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2020年4月〜2021年3月

心象スケッチ 2020年4月〜2021年3月

2021(R3).3.31 ―祖父相原藤治郎への手紙― (第95号)

祖父への手紙

祖父藤治郎・祖母テルヨ(S33.2)

昼食休憩時に書斎で足を伸ばしてゆったりとした状態で、数種類の書類・本等に目を通す。一種類に5~6分を費やし、最後に好きな歴史小説のあたりで30分経過くらいとなり、瞼が重くなる。そこから20ほどの昼寝となる。

その数種の中に両親や祖父母の資料がある。最近、蔵の2階にあった父正毅が生前に自分の両親(私から見て父方の祖父母)の手紙などを入れた木箱を見つけた。その中の古い手紙を祖父母に思いを寄せつつ読んだ。宛先はほとんど祖父宛であり、差出人は昔聞いたかもしれないような親戚などの方々である。

ところがその中になんと私が大学4年の時に仙台の下宿から祖父に充てた手紙が出てきた。意外に小奇麗な(当時の自分が書いた割には。後日妻も同感とのこと)きちんとした万年筆の字で便箋2枚にわたって書かれていた。封書の表には祖父が万年筆で「44年(昭和)12月11日来信」と記している。今から52年前ということになる。

リンゴを送っていただき感謝、早速下宿のおばさんや友達に分けた、お金がピンチ気味なので助かる、来春の就職が岩手県庁に決まりそれまで社会貢献的なサークル活動に精を出している、ただ単位不足で卒業できないと困るので冬休みには猛勉強するなどのことが書かれている。

祖父母は私にとって生まれながらの家族であり、小学4年くらいまでは祖父母の部屋に祖母、祖父、私の順に並んで寝ていた。父は勤務の関係であまり家にいなかったので祖父は父親のような存在でもあった。あまり意見をしたり、叱ったりということはなかったが、その言動が私の血となり、肉となったものと思われる。

祖父藤治郎は、1898年(明治31年)生まれで、私より丁度50歳上である。父正毅の著書「米寿のあゆみ」(H21.9.14)によると戦後の食糧難時代にあって米の宝庫である胆沢地方の食糧行政の責任者(農林省岩手食糧事務所水沢支所長)を勤め、退職後は江刺市農業委員や地元地区の老人クラブ会長などを勤めている。

1980年(昭和55年)逝去した(享年83歳)。

古い手紙1本が私を半世紀前の祖父のもとに誘ってくれた。

 

2021(R3).2.28 ― 俳句を始めた頃 ― (第94号)

平6樹氷新人賞

俳句名刺

私は現在岩手県俳人協会の会員である。毎年度の同協会会員作品集には、俳号「江山」と「平3樹氷入会。平6樹氷新人賞。平7樹氷同人。平8岩手県俳人
協会会員」と表示される。
平成14年に県庁を中途退職し、江刺市長選挙に向けて準備を始めた際のリーフレット趣味の欄には、「囲碁、俳句、ゴルフ」と記載している。
俳句を始めたきっかけは何であったろうか。不惑の年(満40歳)を迎えたとき、何か後年のために残したい、自分に合っているものは文字で残すことだと考えた。国語の世界では短歌が好きで、大学教養部でも古典を選択し、和歌の講義を心に染みるように学ぶことができた。そこで最初短歌を考えた。私の父も若い頃短歌を嗜んだと聞いていた。しかし、検討するうち短歌は心情を吐露し過ぎてしまい、現職の公務員には向かないような気がしてきた。俳句ならその懸念がほぼないし、霞が関の中央官僚が楽しんでいる話も伝え聞いている。
そこで俳句と決定。
新聞の俳句欄にハガキで投句しながら、選者である小原啄葉氏に宛て、俳句を学ぶ場はないかと書き添えた。同氏はかつて県の部長まで勤めた方で県俳壇の第一人者である。早速こういう句会があるので参加してみてはどうかとの連絡があった。間もなくの休日、盛岡市内の公民館の一室に出向いてみると、小原啄葉先生を中心にしてほぼ中年以上の十数人が参加しており男性は3人のみであった。確か一人5句を出し、互いに良いと思う句を数句選び合い、最後に先生が選んだ句が発表される。緊張の中、初めて選ばれた(先生)句は、次の句。

のうぜんの朽ちたるもあり垣の下 (注:のうぜんはノウゼンカズラ)

この頃、県本庁の医務課で課長補佐(医療担当)をしており、激務でもあったが、月1回の休日句会にできるだけ出席するようにした。無論そのために句作りをし、自ら良いと思う句を選んで当日持参しなければならない。
ここで大いに迷いが生ずる。句会に出る以上は何句か拾ってもらいたい、そのためにはこんな風にひねって印象深くなるように作ってはどうだろうかといった風にである。ところが何回も句会に通っての感想は、「見てくれ俳句」は全滅で、何気なく無意識的に作ったものの方が拾われるということである。たとえば、自分としては、数合わせに付け加えただけの次の句が面白いと評価された。

セスナ機もトンボも同じ方へ飛び

その後県の課長となってからは更に多忙を極め、句会に出ることは叶わなくなり、自己流的にたまに句を作っては所属俳誌の樹氷に投句する程度となった。また、評価された句を数句集めて俳句名刺を作り、話題作りのための材料とし、大いに役立ったものだった。
時は流れ、市長職となったときは、俳句もできる首長として句会の選者に祭り上げられたこともあった。今はインターネット句会に月3句投句し、採り上げられた句を集めて年1回の県俳人協会への提出句10句(これはそのまま掲載される)としているのみである。
おそらくこんなペースで終生細く長くお付き合いすることになると思う。囲碁とともに頭脳老化防止の最善策として。

 

2021(R3).1.31 ― 岩手県庁は我が人生の実家 ー (第93号)

会報取材(インタビュー)の一コマ

岩手県庁(本庁舎)

2021(令和3)年1月15日、いわて未来研会報第43号(R3.2.5発行)のテーマの一つである女性活躍推進について取材するために久しぶりに岩手県庁(本庁舎)に足を踏み入れた。目的地の環境生活部長室と若者女性協働推進室は11階にある。とても懐かしいフロアである。
今から51年前の1970(昭和45)年4月某日、新採用職員の私は、これから所属することになる企画部企画調整課のある11階のエレベーターホールに立っていた。隣には同課のA課長補佐がおり、新人の私を関係のところに挨拶させるべく引率していたのであった。ホールでエレベーターを待つうち、A氏から「だんだんには経済のことも勉強してもらわなければならない」いといったことを言われ(自分は法学部の出身)、期待されて嬉しいような、それにしても大変そうだといった心地になったことを記憶する。

それから33年半の県職員生活のうち、この庁舎では30年過ごしたことになる。フロアでいうと、3階に6年、5階に5年半、6階に3年、8階に5年半、10階に7年、11階に3年といった具合である。
ここで社会人としての初めての出会いがあり、上司・先輩からの躾があり、仕事に夢中になり、夜の酒席での鍛え方あり、毎年の人事に緊張し、議会対策に走り回り、健康のため1階あたり10段の階段を毎朝10階まで歩いて上がり、喜怒も哀楽も全てが詰まり凝縮された空間であった。
自分の能力を育て、開花させ、自らの人生と運命を切り拓いたところは、この県庁の他にはないと言っても過言ではない。

年度末恒例の退職幹部職員の庁舎前での見送りの際、教育長で終えられたN氏が大勢の職員の前で、県庁舎の12階までを見上げながら、叫ぶように「私はこの県庁が好きだ」と言ったのを鮮明に覚えている。気持ちがよくわかり、自分も同じと思った。

この岩手県庁舎は、1965年(昭和40年)4月30日に完成し、岩手県内はおろか東北地方でも最も高層のビルとして建てられものである。その5年後に職員となった私は、まだピカピカした庁舎を密かに誇りに思ったものだが、50年余経た今日も厳然と変わらずに存在しているのは嬉しい。毎日お昼時に世話になり、ささやかな社交の場でもあった地下1階の生協食堂が今も賑わっているのも有り難い。

ところで実家とは自分の生まれた家や嫁ぐ前の元の家を指す言葉であるが、岩手県庁はまさに我が人生の実家であり、それが建物も元のままというのは一段と幸せなことである。
こんなことを想いながら楽しい取材のひとときを過ごしたのであった。

 

2020(R2).12.31 ― 近年まれに見る大雪と父の一周忌 ー (第92号)

お墓への通路

お 墓

法 要

令和2年12月14日から連日の大雪となった。50センチくらいの積雪が3日も連続した。これまでも1日ぐらいの大雪はあったかも知れないが、一度雪かきをすればしばらくは小康状態が続いたものである。しかし今回は違った。あっという間に1メートル以上も積み重なってしまった。
我が家の門口から玄関まで、そして車数台分の駐車場スペース、さらには常に使用する冷蔵庫のある古い蔵まで、妻と2人だけで2日がかりでなんとか除雪した。その間にも除雪車が通るたびに山のようなしかも硬い雪の塊を門口を塞ぐように置いてゆかれることへの対処に追われた。もう限界と思った時に、とんでもないことを思い出した。
実は、12月20日に近くのお寺(西念寺)で、父故正毅の一周忌法要と墓参があったのである。他の準備は万端でも除雪のことまでは全く考えていなかった。
ようやく雪が小止みになった前日(12月19日)の午前に、妻と2人で雪かき道具を持って車で寺に乗り込んだ。寺の広大な駐車場についても一応心配したが、幸い最小限の除雪は行われ、その日も何かの行事で10台ほどの車が止まっていた。我が家の行事のある翌日の駐車についてもなんとかなりそうな雰囲気であり、ホッとした。

問題は、寺の本堂から我が家の墓地までの通路である。恐る恐る見ると、本堂の周囲は流石に歩けるものの、墓地群の広いスペースはお墓も通路も1メートル以上の雪にスッポリ埋まって静まり返っていた。本堂周りの通路から我が家の墓所まで、20メートルはあろうか。一瞬「大雪のため法要のみで墓参は取りやめで良いのでないか」との声が聞こえた気がした。しかし、文書でご案内もしており、何とかすべきでないかとの声が強まった。

背景として、もともとの案内は、法要墓参後にホテルで会食の予定であったものが、新型コロナウイルスの感染が岩手県内でも拡大しつつある情勢となったため、綿密な感染予防対策を講じてはいたものの、取りやめやむなしとして、その旨の変更連絡をしたばかりでもあった。墓参ぐらいは何とかやり遂げたいとの思いがあった。

70代の私と60代の妻2人で、とにかく始めた。やはり墓地ならではのハードルがあった。掘った雪を隣にポイと放れないのだ。他人の家屋敷に道路の雪を投げ入れるようなものだ。やむを得ずゴキブリ行動を取った。ワザワザ本堂付近まで戻って雪を捨てる他はない。悪戦苦闘2時間ほどでようやく我が家の墓所にたどり着いた。それから1時間ほどで墓石の周りの雪も取り除き、何とかかろうじて墓参できる道筋が見えた。ここでグロッキー気味の妻も見て、終了とし、午後に私だけ仕上げ作業に出向くことにした。

昼食休憩後の午後2時頃、今度は私一人でまだまだ歩きにくい通路の雪かきを始めた。ぞろぞろと歩いた時に転びそうな箇所、先に焼香の終わった人々が待機する空間などをゆっくりと掻いた。
この作業はどうしても祖父母や父の眠るお墓の前が中心となったが、故人の顔を思い浮かべるうち、この家族に褒めてもらいたくて一生懸命作業しているような気持ちになった。昔子供時代に家族に聞こえるように大きな声で教科書を読み、後で家族に勉強していると褒めてもらおうとしたあの心理である。思わず懐かしく思い出した。2時間ほどで終了。

翌本番の日は天気も良く、法要後の墓参は、上の写真の通路を通ってスムーズに墓参が終了したことであった。

 

2020(R2).11.30 ― コロナ禍に立ち向かった創立十周年記念式典 ― (第91号)

記念式典

記念講演会

記念食事会

師走間近の令和2年11月28日(土)、奥州市水沢のプラザイン水沢でいわて未来研創立十周年記念式典が行われた。およそ30人の出席のもと、会長の私は、万感の想いで式辞を述べた。幾度も検討し、朗読してみて迫力のないところを耳に届きやすいように修正し、最後は巻紙ならぬ折り畳み紙スタイルに作成したものである。両手でアコーディオンを広げる如くに開きながら、ゆっくりと朗読した。

市長退任後に239人の応援団に励まされて立ち上げ、社長、幹部、中間管理職、イチ営業マン、イチ会計係、イチ事務員と一人何役も兼ねて、いわば無遅刻・無欠勤・残業多々でひた走った十年であった。
式辞でも触れたが、この間年4回の会報は一度も休まず、他の事業も基本的に全て計画通りに達成した。この間の会員数は発足時の239人を常に上回って推移し、財務会計も繰越金を2百万円余積み立てることが出来た。

自分自身の区切りのためにも何としてもオーソドックスにきちんと開催し、成功させたかった。3ヶ月近くかかって合計44人に対する感謝状・表彰状も作成完了し、NPO法人の監督者でもある奥州市長(小沢昌記氏)の本人出席も直接に電話依頼することにより実現した。

残る課題は、新型コロナウイルス感染拡大対策であった。10月30日発行の会報でこのことをいかに構築しながら参加を呼びかけるかが大きな関門であった。
基本は次のとおり。無論、会場のホテル側の理解・協力の下である。
① 検温の上マスク着用、手指消毒で入場
※ 発熱(37.5度以上)の方は参加を見合せ頂く。
② 座席は、教室式配置のテーブルに隣同士が1mの間隔で着席
③ 演壇付近にアクリル板設置、マイクはその都度消毒
最も注意を要する食事会では更に次を加える。
① 食事会開会前にマスク着用での交流タイムを設ける。
② 座席はテーブルをコの字型に配置し、席同士は1mの距離を取る。
③ 開始後は、会話は控え目にして頂き、司会の指名により壇上で順次行われる挨拶や自己紹介等を聞きながら食事をして頂く。

ホテル側の洗練された対処もあり、予定通りスムーズに進行した。山本講師からは、後日のメールで「感染症対策をされ、いろいろ工夫し、ご配慮され、素晴らしい十周年記念の会だったと、帰って来てつくづく思っております」とのご]感想をいただいた。
地元3紙のいわば好意的報道もあり、ここに大事業創立十周年記念式典が遂に、無事終了したのであった。

記念式典(右端は当会看板)

小沢奥州市長に感謝状贈呈

 

2020(R2).10.31 ― 先達はあらまほしき ― (第90号)


令和2年10月9日(金)、好天の中、NPO法人いわて未来研の会員等親睦交流事業が花巻市東和町で行われた。私は、同法人の会長であるが、実際には常勤役員として事務局長の役割を担っており、場所を選定するとともに2ヵ月余前には妻と観光も兼ねて下見をしていた。

ここ東和町は、元人口1万人余の独立した自治体であったが、平成の大合併で花巻市と一緒になったものである。私としては県庁時代に親しんだ東和町であり、江刺市時代は隣町で、そこを再び訪れたような感覚であった。

最初の成島毘沙門堂は全国泣き相撲大会でも知られる三熊野神社の境内付近にあり、国指定重要文化財である兜跋毘沙門天立像が安置されている。1人500円の拝観料にふさわしい佇まいであった。あの坂上田村麻呂の開基とも伝えられる。深い歴史の圧力で押しつぶされそうになる。

次に東和温泉に向かう。元来、北上山系には温泉は出ないといわれていたが、ふるさと創生事業による各自治体への1億円の交付金で東和町の中心部に程近い場所に温泉を掘り当て、北上山系初の温泉となった、著名な温泉である。今回は入湯の時間は取らず昼食会場となった。

萬鉄五郎記念美術館(市立)では東和町出身の萬鉄五郎の人物と作品について学芸員が予定した1時間すべてを使って歩きながら説明してくれた。十分理解したかは別としてあっという間の充実した時間であった。

最後は日本ホームスパン工場の見学である。ホームスパンの歴史は古く、明治の日露戦争期に極寒のシベリアへ出兵した日本兵を寒さから守るために、農商務省がイギリスよりめん羊を輸入するとともにスコットランドのホームスパン技術を導入した。その際日本の中で涼しく湿度の低い北海道・岩手・長野の農家に産業として推奨した。その後ホームスパンは衰退していくが、岩手の地では、この東和町ほか少数の地域で有名ブランドとの提携などで命脈を保ってきた。貴重な地場産業として応援したいものである。
ところで私はホームスパンのジャケットを3着も持っていながら、この場に着て行かなかった(同行の妻は着用していた!)。親切にご案内いただいた会社役員のKさんにそのことを釈明し侘びたところであった。

充実した東和の旅となったが、やはり花巻観光協会から派遣された花巻おもてなし観光ガイドのTさんのリードに助けられた。成島毘沙門堂では予想外に視察が早く終わり、40~50分も時間が余ると困ってしまった時、すかさずすぐ近くの和紙工芸館の見学を薦めてくれ、形がついた。美術館では予めのアドバイスにより、学芸員の説明案内を導き、素人でも分かりやすい、時間が短く感ずるほどの良い見学となった。
ふと私が愛読する徒然草(吉田兼好)の一節、「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」を思い出したところであった。

兜跋毘沙門天立像

東和温泉

萬鉄五郎記念美術館

日本ホームスパン工場

2020(R2).9.30 ― 新首相誕生に際して思ったこと― (第89号)

菅義偉新首相

毛沢東

新首相菅義偉氏が総裁選最有力候補として急浮上した際、本人の人となりに関する様々なエピソードが報じられた。
まずは小此木彦三郎衆議院議員の秘書時代の話。11年間誰よりも早く出て、誰よりも遅く帰ってという風に献身的に尽力したとのこと。
そして安倍内閣の官房長官としての7年8ヵ月では、毎日2回の記者会見を欠かさず、危機管理のためにほとんど自宅に帰らず、趣味の散歩の際も急な呼び出しに備えて背広姿で歩いたとのこと。
私はこの話を聞いて、この人は仕える相手が自分をどうしても必要と思えるように全身全霊を注いだに違いない、それが結果として本人を大きく育て上げ、持ち上げることに繋がったと感じた。安倍首相にとっては、手放せない、「必要な人材」であったと思う。

「毛沢東の私生活」という本がある。中国の毛沢東主席の侍医として約22年間にわたり、ほぼ毎日24時間側に仕えた李志綏(リ・チスイ)が後年アメリカに移住後著した本である。それによると毛の人の使い方は次のようであった。
① 絶対服従でなければ放逐した。失脚しなかった周恩来(首相)は実は絶対服従者であった。
② 問題があろうとも役に立つと思えば側に置き、逆にいくら功績があったとしてもその思いがなくなればいとも簡単に放逐した。

かつて大きな組織のトップであったA氏に、その後任者であるB氏が尋ねた。「あなたが長年重用してきたC氏はどういう点が優れているのか」と。
A氏は「便利だから」と答えたという。私はこの3氏とも知っているが、この話を聞いた時、本音の話としても何とも寂しい話と感じたものである。
上司にとって必要な人材、身近におきたい人材とは、優秀、人柄、将来の人材というのは一つの要素であり、本音ベースでは「自分の役に立つから」であるらしい。

 

2020(R2).8.31  ― 孫とツバメ ― (第88号)

孫(熊本2、盛岡2)

ツバメと巣

私は、小学校4年くらいまでは祖父母と同じ部屋で寝ており(父母と妹は別室)、祖父母をもう一組の父母のように感じていた。
今度は、自分が祖父母の立場になると、実はこんなにも可愛いと感じていたのかと思い、改めて祖父母を想い、感謝した。

ところで今の孫である。2日もいれば身体も財布もくたくたになってしまう。それでも今度はいつ来るのかと首を長くして待っている。年寄ばかりの家になってどこか寂しいので、玄関の靴置き場には孫用のカラフルなスリッパを常に置いている。家の廊下には孫を真ん中に据えた集合写真が撮影時期順に所狭しと貼られている。自分の書斎には孫のご真筆(手紙など)やら絵が掲げられている。
孫とは、神様が長い人生の褒美に年寄りの元気づけとして恵んでくれるものであるらしい。感謝 !!

もう一つ同じくらいに可愛くて待ち焦がれる相手が現れた。2~3年前から我が家の棟続きの車庫に現れ始めたツバメである。昨年までは巣を完成させないまま、1ヶ月もしない内に姿を消していた。ところが今年の5月初めに現れたツバメ(雄)は、毎日通って巣づくりを続け、5月の内には完成させてしまった。ただし、小ぶりなのが気がかりであったが、ともかく雌を呼び寄せる環境を整えたのだ。それからは巣の側か我が家のすぐ近くの電線に止まって「ジージージー」(偶然孫が自分を呼ぶ「ジジ」に似ている)といった甲高い声で鳴き出した。

ところが伴侶はなかなか現れない。すべて見ている訳ではないが、1度だけ来た雌が巣を品定めしたような素振りで間もなく姿を消した。「こんな小さい巣では無理だわ。それに近くの木にカラス(ツバメの天敵)の巣があるじゃないの」と言ったような気がした。子育ては5月と7月の2回のチャンスと聞くのでヤキモキしていたが遂に7月も過ぎた。ふて腐れたかのごとくその後は鳴かなくなってしまった。

そして我が家の初盆が過ぎた8月16日を最後に姿を見せなくなった。私はあの「岸壁の母」の歌(終戦直後に戦地から復員する我が子を待つ母)の母のように日々虚しく車庫のツバメの定位置付近を眺めるばかりであった。

途中まで読み進めていた「ツバメのひみつ」の本も手元から遠ざかった。
ツバメは縁起もの(「ツバメが来る家は商売繁盛する」)と言われるが、私にとっては、孫と同様に天からの贈り物である。

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