさに”紳士だらけ”であった。

ぐるぐる見回るだけでも、自分が次第にニューファッションに染まる心地がした。最後に、申し訳として、カフスをワンセット購入。

美術館の庭の寒椿

次は、オープン間もない国立新美術館(六本木)。黒川紀章設計の地下1階、地上4階の美しい建造物である。
建物前面を覆うガラスカーテンウォールが波のようにうねり、曲線を描いている。

中では、開館記念展「20世紀美術探検ーアーティストたちの三つの冒険物語ー」が開かれていた。
私は、ポップアート(大衆芸術)の立役者ロイ・リキテンスタイン
(1923-97)の「赤ワインのある静物」に引き込まれた。
リキテンスタインの作品は、「主に赤・青・黄の原色のみを使いながら太く明快な輪郭線をもって描く。」とされる。

3階の三ツ星レストラン「ボキューズ」は、フランス料理の伝道師ポール・ボキュール氏の伝統味の初の海外進出とあって、人気が高く、超満員であった。値段も”高級”。そこで退散 !。

 

2007.1.21 やむにやまれぬ競馬応援団発足(第45号)

競馬サポートクラブ設立総会

1月10日、「岩手競馬奥州サポートクラブ」が発足した。売り上げが低迷し、存廃の瀬戸際に立たされている。

もし廃止となれば、構成団体(岩手県55%、奥州市25%、盛岡市20%の出資)が、巨額の債務(400億円弱ともいわれる)の処理に直面する。むろん、多くの競馬事業関係者の仕事や雇用は失われ、地域経済は、大打撃を受ける。

19年度からは、構成団体による330億円の融資により、従来の元利償還負担を軽減し、ギリギリのコスト削減を行いながら、再スタートを切る形ができたが、もし、それでもなお赤字となれば、廃止に繋がることになっている。

年末の水沢競馬

「事業」としては、当然の話しであるが、売り上げを伸ばさなければならない。奥州市サイドでなにかできることはないか。
市長は、組合の副管理者(管理者は知事)でもある。

そこで、市内の経済団体(商工・農協・観光)に協力いただいて、サポートクラブを立ち上げた。
同13日には、「競馬探検隊」として、30数人(初めての人が多かった)が参加して、ロイヤルルーム(昼食・ソフトドリンク・競馬新聞付きで一人3千円)から競馬を楽しんだ。

奥州市の地域経済と財政のためにも、「天馬空を行く」如く、好調に進んでほしい。

 

2006.12.16 チビッ子議員にタジタジ

12月10日、「奥州市新春亥年(いどし)っ子議会」が水沢テレビの主催で開かれた。
市内33の小学校の代表として5年生33人が”チビッ子議員”として出席した。

質問に立つ小学生

場所は、私にとっては懐かしい旧江刺市議会議場である。
今年2月の合併以来使われていなかった議場に久々に明かりが灯った。

この場所で厳しい市町村合併の論議をしたことが昨日のことのように思い出される。

小学生議員の質問は、演壇で行われ、市長はそのつど同じ演壇に出向いて答弁する。
このため、午後3時から始まり、休憩を挟んで終了したのは午後6時であった。

傍聴席は、父兄で大入り満員の状況である。
「子供の遊び場の確保」、「小学校統合問題」、「市町村合併の成果」、「子供のボランティア活動のあり方」など質問は多岐にわたった。

子供らしい率直で、ときに厳しい質問に、タジタジとなったが、中には、「どうして市長になろうと思いましたか。」という微笑ましいものもあった。

議会終了後のチビッ子議員との記念写真

ところで、休憩時間中に、「相原市長を動物にたとえると何に見えるか。」という設問があり、最多得票が「ネズミ」であった(忙しそうだという理由らしい)のには、正直、驚き、落胆した。

感想を問われ、「もともと私は、子年(ねどし)生まれでもあるが、これからは、もっとネズミを好きになりたい。」と答えたのであった。

 

2006.11.15 小夏ちゃん、ありがとう

11月1日、姉妹都市である北海道長沼町の町民文化祭に出席し、祝辞を述べた後、展示会の様子を視察し、また、下の写真にあるように、奥州市の物産コーナーで職員たちを激励した。


板谷町長さんほかに御礼とお別れの挨拶をして、帰途に町内のお洒落なレストランで昼食を取っていると、写真の小夏ちゃん(6才)とお母さんが訪ねてこられた。


小夏ちゃんは、9月10日に長沼町で開かれた「水沢火防祭inながぬま」に出演し、その後10月下旬に「すてきな着物を着せてくれてありがとう」と直筆の手紙を水沢観光協会に寄せてくれた女の子である。
想像していたような可愛い、おしとやかな子であった。

小夏ちゃんからは、赤い衣で包まれたお菓子(写真)を頂き、一緒に食事をした。

「お父さん(小学校教師)は、宮里藍(天才的女子プロゴルファー)のようにしたくて、ゴルフをすすめるが、私はいや。」という話し(母親談を含めて)が、何とも微笑ましかった。

 

2006.10.21 「婦人運動」に捧げた2日間

大げさなタイトルであるが、三つの出来事にかかわって、「婦人運動」に集中した感のある2日間となった。

吉野作造記念館にて

まず、初日の10月18日、東北市長会の研修行事で宮城県大崎市の吉野作造記念館を訪れた。

吉野作造(1878-1933)は、同市古川に生まれ、東大教授などを勤めながら、「民本主義」を唱え、大正デモクラシーに大きな役割を果たした人物である。

私は、翌19日の岩手県地域婦人大会に、リレートークの発言者として招かれていたので、何か婦人運動に関する材料はないかと探してみると、当時、婦人解放運動で活躍していた平塚雷鳥や市川房江などに影響を与えたことが分かった。

更に、、大崎市内での懇談会も終り、同市のホテルで何気なく、NHKテレビの「その時歴史が動いた」を見ていると、大正デモクラシーの発端ともなった富山の”おかか(婦人)”たちによる米騒動事件(大正7年(1918)8月4日午後7時)が語られていた。

岩手県地域婦人大会
江刺大会会場

水橋(みずはし)漁港の”おかか”700人余りが、米の値上がりに悲鳴を上げ、米問屋に押しかけた。
これが全国に飛び火し、寺内正毅内閣が総辞職することにつながったのである。

19日のリレートークでは、これらのことをベースに、男女共同参画の取り組みにも触れながら、女性パワーによる新時代の創造を呼びかけたことであった。

私にとっては、まさに表題の思いであった。

 

2006.9.22 9月17日は何の日 ?

「今日は何の日(PHP研究所)」という本があり、9月17日の項には、「正岡子規誕生」、「江夏、奪三振日本新記録」などとある。

アテルイ・モレ等慰霊祭

しかし、この日は、歴史上、超重量級の出来事があったとして、地元では記念行事が行われている。

一つは、水沢区羽田の羽黒山で行われる「阿弖流為・母禮(アテルイ・モレ)等慰霊祭」であり、もう一つは、江刺区岩谷堂の五位塚(ごいづか)で行われる「経清(つねきよ)公命日祭」である。

この行事には、高名な僧侶がそれぞれ参列している。
阿弖流為・母禮等慰霊祭には、清水寺(京都)の森清範貫主、経清公命日祭には、中尊寺千田孝信貫首である。
祭りの「格」がうかがい知れるようである。

藤原経清公命日祭

アテルイ・モレが坂上田村麻呂に降伏したのが、802年、安倍貞任・藤原経清が戦死し、前九年の役が終わったのが、1062年で、この間260年が経過している。
そして更に944年後の2006年に我々は、先人の偉業を想いながら、ゆかりの地に佇んでいる。
高浜虚子の句に「去年(こぞ)今年 貫く棒の如きもの」がある。
私は、千年の歴史を貫く棒のような気配を感じた。

 

2006.8.19 水沢ざっつぁか祭りに参加して

8月5日(土)、水沢夏祭りのメインイベントとなる「第31回水沢ざっつぁかまつり」に参加した。
60団体、2500人の出演で、市役所チームも存在感を示した。

お囃子舞台前

私はというと、まったく初めての踊りということで、1週間ほど前から、気になって落ち着かない気分であった(おそらく市長は、先頭で踊ることになる)。
3日前の夕刻、執務の合間を縫って、30分ほど職員有志に手ほどきをしてもらった。

しかしである···。わかったようでわからない。
音楽テープと踊りの解説資料を貰い受けた。

さて、いよいよ当日となり、本番半日前の午前中に、一人でテープを聴いて踊ってみたが、部分はわかるものの、全体の流れについては、”不明”というほかはなかった。

しかし、「案ずるより産むが易し」である。
大きな輪の中で、間近に聞こえるお囃子の音に合わせて、みんなと一緒に踊るうち、リズム感がぴったり身に備わってきた。

調子が出てきたところ

右の写真は、いわば踊りの”切れ”の瞬間である。手と腰と足が一体となって、からだの”溜め”を作り、流れるように次の動作に向かう。

あっという間の2時間(二周り)であったが、親しみやすく、調子の良い、流れるような踊りであった。

 

2006.7.23 ある父子と蜻蛉(とんぼ・トンボ)

梅雨明け前のこの時期に、トンボの話題はふさわしくないと思うが、一つには、妻が犬の散歩中にもうトンボを見たという。
もう一つには、出張先のホテルで、のんびり新聞(7月16日読売新聞)をみていたら、「トンボ撮った、父と笑った」という記事に出会った。

作者(男性で現在69才)の父が76才のとき(今から19年前)、母が亡くなり、「いつも背筋をピント伸ばし、家族に険しい表情しか見せてこなかった父が、別人のようになってしまい、家から一歩も出ようとせず、部屋でぼんやりしている。」状態になった。

作者と父との二人暮らしが始まったが、怖い存在でしかなかった父との唯一の楽しい思い出であった「トンボ採り」を作者は父に提案した。
実際には、カメラを2台購入し、1台を父に持たせて公園などに連れ出した。

最初は、けげんな顔をしていた作者の父もやがて夢中になってトンボを追いかけ始めた。「うまく撮れたぞ」といって久しぶりに笑った父の顔を作者は、何年たっても忘れない。

東京都内で二人の写真展も開いた。その父は、3年前に91才で亡くなったが、作者は、父との思い出を胸に、父の遺作も含めた写真展を7月19日から都内の昭和記念公園で開く。

胸に染みる話しであった。
最後にトンボにかかわる私の拙句。

セスナ機もトンボも同じ方へ飛び      江山
説明の指に止まりしトンボかな        同

 

2006.6.20 方広寺(ほうこうじ)鐘名事件を思い出す

書類整理用に上の部分を
切り取った封筒

写真は、使い古しの大型封筒を活用して、分野別の書類入れにしているところである。

「超整理法」という本があり、とにかく新しいものの順に書類棚の右か左に重ねていくというシンプルな話しであったが、私の整理の仕方も似たようなものである。

このような封筒に新しい書類を入れ込み、そのまま棚の右端に重ねていく。

この場合、封筒の上の一部を鋏で切って、書類の雰囲気がすぐわかるようにしている。

ところで、使い古しの封筒には、写真のように名前などが書き込んである。いくら用済みといっても、名前の部分を切って分断するのは、どこか気が引けるものである。

旬の花
(ジャガイモー表題とは無関係です)

1614年(慶長19年)11月、大阪冬の陣(豊臣家と徳川家の戦い)が起きた。
方広寺(豊臣秀吉が創建し、子の秀頼が再建)の鐘に書かれた「国家安康」の文字が、「家康」を分断しているので、豊臣家は、徳川家を倒す気があると疑われたのである。

もっとも、家康は、豊臣家をつぶす理由を探していたので、これが良い口実となったとされている。

豊臣家と徳川家の緊張関係の中で、こうした事態になることを予見して、忠告し、対策を進言する人材が、その時豊臣家にいなかったのであろうか。

名前の書かれた封筒に鋏を入れる瞬間、時々このことを思い出すのである。

 

2006.5.14 藤原説貞(ときさだ)公となる

写真上は、5月3日の子供騎馬武者行列に参加した私である。
乗っている馬は、4才雄(去勢)で、なかなか気が荒そうである。それでも、1年前の衣川村祭りでの乗馬の感触を頼りに、落ち着きを取り戻しつつ、水沢市街地を”馬上豊かに”行進した。

ところで、私の名札に、「藤原説貞」とある。皆さんは、ご存知だろうか。
あの前九年の役の戦いの発端にかかわる人物である。
阿倍貞任が、源頼義の部下の藤原説貞(大夫:五位以上の貴族)の娘と婚姻を結びたいと申し出て、拒絶されたということがあった。

これを恨みに思った貞任が、説貞の子の野営を襲ったというのである。しかし、これは、頼義が合戦を構えるための口実であったといわれる。

この行列には、藤原説貞の娘役の若い女性も加わっている。
下の写真の椿は、我が家の庭のものであるが、この想像の娘を彷彿とさせると思い掲載した。

歴史の真実は、なへんにあったのか。「怒りは敵と思え(徳川家康公遺訓)」という考え方・対応ならば、違う展開になっていただろうか。
しばし想いにふけったことであった。

 

2006.4.4 五首長の想いの凝縮した椅子

3月19日深夜、奥州市長選で当選が決まり、翌(20日)未明まで、支持者と喜びを分かち合っていました。
苦労が大きければ、大きいほど、喜びは、爆発します。

しかし、当日(20日)は、もう新市長としての勤務が始まります。
午前9時頃、眠さをこらえながら、地元部落の人々の見送りをいただき、公用車で出立。市役所正面で、職員・関係者の出迎えを受けました。

写真は、その直後、市長室で、記者団に取り囲まれているところです。
「座り心地は、どうですか。」と問われて、「合併した五市町村の首長の想いの凝縮した椅子だと思います。」と答えました。

この初心を忘れずに、旧五市町村の均衡ある発展と新市の副県都としての離陸に全力を尽くして参ります。

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