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2005年4月~2006年3月

2005年4月~2006年3月

藤原経清公命日祭(H17.9.17 AM6 江刺市岩谷堂五位塚史跡)

藤原経清公供養塔

秋が深まり、日に日に涼しさが増しておりますが、好天の中、今年も藤原経清公命日祭が関係者多数のご参列のもとに開催されましたことを、まずもっておよろこび申し上げます。

毎年、遠路ご臨席いただいております中尊寺の千田孝信貫首様に敬意を表しますとともに、主催されました地元の餅田史跡保存会の菊地勝一会長ほかの皆様に感謝申し上げます。

奥州藤原氏の初代清衡公の父にあたる経清公は、もと亘理(わたり)の人で前九年の役の当初は、源頼義方に加勢しておりましたが、後に妻の父である安倍頼時の方に移り、貞任とともに朝廷軍に対抗して大活躍したことは、ご承知のとおりであります。

武運つたなく、厨川の柵で1,062年(康平5年)に処刑されて以来、943年の歳月が流れました。
佐藤孝一さんの「陸奥太平記」を読むと、厨川の柵が、滅ぶ際、経清公は、妻の中加(なか)に、当時7歳であった清衡のために、辛苦を乗り越えて生き延びるように諭します。

中尊寺千田貫首(向かって左)ほか

一緒に死のうと思っていた中加は、やむなくその言に従って捕虜となり、やがてその美貌と安倍氏の血筋の故により、敵方の将である清原武則の子武貞に再婚したのであります。
このことが、その後の奇跡的な清衡の勝ち残りー後三年の役での勝利ーに繋がり、藤原黄金文化へと進展していくのです。

経清公のご命日に当たり、改めてこうした歴史を振り返り、ご遺徳をしのぶとともに、同公が本拠地とし、清衡公の出生の地ともなった江刺(館は、豊田館(とよだのたち))の貴重な宝として、こうした史跡等を今後一層守り、育てていかなければならないと思う次第であります。
改めて、これまでの関係者のご尽力に感謝を申し上げ、ご挨拶と致します。

(H17.9.25  掲載)

 

江刺市成人式式辞(H17.8.15 江刺市体育文化会館)

新成人の皆さん

平成17年度の江刺市成人式をとり行うに当たり、明るくはつらつたる皆様にまずもって、成人のお祝いを申し上げます。
また、皆さんを今日まで慈しみ、育まれてきたご両親、ご家族の皆様に併せてお祝いと感謝を申し上げます。
皆さんは、すでに社会人として仕事をされている、あるいは勉学に励んでいる方々ですが、成人を機会に世の中の動きに大いに関心を示されていると思います。

振り返りますと、昭和30年代から高度経済成長が続きましたが、毎年のように給料が上がり、事業の規模が拡大するという時代でした。しかし、平成に入って、バブルがはじけ、以後、長く景気が低迷しています。
この間、江刺におきましては、経済成長下に人口が流出し、昭和45年には過疎地に指定され、低迷が続いておりましたが、昭和57年に東北新幹線が開通し、その3年後の昭和60年に水沢江刺駅が誕生しました。

さらに昭和55年に分譲を開始した江刺中核工業団地への企業立地が順調に進み始めました。平成5年には、NHkの大河ドラマと連携しながら、「歴史公園えさし藤原の郷」がオープンし、県内の代表的観光地として全国的に江刺の名を高めました。その後、蔵を活かした街づくり、農業面では江刺金札米、江刺リンゴなどによって着実に力をつけ今日に至っております。

さて、来年2月20日に江刺市は、水沢市、前沢町、胆沢町、衣川村と合併し、人口13万人余の県下第2の都市奥州市となります。その意味でこの成人式は、江刺市としての最後の記念すべものであります。
私は、行政や産業の中核的機能を集中させて、副県都を構築するとともに、大学や高度な研究機関の知的ノウハウを活用し、産業振興や生活環境の向上に役立てる知識集約型の都市づくりを進め、さらには、大学の誘致などを含め、教育と芸術文化・スポーツを盛んにし、健康・福祉の充実した新都市の創造を目指すことが大切と考えております。

市長の式辞

これからの時代は、まさに皆さんの時代です。
まず、積極的に人の輪に入り、あるいは自らそれを作り、大いに論議し、切磋琢磨の中で、自分を鍛えながら世の中の様々な問題に取り組んで頂きたいと思います。
そして、夢を持ち、その実現に向かって、努力し続けて下さい。必ずや成果が得られることと思います。「成功するまで続けないことを失敗という」とも言われます。是非頑張って下さい。

皆様の洋々たる前途を祝福し、健康で存分の活躍をされるようお祈りし、式辞と致します。

平成17年8月15日   江刺市長 相原正明

 

市長から職員への手紙(H17.7.14)

拝啓 梅雨の最中に蝉の声を聞くこの頃ですが、お変わりありませんか。
クールビズは、すっかり板についたことと思います。正直なところ、私は、雨の朝などは幾分寒さも感じて、ネクタイが恋しくなりますが、「運動として取り組んでいる」と思い直しています。

さて、今日は3点(私は、3という数字が好きなようです。)について述べます。

1点目は、合併協議の進展です。
7月7日に今年度2回目の合併協議会があり、事務組織及び機構についても報告されました。本庁と総合支所の組織がほぼ出来上がり、配置人員数も内々固まりつつあります。本庁には、各市町村から一定割合(標準財政規模割合が基本)で職員が配置されます。まさに職員レベルでも融合(合併)して新市の建設に当たることになります。

このほか、納税関係事業、国民健康保険事業の取り扱いなども報告され、調整作業が着々と進んでおります。
職員の皆さんは、通常業務に加えての合併協議事務で何かと大変と思いますが、宜しくお願いします。

2点目は、市長権限の内部委譲です。
4月に申し上げていましたが、内部調整が終わり、7月1日から実施しています。

事務の効率化、迅速化を図るため、専決規程の見直しを行ったものです。一例を挙げますと、委託料に関する支出負担行為の助役専決額を1,500万円未満から3,000万円未満に、財政課長専決額を300万円未満から1,500万円未満に引き上げました。こうした措置により、従来市長決裁だった支出負担行為の約40%が助役決裁に、従来助役決裁だったものの約65%が財政課長の決裁に、水道事業所においては、従来市長決裁だったものの約80%が所長決裁となります。改正の趣旨を生かした取り組みをお願いします。

3点目は、市長と職員の意見交換会の様子です。
月2回のペースを堅持して行っていますが、6月は、保育士や幼稚園教諭の方々に多くお会いしました。正規職員の適正な人員配置を求める意見や一人一台パソコンの徹底配置を望む意見などが活発に出されました。
現場での苦労がヒシヒシと伝わってきました。できる限りの対応に努めて参ります。

なお、以前にも話しましたが、「地域住民の一人として地域行事へ参加してほしい。」との声が寄せられることがありますので、事情があるとは思いますが、宜しくお願いします。

これから暑さが一層増して参ります。十分ご自愛ください。

敬具

 

社長から社員への手紙(H17.7.14)

拝啓 梅雨明け前は、どこか肌寒く、時折聞く蝉の声に夏を思い出しているこの頃ですが、お変わりありませんか。

お蔭様で、義経ブームの勢いは続いており、藤原の郷の入場者も前の年と比べて、3倍近くに伸びています。他の施設でも健闘しております。

社員の皆さんには、献身的に来客増などに対応していただいており、感謝にたえません。
このような意味合いも込めて、今夏のボーナスは、前年よりも多目の支給とさせて頂きました。

さて、開園十年余となった、えさし藤原の郷の建造物群は、大分傷んできております。
奥州市合併を控えて、できる限りの補修をしたいと考えておりましたが、このたび、6月市議会で、約1億5千万円の予算を認めて頂きました。
早速、設計・工事に取り掛かっております。
このリニューアルによって、より観光拠点としての輝きを強めたいと思います。

ところで、7月13日の会社主催の恒例のゴルフコンペでは、取引先の企業さんに多数(50人超)参加頂きました。
私は、公務の都合で開会式のみの参加となりましたが、始球式では、シングル級(!?)のナイスショットを飛ばすことができました。
この調子で、会社を運営できればと願うばかりです。

社員の皆さんの一層のご協力をお願い致します。
暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

敬具

平成17年7月14日

社員の皆様
社長 相原正明

(注) 社長は、江刺開発振興株式会社(歴史公園えさし藤原の郷ほかを経営)の社長

 

相原正毅著「橋本の今昔」に寄せて(平成17.6.25)

このたび、父正毅が世の中にまた著作を出すという。これで何冊目であろうか。
自分史である「わが来し方わが出会い」(昭和61年)、地域の習俗を現した田谷老人クラブ発行の「田谷の婚礼と葬儀の昔物語」(平成5年)、田谷戦争体験記を作る会名で出した「あの時の思い出ー戦争とその前後ー」(平成7年)、身内にのみ配布した「わが陸軍記」(平成13年)などをこれまで発表している。

発行人:相原正毅 (岩手県江刺市愛宕字橋本119番地) 発行日:平成17年6月25日 題字:相原ミツ(北路)

「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言われるが、私は、人は文字を残すことも大事だと思う一人である。
司馬遷の「史記」などを見てつくづく思う。
そういう意味でこうした父の試みは、大賛成である。
無論、自分も追いつきたいと密かに考えている。

ところで本題に戻ると、今回の「橋本の今昔」は、父が橋本公民館長をしていた平成元年に集落向けのミニ新聞として発行し、およそ13年間にわたって73号に達した「橋本だより」を「絆」、「学び」等の項目別に編集し、執筆者を明記しながら、橋本の生きた歴史として集大成したものである。
一つの時代に橋本を支え、そこに生きた人々の息づかいや思いを証言として、後世に伝えようとしたものといえる。
橋本人の共同作品でもある。

地域の人々による文化面を含めた特色ある地域作りは、江刺市政の目標でもある。
そんな思いも込めながら、広くかつ末永く読まれ、親しまれることを期待したい。

 

エチオピア駐日全権大使歓迎レセプションにおける挨拶(H17.6.3)

テナステリン ! (こんにちは !)  私は、江刺市長の相原正明です。
エチオピア駐日全権大使コアング・トゥトゥラム・ドゥング様と奥様を心から歓迎致します。
先ほど、市長室でお会いしましたが、東京より北にお出かけになられたのは、秋田に次いでこの江刺とのこと、大変光栄です。
また、エチオピアの数字がデザインされたネクタイも頂き、早速身に付けました。素晴らしいおみやげを大変ありがとうございました。

このたび大使におかれましては、五井(ごい)平和財団が全国の小・中・高の学校で推進している平和教育プログラムの一環として、江刺の児童生徒等と交流するため、おいで頂いたところです。
明日の講演会が大変楽しみです。
この企画を実現して頂きました五井平和財団、江刺市国際交流協会はじめ関係の皆様、特に財団の会員で市内(広瀬)在住の細川さんご夫妻に心から感謝申し上げます。

皆様ご承知のとおり、エチオピアの国は、アフリカ大陸の北東で、ケニアの北にあり、アフリカの角と呼ばれております。
人口は、6,500万人、面積は、日本の約3倍です。アフリカの中でも植民地化されず、独立を貫いた国であり、アフリカで唯一固有の文字を持っている国であります。
コーヒーの発祥地であり(エチオピアのコーヒーは「モカ」)、また、マラソンのァべべ選手やロバ選手、ソロモン王朝の最後の王であるハイレセラシエ王を知っている方も多いと思います。

3時間ほど前市長室では、農業が中心であること、金が採れることー但し江刺の場合は昔のことーが共通していると話題になりました。
少子化問題にも話が及びましたが、日本の女性が一生の間に生む子供の数が2人を大きく割り込んでいる(1.29人)と話したところ、エチオピアでは5人ぐらいで、むしろ人口抑制が大きな課題であるとのことでした。今後の国力のことを考えるとうらやましいような気がしました。

また、ユネスコ世界遺産が7つあり、さらに2カ所追加申請の予定ということでした。日本では、白神山地など12 ありますが、江刺と縁の深い平泉は、現在暫定リストの段階です。大使に応援をお願いした次第です。

江刺では、在住外国人が約130人おり、ケニアからお嫁に来ている本日出席のンドゥトゥ・メリセラ・ムズイさんもその一人です。
市と国際交流協会や関係者が協力して、もっと国際理解の活動を進めたいと思います。

それにしても、エチオピア語(アムハラ語)の中に
貴方 = アンタ 、 貴女 = アンチ 、 非常に = バッタン、 美しい = コンジョナシ
貴女は非常に美しい =  アンチ バッタン コンジョナシ
とあるのには、何となく日本語に近いところもあり、親しみを覚えました。

大使のお人柄も大変気さくとお見受けしました。皆さんで大いに交流しましょう。

これで歓迎の挨拶を終わります。
アマセグナロ !(ありがとう!)

 

平成17年度江刺金婚を祝う会における祝辞挨拶(H17.5.24)

本日平成17年度の江刺金婚を祝う会が盛大に開催され、153組の方々が金婚を迎えられましたことに、心からお祝いを申し上げます。
該当の方は、昭和30年4月2日から31年4月1日までに結婚をされた方々です。
永年の地域や市政に対するご貢献に深く感謝申し上げます。

昭和30年と言いますと、江刺郡の1町9村が合併して江刺町となった年であり、皆様は、合併新自治体とともに歩まれたともいえます。また、「もはや戦後ではない」との言葉とともに、日本が高度経済成長期に入った時期でもあります。
こうした中、江刺においては、首都圏などへの人口の流出が続き、昭和45年には過疎地に指定されるなど、苦しい時期ともなりました。その後昭和55年には江刺中核工業団地の分譲開始、昭和60年の新幹線水沢江刺駅開業、平成5年の歴史公園江刺藤原の郷開園、蔵のある街づくり推進といった大きな成果を積み重ね、人口の流出を次第に食い止めながら、過疎からの脱却をめざし、市民一丸となって地域振興に取り組んできたところであります。

この間の皆様方の献身的なご努力に改めて敬意と感謝を申し上げる次第であります。
来年2月には、奥州市としてスタート致しますが、人口13万人余の副県都を目指して邁進致しますので、皆様の高い識見や豊かな経験に基づいた、一層のご高配を頂きたいと存じます。

さて、市の広報の中に、「めおと50年」というコーナーがあり、いつも楽しみにして読んでおりますが、それを見ると、「親同士が決めた結婚」、「その日1時間会っただけで半年後には結婚」、「農作業が大変でつらい思いもしたが、お互い何でも話して理解し、くよくよしないのが良かった」ということであったようです。
また、これからのことについては、ー若干気になったのですがー夫の側が「妻と二人で温泉に行きたい」と言うのに対し、妻の側のセリフは、「友達と行きたい」と言うようなところがありました。
いずれにしても、いつまでも仲むつまじく、ご健康で長生きをして頂きたいと思います。

あわせて、私たち後輩によろしくご指導くださるようお願い申し上げまして、お祝いのご挨拶と致します。
本日は、誠におめでとうございました。

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