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2010年4月~2019年3月

2010年4月〜2019年3月

叙勲祝賀会(H30.8.4)における受章者(相原正明)御礼のことば

  1. 皆様、本日はお暑い中、遠路この様に大勢お集まりいただき、大変ありがとうございました。
    また、先ほどは岩手県知事様はじめご来賓の方々から身に余るお褒めのお言葉と共にお祝辞を頂戴し、厚く御礼申し上げます。まずもって、この度の春の叙勲に際しまして旭日雙光章の栄に浴しましたところ、伊藤正次様をはじめ発起人の方々の御発意により祝賀の会を催していただきました。
    本当にお陰様でございました。この度の祝賀行事に際しましては、これまでご恩やご指導を賜りました沢山の方々にご案内を差し上げさせていただきましたが、全体の人数の制約や私の配慮不足により、ご案内出来ないでしまった方々も多くあり、申し訳ない想いであります。今後なんらかの形で感謝の気持ちをお伝えしたいと考えております。
  2. さて、この度は思いがけなく春の叙勲で受章者とならしていただき、主として市長として働かしていただいた地方自治功労と承知しております。
    かえりみまして、この栄誉を賜りましたのも市民の皆様をはじめ、関係各位のご指導・ご支援の賜物であり、改めて厚く御礼申し上げます。
    また、内にありましては家族の支え、特に妻の支えが無ければ何ともなしえなかったところであり、あまり普段お礼を言う機会もありませんでしたが、この場をお借りして深く感謝したします。(妻に頭を下げる)
  3. 私は、先ほど知事さんのご祝辞でも触れていただきましたが、32年余にわたり岩手県職員として社会人としての基礎を身につけさせていただき、地方自治行政のあるべき姿を学ばせていただきました。
    本日盛岡からかつての上司・先輩の方々にご列席頂いておりますが、岩手県庁で鍛えていただきました基礎があって、市長にも推挙され、また、市長として市町村合併を含む大仕事をすることが出来たと考えております。
    このご恩に改めて感謝申し上げます。それにしても全く政治家に縁のない家に育ち、政治にはむしろ距離を置くようにしている公務員がなぜ市長選に挑戦できたのかと考えることがあります。私の妻美智子の父が都南村の村長をしていたことや、滝沢村助役時代に村長の死去によって50日間も村長職務代理者を務めさせて頂いたことが要因ではあります。そしてやはり行政政策の最高決定者、最高責任者の仕事がしてみたいと思い始めていたかもしれません。
  4. ご縁をいただき、まったく未知の世界ながら市長選に踏み込み、多くの方々のご指導・ご支援のもと無投票で江刺市長に就任させていただきました。その頃は小泉内閣のもと平成の市町村大合併の嵐が吹き荒れており、合併をすべきか、どことすべきかの厳しく苦しい選択を求められる日々であったと思います。歴史上1200年も一緒になったことのない胆沢の中心と江刺の中心がいわば核融合するような合併に舵を切りました。近年の胆江は一つの基本的流れがあり、私の信念の一つである迷ったときは基本に立ち帰るを実践することになりました。この間の本日お見えの元胆江地域の市町村長さん方のお導き、ご協力に深く感謝いたします。奥州市合併実現により、私は約50年続いた江刺まち・江刺市の最後の市長の役割を担うことになり、江刺の将来が必ずプラスに転ずるように万策を講ずる日々であったと思います。
    この思いは今後とも消えることはありません。新奥州市におきましては、初代奥州市長の重責を担うこととなりました。「副県都」構想の下、県下第二の力強い都市づくりとともに新市の基盤創りに務めさせて頂きました。
    旧五市町村の伝統を生かしながらその均衡ある発展を目指し、「合併に対する住民の戸惑いと不安、不満を夢と希望に転化させる」ため奔走し、新市の一体感の醸成に努める毎日でした。
    なかでも、新市の財政を大きく揺るがす岩手競馬の存続問題の解決、岩手宮城内陸地震への対応は忘れることができません。
    道半ばのものが多々ありましたが、一定の基礎レールを引くことが出来たと思っており、今後さらに奥州市が合併時のエネルギーをも活用してさららに発展することを常に願っています。
  5. ここで、本日皆様にお上げした本について申し述べます。私にとっては5年前のものに続く第2冊目の出版物です。奥州市長初年度(H18)に市長として記述したもの、庁議などで発言した内容等を写真入りで表したものです。市の最高責任者である市長が基本的に市の公務に関して自ら記したものであり、いわば正史を補う資料と言えると思います。発行は本日付で皆様が初めての読者ということになります。今後、各図書館や自治体、政治家等にお贈りすることにしています。
    自費出版、非売品、400部限定出版ですが、希望される市民等の方には閲覧できるようにいたします。
    「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す、転じて人は死して文字を残す」が座右の銘でもあります。第3作も遠からず出したいと今から構想しております。
  6. それでは、人生これに過ぎるものはない経験と役割を与えていただき、改めて皆様のお導きに深く感謝申し上げます。
    今後は、いささかなりともご恩に報いるべく微力を尽くす所存でありますので、何卒変わらぬご指導・ご交誼を賜りますようお願い申し上げます。ここに、皆様の今後益々のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げ、御礼のことばとさせていただきます。

 

平成28年度卒業生に贈る

東北大学法学部同窓会岩手支部長(前岩手県奥州市長)
相原 正明 (昭和45年卒)
※1 東北大学法学部同窓会会報第44号(平成29年5月30日)に掲載
※2 東北大学法学部卒業祝賀会における同窓生先輩としての祝辞
(平成29年3月24日仙台市内ホテル)

皆さん、こんにちは。法学部のご卒業そして法学研究科ご終了誠におめでとうございます。
ただ今ご紹介いただきました相原正明と申します。現在、法学部同窓会岩手支部長を務めさせていただいております。私がこうした祝辞の栄をいただきましたのは、支部長の一人ということと、選挙という関門を経て市長になった(法学部同期では私だけ)という異色の経歴のためかなと思っています。

貴重な時間ですので私の経歴、体験の中から感じたことを申し上げ、まさにこれから人生を切り開かれる皆さんの参考に供したいと願っています。
簡単に自己紹介させていただきますと、卒業後すぐ岩手県庁に入り、50代の半ばまで32年ばかり勤め、企業局長という部長級のポストにあった54歳の時に郷里の江刺市長選挙に出るため、勧奨退職年齢の4~5年前に退職しました。

江刺市長選挙は、予定された方が立候補しなかったため、無投票当選となりましたが、平成の市町村大合併の嵐の中で、3年後には合併で市長を失職し、再び合併新市の奥州市長選挙に立候補しました。三つ巴を制する形で合併前の最も大きい市の市長、元衆議院議員を破って当選し、1期4年務めました。しかし、2期目に挑戦した際、その合併前の最大規模の市の出身の元市議会議長との一騎打ちとなり、再選はなりませんでした。しかし、自分としては県の一般職の最高ランクに到達し、歴史に名を遺すともいえる最後の江刺市長、初代の奥州市長を務めさせて頂いたことを誇りとしています。

その後は市長時代の人脈を生かしたNPO法人の代表等を務め、その中で松下政経塾の小型版のような政治家、地域リーダー人材の養成なども行っています。
こうした活動を振り返りつつ、後輩の皆さんにお伝えしたいことを短い言葉で印象深く伝えれたらと思います。

一つ目は、「守・破・離」です。古来からの日本の武道、茶道などの子弟関係の在り方の一つとされているものです。皆さんが世に出て何を期待され、何をどのようにしなければならないか、最初の関門が待ち受けます。大きな組織の一員であっても自営業であっも同じと思います。まず学んで、伝統的考え、やり方を一流レベルにまで身につけることが肝要です。周りの評価は確固たるものになります。やがてこうした自信と己の信念に基づいて、改善し、改革する、即ち破らんとする意欲が出てきます。そして旧来の道、やり方から離れるのです。常に失敗と隣り合わせですが、自分を大きく、脱皮・成長させることに繋がります。

二つ目は「早い段階で戦略(基本的な中長期の目標・計画)を練り、それに沿って戦術(個別具体の対処術)を磨き、実行すること」です。
まずは、仕事の面でそのようなことが大切なのは言うまでもありません。しかし、もう一つ大事なことがあります。それは限られた人生の中で自分自身をどう立派に育て上げるかということです。東北大法学部を卒業したということは、同じ生まれの同級生と横一線ではありません。既に大きく前に出ています。誇りうる位置にいます。しかし、あくまでマラソンでいえばまだ4分の1の地点です。勝負の行方はこれからです。このような戦略目標があるなしで時間とともに大きな差が出ます。たまに訪れる運―幸運の女神―には前髪があって後ろ髪はないと言われます。戦略のない人は前髪を待ってましたとばかりに捕まえることはできません。NHKの朝ドラ「べっぴんさん」の主題歌をミスターチルドレンが歌っていますが、その歌詞にある「たとえば百万回のうちたった一度
ある奇跡。下を向いてばかりいたら見逃してしまうだろう」も同じ趣旨に繋がります。

三つめは「判断に迷ったときは基本に立ち帰る」ということです。平成の市町村大合併の嵐が吹き荒れ、合併の組み合わせが大揺れに揺れ、結局は賛否両論の中で市長の決断にかかるという事態となりました。発表せざるを得ない時間が迫り、マスコミが待ち構える中、朝までほとんど眠らずに過ごした夜を思い出します。正直なところ、自分でも判断が付きかねる中、最後に浮かんだ言葉が「迷ったときは基本に立ち帰る」と言うことでした。それで決断し発表した以上は、もはや迷うことはありません。対外的には市議会はじめ大きな反対も予測されますが、己の心の中はすっきりとし、むしろ楽になりました。ことの大小を問わず、皆さんもこういう場面に必ず遭遇することでしょう。

以上申し上げましたが、その人の人生はそれぞれの人生観に基づき自由に築きき上げていくものです。そんな考えもあるんだという風に参考にしていただけたらと思います。

最後に同窓会支部長として同窓会は自分の人生を充実させていくうえで貴重な場であることを述べさせていただきたいと思います。様々な職業、職場の先輩と後輩が交流し、互いを認識し合うことは無形の力を与えてくれます。知っている人には心を開き、情報を含めなんでもサービスしたくなります。言い換えれば人に知られていれば実に仕事がやりやすく、思いがけないチャンスに恵まれるというものです。「人を知り、人に知られる大切さ」です。

とりとめもないお話をしましたが、皆様方の洋々たる前途を祝し、お祝いの言葉といたします。

 

元盛岡芸者・料亭小原家女将 故宮代美恵子さんの葬儀における弔辞(H28.11.13)

 

美恵子

美恵子

しのぶ

pしのぶ

晩秋の盛岡は早くも初雪となり、梅擬の赤い実が雪に生えて艶やかとなる季節を迎えています。

このような中、奥州市に住む私のもとに一通のメールがあり、女将さんの美恵子さんが逝去されたと告げられました。突然の訃報に茫然としつつ、たちまちにして女将さんの思い出が走馬灯のように駆け巡りました。

私の県職員時代を中心にその後の市長時代も含めて、料理とお銚子を真ん中に県都盛岡の古き良き文化ひいては岩手の伝統文化を人物評を交えながら、心地よい盛岡弁でお話しいただき、教えていただいたことを思い起こしました。

誠に残念であり、哀惜の念に耐えない次第であります。ご家族のお悲しみもいかばかりかとお察し申し上げます。

女将さんの美恵子さんと初めてお目にかかりましたのは、25年ほども前の岩手県職員時代で、八幡町の老舗料亭小原家の女将さんとしてでありました。当時は官公庁の接待でしたが、上司のお供で料亭に出向くこともたまにある立場でした。女将さんは、きっぷが良くて話題が豊富で、肝っ玉女将という印象でした。何よりも元売れっ子の盛岡芸者ということに興味がひかれました。

当時、及川和哉さんが「ひだりづま―盛岡芸者いまむかし」という本を出され、早速読みました。
盛岡芸者は、政財界人から社用族まで、どんな客の前でもひととおりの技芸を披露できるようになって一人前といわれた。容姿・容貌より先に、まず歌舞音曲をこなし、茶道や生け花、行儀作法、それに教養も身につけなければならない。そのため、子供の時から師匠のところに通わされ、厳しく仕込まれた。
盛岡芸者の芸の水準は明治年間の常磐津林中(ときわずりんちゅう)の盛岡滞在によって格段に向上したほか、大正年間の平民宰相原敬がたびたび催した園遊会で盛岡芸者が接待役を務めたことによりさらに品格が高まった。

このほか、盛岡には芸妓(げいこ)置き屋がなかったので自前芸者という独立会計の芸者であったこと、明治期の最盛期には95人にも達していたこと、芸能を伝承し、政界人を支え、観光PRや祭り行事の主役として時代を担ったのが盛岡芸者であることなどが記されていました。

その本の中で美恵子さんは、昭和三十年頃までに誕生した八幡町の若手芸者十五人の一人として記載されていましたし、昭和六十二年に中三デパートで行われた暖簾の会で踊る姿がカラー写真で掲載されていました。盛岡芸者の嗜みとして、踊りでは藤間流の名取で師範でもありました。

ご本人は冗談交じりに、顔は三枚目だが座持ちとしゃべりでよくお座敷がかかったものですよと話していました。

その後昭和62年頃と伺っておりますが、その力量を見込まれ、請われる形で、先ほどの「ひだりづま」の本にも出てくる八幡町料亭小原家の七代目女将となったのでした。
女将となってからは政財界、官公庁などの幅広い人脈を生かして繁盛し、ある時期から料亭を巡る環境が厳しさを増し、閉店する店がある中でも健闘し、平成12年に女将を辞するまでおよそ14年間立派に経営し活躍されました。

その後は悠々自適の生活を基本としながらも自宅の一角を扇亭という店の形にして、古くからのなじみの客が憩う場を設けられました。私も県職員の最後の頃、企業局長を退任する際に送別の宴をこの扇亭で開かせていただきました。そして選挙を経て江刺市、奥州市に戻ってからも、本当にたまにではありましたが個人的に顔を出させていただき、かつての政治家の話などを聞かせていただいたところです。

「あんや、よぐ、おでゃんスたごと」という盛岡弁とともに思い出は尽きませんが、改めて、これまでに頂いたご厚誼・ご指導に感謝申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。

女将さん美恵子さんにおかれましては、一人娘である同じく盛岡芸者としての活動経験もある喪主しのぶさんをはじめ、ご家族を残しての旅立に心残りは計り知れないことと存じます。

ご家族への、天上からの限りないご加護を切にお願い申し上げます。
美恵子さん、どうぞ安らかにお眠りください。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

平成28年11月13日

元県職員・前奥州市長 相原 正明

 

― 県を退職したころ ―岩手県友会会報第93号(H28.3.8)
奥州市 相原 正明

岩手県企業局長として

江刺市長選告示日

無投票当選が確定して

この欄の記事としては異例かと思いますが、私の場合は普通の県職員が選挙に出てしまったという変わった話の持ち主でもありますので、この機会に多少お話させて頂きたいと思います。

平成14年に32年余お世話になり、私の人生そのもののような県職員を企業局を最後に退職することになりました。郷里江刺の市長選挙に声が掛ったのです。5期20年務めた前市長の後継ということでした。とはいっても地元有力政治家との一騎打ちという前提であり、決断までには七転八倒の苦しみがあったことはお察しのとおりです。

それにしても政治家の家系とは無縁の家に生まれた私に何故受ける気持ちがあったのか。妻の父が都南村長であったこと、滝沢村助役に派遣されていた時期に村長死去により50日間職務代理者を務めたことなどにより、県退職後の可能性の一つぐらいの思いがあったことは確かです。

しかし、生計を維持できる家業も無い身で家族を抱えながら中途退職(54歳)し、やってみなければわからない選挙に出るということは冒険そのものでした。家族の反対も当然です。
それでも「虎児」を得たい想いが強く、遂に「虎穴」に入ったのでした。

退職直後から3カ月余かけて江刺の一万世帯を回り、およそ4カ月目に無投票当選となりました。結果は吉と出ましたが、後輩の方々には余程条件が整わない限りお勧めしないつもりです。
その後奥州市長職も経て退任となり、現在は貴重な経験と一定の蓄積を還元したいと願い、政経関係のNPO活動などで忙しくしております。

 

グレーターシェパトン市ジェニー・フーリハン市長夫妻歓迎パーティでの挨拶
(H25.11.5 英訳の上、英語でスピーチ)

アン・マカミッシュ市長夫妻と私夫婦(市長宅の庭にて)

ジェニー・フーリハン市長とともに

今晩は ! グレーターシェパトン市ジェニー・フーリハン市長ご夫妻を心から歓迎いたします。

私は、ジェニー市長さんとは2007年10月以来8年ぶりにお会いします。

当時、メルボルン空港にコクシニアなどの花束を持って迎えに来ていただきました。

歓迎式典や奥州市から持参した桜と紅葉の植樹セレモニーなど楽しく、暖かく歓迎していただきました。

その際、ジェニー市長さんから要請され、私の趣味である俳句を作って発表ししたことが良い思い出の一つです。

実は私はその2年前の2005年にもグレーターシェパトン市を訪問しています。江刺市長時代のことです。

当時のアン・マカミッシュ市長夫妻が、江刺市を非公式に訪問されたことをきっかけに、それまで途絶えがちになっていた交流を復活させようと思いました。

江刺市の最後の年であり、奥州市誕生の前年のことです。

アン市長が7月に来られ、私が同じ年の10月に訪問するという日程でした。

その際、アン市長宅にホームスティしたことが良い思い出です。

これらのお話は、私が市長の時すでに写真入りで、ホームページに掲載しています。今日はこれをコピーし、若干の写真を加えて、皆さんに差し上げました。

写真にありますように、隣にいる私の家内も2度一緒に訪問しております。

1979年以来34年にもわたる姉妹都市交流が、今後ますます充実することと、ジェニー市長さんご夫妻のご健康を心からお祈りします。

ありがとうございました。

 

故及川勉元江刺市長の葬儀における弔辞(H23.6.29)


梅雨入りした奥州の地は、雨に煙り、紫陽花の紫の色が光を放つ中、及川勉さんが心魂を傾けられた江刺藤原の郷がその中心を占めているようでございます。

今月23日朝、一本の電話があり、及川勉さんが亡くなられた様だとの話に、思わず、「ええっー」と大きな声を出してしまいました。最近ご法事でお会いした際には、お元気で、お酒も嗜んでおられ、相変わらずの含蓄のあるお話しを伺ったばかりでした。
誠に残念であり、哀惜の念に耐えない次第であります。ご家族のお悲しみもいかばかりかとお察し申し上げます。

及川勉さんに初めてお目にかかりましたのは、江刺市助役時代であったと思います。私が県庁の市町村担当課の一職員時代です。詳しいことは覚えていませんが、とにかく率直に遠慮のない話し方をされる方との印象でした。
その後、郷里江刺の市長さんということで、親しみと尊敬の念で見守らせていただいておりました。新幹線水沢江刺駅の実現、江刺中核工業団地への次々の大型企業の誘致、職員定数の大幅削減を中心とする大胆な行財政改革、県内初の産業廃棄物処理施設の立地実現、ヒロノ福祉パーク建設など目を見張る成果を着々と打ち出されるお姿に感嘆の目を向け、応援の拍手をしておりました。

私が課長クラスになった頃、活動が休眠状態になっていた「県庁江刺会」を再構築し、及川市長さんをお招きして盛大に会合を開いたこともありました。

及川さんが、五期目の任期を終えられる頃、盛岡においでになり、市長選出馬を打診されました。大いに迷い、悩みましたが、滝沢村で助役を経験し、村長逝去により職務代理者も経験していた私は、いつか機会があれば郷里のために一肌脱ぐ気持ちも十分ありました。当時の知事さんとも相談し、遂にお世話になることを決めたのでありました。

それにしても行政経験があるのみで、政治・選挙からはむしろ離れるようにしていた私にとっては、ただただ及川市長の用意された組織に乗り、そのご指導を受けて挨拶回りを始め、定められた日程・行事をこなすのみでした。幸いにして無投票当選となりましたが、その御恩は生涯忘れることはできないものであります。改めて深く感謝申し上げます。

江刺市長就任後は、生涯学習センター・図書館建設、市内全域光ファイバー網の敷設、地区センター構想の実現など及川市政の継承と発展を進めたところであります。その間、藤原の郷のロケを中心とした義経ブームで江刺が大賑わいとなったこともありましたが、こうしたことも及川さんのご遺徳の賜物でありました。

やがて市町村合併の大嵐が全国を吹きぬける中、江刺も最終的に奥州市合併に向かうこととなり、私としても住民合意を含めたその大仕事に没頭することになりました。合併後、幸いにして初代奥州市長に就任することが出来、4年間、合併新市の基盤創りを担いましたが、新市の市政執行におきましても及川さんが築かれました行財政の仕組み、精神が随所に大いに生き、力を発揮したところであります。

改めて在任中、市政発展に尽くされたのみならず、その後の市政隆昌の基盤を創られましたご功績に深甚なる敬意と感謝を申し上げます。
私がお世話になりました一身上のご恩に関しましては、終生のものとして、重ねて厚く御礼申し上げます。

思いは尽きることを知りませんが、ここに心からご冥福をお祈り申し上げ、また、ご家族への、天上からの限りないご加護を切にお願い申し上げ、お別れといたします。

及川勉さん、どうぞ安らかにお眠りください。お世話になりました。ありがとうございました。

平成23年6月29日

旧江刺市長・前奥州市長 相原 正明

 

平成22年度市勢功労表彰状授与式における受賞者代表挨拶(H23.1.4)


皆様、新年明けましておめでとうございます。受賞者31名を代表いたしまして御礼のご挨拶をさせていただきます。
まずもって、晴れやかな年の初めの市民新年交賀会において、市勢功労者表彰という最高の表彰を賜りましたことに一同感激いたしており、厚く御礼申し上げます。

私たちは、それぞれの分野におきまして、その功績が顕著であるとして、はからずも表彰の栄に浴することとなりましたが、これもひとえに関係の皆様方のご指導とご支援の賜物であり、本席をお借りして改めて心から御礼申し上げます。

奥州市は、五十年、百年の歴史と伝統文化を有する五つの市町村が合併して誕生した市でありますが、早くも6年目に入ろうとしております。

市の総合計画基本構想に定める「歴史息づく健康文化都市 産業の力みなぎる副県都」として着実な発展を遂げておりますことに衷心よりお慶び申し上げます。

今後さらに、新しく生まれたばかりの市としての勢いを生かすとともに、合併前の市町村の伝統文化を大切にし、その均衡のとれた発展を図りながら、着実に市勢を進展させることが肝要と考えるところであります。

そのためには市民の総力を結集しなければなりません。
私たちも、本日の表彰を励みとし、更にそれぞれの立場から市政の発展に力を尽くす決意でございます。

おわりに、本日の受賞を改めて心から御礼申し上げ、奥州市の限りない発展と皆様のご多幸をお祈りし、御礼のご挨拶といたします。
本日は誠にありがとうございました。(2分30秒)

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