相原正明の個人オフィスのホームページです

2007年4月〜2008年3月

メールマガジン 第28号〜第39号

第39号

拝啓 家の庭や畑に出るたびに、水仙、梅、柳などの芽が膨らみを増しており、生命のたくましい営みを感じておりますが、その後いかがお過ごしですか。
メルマガ第39号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第39号(H20.3.31)
逆転の発想

柳の大木の枝の芽

「逆転の発想」といえば、日本のロケット開発の父と呼ばれた糸川英夫氏(1912-1999)のベストセラー著作を思い出す。ただし、その内容は、「接着剤の研究をしていたら、ものすごく粘着力の弱い糊ができてしまった。
しかし、それを逆手に取り、”貼ってはがせる”紙としてポストイットを生み出し、成功した。」といったシンプルな発明・発見物語ではない。長めの深い話を披露しながら、新しい発想に導くものだ。

たとえば、「アイデァ社長時代は終わった」の章では、「アイデァもまた、一つのパワーである。頭脳の智力である。俺の考えが一番いいのだ。頭の悪いやつは”黙って俺についてこい”というのは完全にパワーの行使である。アイデァ部長、アイデァ社長はこれからの時代で必ず、失敗すると予言する。」と述べ、「エジソンが言うとおり、仕事の2%がアイデァで、98%が汗である。その98%の汗は、リーダーやマネージャー以外の人が流す訳であるから、むしろアイデァは全部の意見の中から出した方が良い。こうすることによって、スタッフ全員のモチベーション(動機付け)が高まり、一致団結した協力を醸成し、いざ倒産の危機になった時に全員がサポートしてくれることに繋がる。」との趣旨を開陳している。
実は、このテーマを思いついたのは、あるテレビ番組で次のいわば”逆転劇”を見たからである。一人は、

1998年ソウルオリンピック100m背泳ぎ金メダリストの鈴木大地である。
鈴木は、同オリンピックの予選までトップに出ることができなかったが、記者の取材に「策はある。しかし、教えられない。」と答えた。そして本番。バサロ泳法(両手を前に伸ばし、脚はバタフライのドルフィンキックをしながら、潜行する泳法)をそれまでの常識を覆すような形で30mも続け、遂に世界記録保持者のデビッド・バーコフ(米)を0.13秒差で破り、金メダルを獲得したのであった。
もう一人は、1968年メキシコオリンピックでただ一人背面跳びを用いて、男子走り高跳びの金メダルを獲得したディック・フォスベリーである。
ディックは、自己流で走り高跳びを始めたが、高校に入り、記録を伸ばすためにベリーロールを取り入れようとした。しかし、なかなかうまく飛べなかった。ある時、跳躍中偶然に、身体が地面と平行になるほど腰を上げてしまった。この感覚にインスピレーションを与えられたディックは、そのあと、背中を地面に向ける跳び方に磨きをかけ、嘲笑する人もある中で、オリンピック代表選考通過を果たした。そして、上述のとおり金メダルを獲得したのであった。後に、この背面跳びは最もポピュラーな跳躍法となった。

この二つの事例は、冷静な思考により「逆転の発想」を生み出したというよりは、”窮すれば通ず”の如く、必死の熱い工夫の連続の先に、遂に開いた大輪の花(成果)といえる。

意表を突く発想の究極の姿とも言える「孫子の兵法」(紀元前5世紀ごろの中国の孫武(そんぶ)の作といわれる)も見てみよう。

「迂直(うちょく)の計」の項である。戦闘において、勝利と敗北は紙一重。「迂直の計」をわきまえているか否かにかかっている。「迂をもって直となす」とは、「急がば回れ」である。たとえぱ゛、敵より遅れて出発しながら、わざと回り道して敵を安心させ、妨害のないのに乗じてかえって先に到着する。この「迂直の計」は、逆説的な発想であり、老子(孫武と同時代の思想家)の「縮めたければ、まず伸ばしてやる。弱めたければ、まず強めてやる。奪いたければ、まず与えてやる。」(老子36章)という考え方(哲学)によって裏付けられているとされる。

「逆転の発想」のテーマの下、幾つかの話題を追ってみた。結果は、「目的を達するための最適手段の発見」に行き着くものであり、「瑞々しい感性の持続」(H18.7.31メルマガ第19号)や「問題・困難が新たな道を拓く」(H19.4.30メルマガ第28号)に通じる(戻る)ものであった。

間もなく新年度。心身のご健康を保持され、「逆転の発想」のもと、多大の成果を収められますようお祈りいたします。

小園亭主 敬白

第38号

謹啓 木々に宿る子雀も、道の辺の残雪の下の草の芽も、躍動の時機を窺っているように感じられますが、いかがお過ごしですか。メルマガ第50号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第38号(H20.2.29)
郷土の偉人・温容の人 齋藤實元首相

齋藤實翁の書(奥州市長室)

昭和11年(1936)2月26日、東京は30年ぶりの大雪であった。午前5時ころ、1,400名余りの兵士が、岡田啓介首相官邸、齋藤實内大臣私邸、高橋是清大蔵大臣私邸ほかを襲撃した。齋藤邸には、板井直中尉ほかが指揮する兵が押し寄せ、警備の警察官の抵抗を制圧し、短時間のうちに、齋藤本人を殺害した。その身体からは40数発もの弾丸が摘出された。目の前での惨劇に、春子夫人は、「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、負傷した。
今年は、当市出身の齋藤實元内閣総理大臣の生誕150年に当たる。安政5年(1858)年、水沢藩士齋藤耕平の子として、陸中国胆沢郡水沢町吉小路(現奥州市水沢区)に生まれた。海軍兵学校を出て、海軍少尉に任官し、大尉の頃、海軍兵学校長としてお世話になった仁礼景範(にれかげのり)の娘春子と結婚した。新郎35歳、新婦19歳であった。
その後順調に出世を重ね、明治31年(1898)海軍次官となり、同39年には海軍大臣となった。やがて、朝鮮総督を経て、ついに、昭和7年(1932)第30代の内閣総理大臣に就任したのであった。
齋藤實翁は、温容の人と評される。誰でも同翁に接するとき、快い寛ぎを感じ、分厚い慈父の懐に抱かれる安堵感を覚えるというのが、異口同音の評であった。同翁は、話の中で、「わしは決して偉い人間でもなんでもないんだ。全く凡人に過ぎない。ただ、何事も一生懸命努力してやってきたつもりだ。そうしているうちに、いつか世間から、次々とドエライ椅子に押し上げられてしまったまでだ」と淡々と話されて、呵呵大笑されたものだったと言う。
この2月定例市議会の初日に、市長の施政方針を演述したが、その結びで次のように述べた。
「市長室には、齋藤實翁が、内閣総理大臣を辞した直後の昭和9年秋に認(したた)めた「独座鎮寰宇(ひとりざしてかんうをしずむ)」(独り座して天下を鎮める)の書が掲げられております。誠実・温容のお人柄そのままの、素朴ともいえる筆致であり、毎日飽かずに眺めながら、市長の職務を行なっております。
当時、77歳の齋藤實翁は、何を思いこの書を認めたのでしょうか。

昭和7年の5.15事件直後に首相就任の大命が降り、内閣を組閣後、軍部抑制と国際関係の回復などに精魂を傾けた2年1月余でありました。首相の重責からの解放感となお国政を見守らねばならないという思いの中で、書かれたような気が致します。書体は、どこか落ち着いた清清しさと強い意志を残す重々しさが同居していると感じられるところです。

今、奥州市は、平成の大合併の大波の中で、5市町村合併を成し遂げ、13万副県都を目指して、最初の公選任期4年の折り返し点に入ろうとしております。合併の成果を市民に実感して頂くため、懸命の努力を続けているところですが、課題は山積し、ゴールは、なお彼方にあるごとしです。
ここに、郷土の偉人、齋藤實翁のご遺徳や艱難辛苦の歩みに思いをいたしつつ、改めて、市政発展への決意を新たにするところであります。」
市では、今年、「齋藤實生誕150年記念事業」を行なう。①齋藤實・春子夫妻を偲ぶ会(生誕祭)、②齋藤實生誕記念シンポジウム、③市民劇「陽だまりの中の春子」(回想物語)、④齋藤實・春子夫妻展(再発見展)、⑤「齋藤實物語」出版促進・発表など盛沢山である。

どこからか齋藤實翁が、ひょっこりとやって来て、「私のためにそこまでやって頂いて、恐れ入る。ところで、奥州市政も大変なようだが、何とか頑張っているね。」と言われることを期待して…(!?)

もうすぐ雛祭り。本格的な春に向かって、ご健勝ご活躍をお祈り致します。

小園亭主 敬白

第37号

拝啓 1月27日に江刺体育文化会館ささらホールで開催された奥州市民☆文士劇「水戸黄門」は、大変な熱気とともに大成功に終わり、出演者の一人として、新年の寿ぎを無事済ませた思いですが、いかがお過ごしですか。
メルマガ第37号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第37号(H20.1.31)
個人情報保護

奥州市民☆文士劇「水戸黄門」の子供キャストと楽屋でのひと時

昨年10月、某地方紙に「学校に広がる『匿名化』ー子どもの個人情報扱い過敏に」という見出しが踊った。記事によると、生徒や児童の個人情報を過度に隠す動きが、学校現場で 広がっている。特に緊急連絡網は、電話番号の記載を限定する傾向が強まっており、保護者からは、「親同士のコミュニケーションがとりにくくなった」という不満の声も漏れる。「9月上旬、”台風のため臨時休校になる”という連絡が回ってきた。連絡網の次の家庭が不在だったため、一つ飛ばして連絡を回さなければと思ったが、学校から教えられているのは、次の人の番号だけ。知り合いに聞きまわり、何とか伝言をつなぐことができたものの、心理的なプレッシャーは、大きかった」という。
内閣府個人情報保護推進室が作成した質疑・回答によると、「学校や地域社会において名簿を作成・配布することは、本人から同意を得ることにより、従来どおり行なうことができる。」また、やや難しい表現であるが『オプトアウト(Opt-Out:脱退)』という方法もある。これは、一定の名簿、電話帳、カーナビのように、個人情報を第三者提供することが本来の目的の場合に、あらかじめ本人の同意を受けずに第三者提供を行い、本人から求めがあった時に停止するという方法である。
奥州市においても、二つのことで市議会で論議になったことがあった。
一つは、ゴミの指定袋に名前を記入する方式が、個人情報保護の制度に反するかということである。市では、家庭用一般廃棄物(可燃ゴミ・不燃ゴミ)を排出する袋を統一し、この袋(指定袋)に排出者責任の自覚を持っていただくために、氏名の記入を求めている。

この件についての国(内閣府・総務省)の回答は、「各自治体の条例等の内容により判断すべきものである」と明言を避けている。市当局の答弁は、「個人情報保護とは別問題であり、基本的に問題ない」という表現に留まっているが、さらなる詳しい理論・解説も大切と思われる。
もう一つは、火災が発生した際の地域への情報提供に関して、「以前と違って、最近は、誰の家で火災が起きたかを知らせず、地域名のみで分かりにくい。地域ぐるみで迅速な応援態勢を取るためにも氏名を知らせるべきではないか。」という質問である。

答弁は、「個人情報保護の観点があり、このような取り扱いとなっている」というもの。さらなる”内容の詰め”が必要のように思われる。オプトアウト制度の活用を考えてみるのも如何であろうか。

奥州市民☆文士劇「水戸黄門」の子供キャストと楽屋でのひと時
「個人情報の保護に関する法律」は、高度情報通信社会の進展に伴い、個人情報の利用が著しく拡大していることを背景に、個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護する目的で、平成17年4月に施行された。その後の状況を見ると、「個人情報を保護する」、「悪用を防止する」という点にばかりに注目が集まり、正しい法解釈が普及していない実態があると言われる。誤解例として、「個人一人一人も民間業者並みの規制を守らなければならない」、「名簿を作ることができなくなった」、個人データを第三者に提供することが不可能になった」などがある。このため、国や県では、ホームページ等を通じて正しい法解釈を呼びかけている。
ここに私が長年愛用している「岩手県職員録」がある。県職員のみならず、広く活用され、特に住所と電話番号が全職員分記載されている(当時)ので、大いに重宝されたと思う。
この職員録であるが、平成16年5月のものを見ると、本庁の担当課長級以上の職員のみ住所と電話番号の記述があり、他の職員は、氏名だけの記載である。これが゛、翌年6月のものになると(注:個人情報保護法施行後)、知事その他の特別職を含めて、全員が氏名のみとなっている。”寂しくなったなぁ”と、思わずため息が漏れる。
個人情報保護法では、3年を目途として、施行状況について検討を加え、必要な措置を講ずることとされており、現在、国民生活審議会を中心に見直しに向けた検討が行なわれている。
単純な「過剰反応」に陥ることなく、同法が基本理念として掲げる「個人の人格尊重の理念」を踏まえつつ、より実社会のニーズに応える制度とその運用を目指したいものだ。

さて、だいぶ肩が凝りました。ところで、「恋愛感情」は個人情報でしょうか。その判断は、お任せしますが、万葉の女流歌人は、次のように相手の男性に注意を促しています。

青山を 横切る雲の 著(いちし)ろく
われと咲(え)まして 人に知らゆな

大伴坂上郎女(おおとものさかのうえいらつめ)

通釈: 青い山を横切っていく雲のように、明瞭に人目につくように、私と笑みをお交わしになって、人に二人の関係を知られないでほしい。(森朝男著「万葉集」)

今年一年のご多幸をお祈り致します。

小園亭主 敬白

第36号

拝啓 愛犬を連れて田園を歩いていたら、百羽もの寒雀が、足音に驚いて舞い上がり、空き地の雑草群の中に隠れてしまいました。雪のない、穏やかな年の瀬を感じました。年末をいかがお過ごしですか。
メルマガ第36号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第36号(H19.12.31)
人材をいかに登用し、用いるか

12月5日付け新聞のスポーツ欄は、星野ジャパン(野球)の凱旋帰国を大きく報じた。
北京五輪予選を兼ねた野球のアジア選手権で優勝し、五輪出場権を獲得した日本代表チームが帰国した。星野監督は、「選手の心が一つになった。」と勝因の感想を述べた。また、選手一人ひとりが、持ち味を発揮できたことも要因に挙げた。
古来、集団を率いて勝利する者は、構成員個々人の能力を存分に発揮させ、また、集団の心を目標に向かって一つにすることに成功した者である。

個々人の能力を見抜き、使い分けることについては、幕末の優れた教育者、広瀬淡窓(ひろせたんそう:1782-1856 :江戸後期の儒学者で咸宜園(かんぎえん)を開き、門弟は4千人余といわれた)の「鋭きも鈍きもともに捨て難し、錐(きり)と槌(つち)とに使い分けなば」という言葉が味わい深い。淡窓は、これを同園の数え歌にしていた。

坂田道太(1916-2004 元衆議院議長)は、池田勇人(1899-1965)と佐藤栄作(1901-1975)の両元首相を比較するのに、この数え歌を引き合いに出して次のように述べている。

「片方は、シャープ、片方はそうでもない。どちらかというと鈍。だが、鈍は、人間性豊かだ。二人とも日本を背負う大宰相となった。そんな特別例を引くまでもなく、私たち人間は、誰だってそれぞれの個性をどう引き出し、どう生かすかが、永久の教育課題だろう。

淡窓先生が、その私塾を”咸宜(みなよろし)園”と名付け、この歌を愛誦したのもこの意味と思う。」

こうした人の組み合わせの妙に関して、元警察庁長官の某氏の話を思い出す。「円満な人間は、図形に例えれば丸で、癖のある人間は、三角か四角だ。丸の人間だけを集めると、どうしても隙間ができて(注:図形の円を寄せ集めて並べるとそうなる)パワーが出ない。その点、三角・四角のタイプは、組み合わせが難しいが、隙間を埋めて組むことも可能であり、そうなれば力強いものとなる。」
今年の10月に、姉妹都市であるオーストラリアのグレーター・シェパートン市を訪問したが、宿泊最終日の夜に、ジェニー市長(女性)のご厚意でメルボルンオーケストラの公演を聴くことができた。その時、指揮者の手さばきをみて、各楽器の名手を微妙なタイミングで登場させ、全体として見事な音楽に仕上げる優れた芸術を感じた。人材の組み合わせ、登用による”事業の達成・成功”に通じるものがあると思う。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中に、日本最大級の危機とも言える日露戦争(1904-1905)の雌雄を決すべき日本海軍とロシア・バルチック艦隊との決戦に際して、どのように連合艦隊司令長官を選んだかのくだりがある。
海軍大臣の山本権兵衛(1852-1933)が、東郷平八郎(1848-1934:当時、舞鶴鎮守府長官)と日高壮之丞(1848-1932:当時、常備艦隊司令長官)の比較論を当の日高本人を前にして述べている。

「作戦用兵の大方針は、大本営が決定し、それを海上の連合艦隊司令長官に示達する。艦隊司令長官たる者は、大本営の手足のごとく動いてもらわねばならないが、その点お前では不安である。お前は、気に入らぬと自分勝手に料簡を立てて、中央の命令に従わぬかも知れぬ。ここを考えてみよ。もしもある命令を出した中央が、その命令先艦隊が(命令を)きいていないことを知らず、艦隊が命令どおり動いていると信じ、次の作戦計画を立てたとすれば、その結果はどうなると思う? 作戦は、支離滅裂となり、一軍は崩壊し、ついに国家は、滅びるだろう。
そこへいくと、東郷という男にはそういう不安は、いささかもない。大本営が与えるそのつどの方針に、忠実であろうし、それに臨機応変の措置も取れる。」
この登用は、成功し、東郷が率いる日本艦隊は、日本海海戦(1905.5.27-5.28)において、一方的勝利を成し遂げ、バルチック艦隊を壊滅させ、ポーツマス講和会議への道を開いたのであった。

愛犬くるみ(コーギー犬雌5歳)

事を成功に導くため、異なった才能を有する人材をいかに登用し、用いるかは、最初にして最後の重要課題である。

市役所や関連事業体は、年明けから”人事の季節”を迎える。市政発展と市民の幸せ増進のため、正面からこの重い課題に向き合わなければならない。

間もなく新年。今年への思いを残しながら、次の句をお贈りします。どうぞ良いお年をお迎えください。

去年今年(こぞことし) 貫く 棒の如きもの  高浜 虚子

小園亭主 敬白

第35号

拝啓 11月半ばとしては、季節はずれともえる大雪となり、それに気付かないかのように葉が雪の上にはらはらと葉を散らせ、かえって風情をかもし出しておりますが、その後お変わりありませんか。
メルマガ第35号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第35号(H19.11.30)
バイオ燃料

本年10月12日、ノーベル平和賞の発表があり、地球温暖化問題に取り組んでいるアル・ゴア前米副大統領(59)と国連の気候変動に関する政府間パネル(ICPP)が受賞した。マスコミ報道の中には、「2008年の米大統領選にどう影響するか注目されている。」というものもある。いずれにせよ、地球環境問題への関心と取り組みが、前進することに繋がったと思われる。

一方、某新聞紙の最近の記事(11月2日付け)に「家計悲鳴ーガソリン150円台」の見出しが躍っていた。原油価格の高騰により、レギュラーガソリン1リットルが前日比7円高の150円になったガソリンスタンドが出た由。地球環境に優しくない化石燃料であるガソリンや軽油に代わる適切なエネルギーは、無いものであろうか。

さる7月2日の地元紙に「バイオ燃料効果検証ー奥州市 公用車3台に利用ーエコと節約両立へ」の記事が掲載されている。

これは、廃食用油を化学処理して製造したバイオディーゼル燃料(BDF)を市のディーゼル車で利用し、燃料の性能や安全性、経済性などを調べるものである。市所有のディーゼル車90台のうち、水沢総合支所のパトロール車など3台で使用する。
植物系燃料のため、地球温暖化防止協定上は、二酸化炭素の排出量は、ゼロと計算される。

価格は、課税されないことから、1リットル89.25円と通常の軽油単価より、23.5円安い。
本年6月から9月までの期間の検証結果では、平均22%の経費節減となっている。なお、CO2の削減効果は、1,547kgであった。11月から来年1月にかけては、第2次の検証期間を設け、対象
車両も1日の走行距離の長いスクールバスにも拡大して取り組む予定である。

さて、農林水産省では、今年度、バイオ燃料の本格的導入に取り組み、「国産バイオ燃料を5年後に5万kl以上導入」の政策目標を掲げている。

バイオ燃料とは、「植物や植物から作られる食品等を原料として製造される輸送用燃料」のことである。バイオエタノールとバイオディーゼル燃料に区分される。
このうち、バイオエタノールは、規格外麦、くず米などを原料とし、ガソリンに3%まで混ぜて使う。バイオディーゼル燃料(BDF)の方は、菜種油、大豆油の廃食用油などを原料とし、軽油に混ぜて使う。
上述の農林水産省の施策では、バイオ燃料の地域利用や技術実証などに支援することにしている。
こうした政策に象徴されるように、各地で意欲的な施策・事業が行なわれている。

大阪府では、府民や民間企業と連携し、遊休農地で栽培した菜の花から製造したバイオディーゼル燃料を、バスなどで利用する実験に取り組んでいる。06年9月から府内22地区の計10.7haでボランティアと協力して菜の花を栽培し、菜種油を使って、BDFの製造を開始している。
静岡県トラック協会では、ディーゼル車の排出ガスが地球環境に負荷を与え、人の健康に害を及ぼしているとの批判を意識して、菜の花栽培を関係者が行い、菜種油からBDFを製造し、06年からトラック(ディーゼル車)に使用して、走行試験を繰り返している。

菜の花畑の広々とした美しい空間と香ばしい菜種の匂いが間近に感じられるようである。
このような小さくとも、明確な強い意志を伴った取り組みの積み重ねが大切である。

我が奥州市でも、胆沢区において旧町時代の05年度から、米のエタノール化に取り組んでいる。
東京農大にくず米を持ち込み、エタノールを製造し、ガソリンに添加し、公用車などに使用する試験を実施している。コストは、原料費(くず米+電気代)で1リットル593円とガソリンの4-5倍
であり、その低減化が大きな課題である。

バイオ燃料活用の世界各国の取り組みは、急加速しており、地球環境問題対策の面からは、大変良い流れとなっているが、一方では、世界的穀物高騰を招いており、新たな問題も生じさせている。一つ一つの課題を乗り越えながら、着実に前進させていく必要がある。
ふと、アニメ映画「魔女の宅急便」の主人公キキを思い出した。さっそうと箒にまたがり、天空を駆けながら、「人間は素晴らしい。苦労を軽くしてあげたい。この箒のエネルギーを分けてあげれないものか。」とつぶやいているような気がする。

間もなく師走。心おきなく、残りわずかの一年を締めくくり、輝かしい新年の扉を開きたいものです。

どうぞお健やかにお過ごしください。

小園亭主 敬白

第34号

拝啓 隣家のリンゴ園では、真っ赤な実が星の如く散開し、光を放っており、その下の黄菊との色のコントラストを創り出していますが、いかがお過ごしですか。。
メルマガ第34号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第34号(H19.10.31)
怒りは敵と思え

喜怒哀楽は、人生そのものであり、生きていればこその楽しみでもある。
今年、後藤新平(内務大臣、東京市長など歴任)・齋藤実(海軍大臣、総理大臣など歴任)の生誕150年記念事業を行なう中で、自分なりに、両巨星の業績や人となりに触れて思うのであるが、後藤新平の方は感情を明確に表に出し、実に個性的に行動し、実績を上げたのに対し、齋藤実は、喜怒哀楽をあまり表に出さずに、内なるエネルギーを総合力に転化させて、周囲の厚い信望を積み重ね、遂には総理大臣にまで押し上げられていったような気がする。”怒り”の出し方もかなり異なっていたであろう。
ところで、タイトルの言葉であるが、家康(徳川家康)公遺訓の中に出てくる。「人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば、不足なし。心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし。堪忍は、無事長久の基。怒りは敵と思へ。(以下略)」
家康は、いつ何を耐え忍んだのか。天正7年(1579)、家康の長男信康の妻である徳姫は、父織田信長に対し、信康とその母築山殿(家康の妻)が武田勝頼と内通したと訴える。これに対して信長は、家康に妻の築山殿と嫡男の信康の処刑を要求した。家中に反対の声が強い中、家康は、両人を泣く泣く処分した(殺害・切腹)。大変な”堪忍”であったことと思う(異説もあり)。

同じく、わが子に危機が訪れたとき、陸奥国の奥六郡を支配する安倍頼時の対応は、違った。
1056年、鎮守府将軍源頼義は、安倍氏に対して挑発を行い、頼時の子である貞任(さだとう)が、頼義方の陣営を襲撃したとの(阿久利川事件)容疑をかけ、その引渡しを要求した。襲撃の原因は、貞任が頼義側の藤原光貞の妹を妻にしたいと願ったが、卑しい俘囚にはやらぬと拒まれたのが、原因という。頼時は、「貞任は愚かなれども、父子の情捨てられんや」として、応ぜず、兵を構え蜂起し、ここに前九年の役が勃発したのであった。
およそ30年後、この奥州の地では、再び”怒り”に端を発した事件が起こる。

1083年、前九年の役後、奥州(東北地方)の覇者となった清原氏の当主真衡(さねひら)は、養子成衡に嫁を迎えることになった。その婚礼の際、陸奥の真衡の館に出羽から清原一族長老の吉彦(きみこ)秀武が大杯の砂金を持って祝いに駆けつけた。しかし、真衡は碁に夢中になっており、秀武を無視した形となった。長い間待たされた秀武は、普段から一族衆をないがしろにする真衡への不満が爆発し、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。真衡はこれを聞いて、秀武討伐の軍を起こし、ここに後三年の役が幕を開けた。このことが、奥州藤原氏の祖、清衡に奥州の覇者となるチャンスを与えたのであった。
タイムマシンで、時代を下ってみよう。

元禄14年(1701)、江戸城内の松の廊下で、赤穂藩藩主・浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に突如切りつけた。積もり積もった怒りが、頂点を迎え、行動に現れたのである。加害者とされた浅野は、切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとされた。これが、その結果を不満とする大石良雄をはじめとする赤穂浪士による吉良邸討ち入りに発展する。日本人なら大概の人が知る「忠臣蔵」の実話物語は、こうして”怒り”から生まれることになる。
タイムマシンは、さらに下る。

昭和28年(1953)2月28日、衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、吉田首相が西村議員に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散された。いわゆる「バカヤロー解散」である。実情は、吉田が席につきつつ、小さな声で「バカヤロ」と呟いたのを、たまたまマイクが拾ったため、騒ぎが大きくなったとされている。しかし、吉田の”怒り”が、「衆議院解散」という国家の重大な事態への引き金となったことには違いない。

最後に、再度時代をさかのぼり、「怒る者は測るべきも、笑う者は測るべからず」の言に触れてみよう。

時は、三国志の時代に入る。司馬懿(しばい:字は仲達(ちゅうたつ) 179-251)は、魏(ぎ)の曹操(そうそう)とその子孫に仕え、最後は西晋の基礎を築き、高祖・宣帝と贈り名された人物であるが、234年、蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原で長期にわたって対陣した。
この戦いで司馬懿は、徹頭徹尾、防衛に徹した。やがて孔明は、病没し、蜀軍は撤退した。三国志演義でいう「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の場面もあった。土地の人々は、口々にこの
ことを囃しあったが、それを耳にした彼は、平然と「生きている人間のことなら分かるが、死んだ人間が相手ではどうにもならぬ。それにしても、”死せる孔明、生ける仲達を走らす”とは、言
い得て妙じやのう。」と笑い飛ばした。

「怒る者は測るべきも、笑う者は測るべからず」という。仲達は、孔明の睨んだとおり、やはり”大モノ”であった。(寺尾善雄著「諸葛孔明の生涯」)

タイムマシンの旅は、如何でしたか。暖房不備のため、風邪を召されたかもしれません(!?)。
まもなく「立冬」(11月8日)、季節の変わり目にくれぐれもご自愛願います。

小園亭主 敬白

第33号

拝啓 農耕民族の遺伝子が含まれているせいか、黄金色にたわわに実る稲穂をみると、なんとも豊かな気持ちになりますが、如何でしょうか。その後お変わりありませんか。
メルマガ第33号をお届け致します。

相原正明行政文化小園 メールマガジン第33号(H19.9.30)
医師確保対策

外敵の襲来、泥棒の侵入、大洪水、急な病い…いずれをとっても人間にとって、防止し、あるいは迅速な対応が切実に必要なものばかりである。いわば、国防、治安、防災そして医療である。こういう分野がしっかりしていれば、国民は、安心して”眠れる。”

鎌倉末期の随筆家吉田兼好(1283-1350)が著した徒然草の第53段に「医師(くすし)」にかかわる話しが出ている。仁和寺(にんなじ)に使われていた稚児の少年が僧になるということで祝宴があった。ところが、酔って興に入る余り、足鼎(あしがなえ…3本足の付いた容器)に頭を入れて満座の興を得たものの、終わってもどうしても抜くことができず、ついに「京なる医師(くすし)」のもとに赴いた。しかし、「かかることは、文にも見えず、伝えたる教えもなし」といわれて、仁和寺に帰った。結局、命を失うよりはということで、耳・鼻を欠きながら抜き取り、久しく病んだという話である。
いつの時代も、医師は最後の頼りである。同117段には、「よき友三つあり。一つには物くるる友。二つに医師(くすし)。三つには知恵ある友」とある。

その医師が、不足し、地域が大変な困難に陥っていると聞いたら、如何思われるだろうか。
しかし、現実である。特に地方の医療現場では、平成16年4月にスタートした「新しい臨床研修制度」が大きな影響をもたらした。それまで、大学(6年)卒業後、大学病院で専門分野を中心に臨床研修していた若い医師が、大都市の総合病院などでのプライマリー・ケア(総合的・基本的世話)を中心とした研修に移行した。このため、大学病院自体に医師が不足する事態となり、地方の公立病院などに派遣していた医師を引き上げ始めている。

また、こうした流れに関連して、医師の人事に関して実質的に権限を持っていた大学医局(教授中心)が、力を発揮できにくくなり、医師確保の力が薄れてきたとも言われる。

わが総合水沢病院でも、かって20人を超えていた(平成12年26人)常勤医師が、開業のため退職したり、大学医局から引き上げられたりして、15人となり、一層の経営の苦しさを招いているほか、当直医不足のため、救急病院としての機能発揮が困難となりつつある。
また、当地域の最も中心となる県立胆沢病院では、最近産婦人科医3人のうち、1人は大学医局人事で引き上げられ、1人は、出産で遠隔地に去り、残る1人は他の県立病院に異動となり、産婦人科が”壊滅”した。およそ人口15万人の当保健医療圏の公立病院から、産科機能が消滅した(婦人科は残る)のである。市を挙げて回復運動を起こしているが、今のところ道は遠しである。
なお、診療科の中でも、産婦人科と小児科の医師が特に不足しているといわれる。このことについては、やはり新臨床研修制度により、新任医師が、自らの専門科を決めるまでに、多くの科をローテーションするようになり、その結果、労働条件の劣悪な科や訴訟リスクのある科が敬遠され、産婦人科や小児科を希望する医師が激減したとも言われる。
ところで、日本全体の医師数は足りているのであろうか。

厚生労働省の「医師の需給に関する検討会」の平成18年7月の報告によると、平成16年で医師推計必要数26.6万人に対して、医療従事医師数は25.7万人で9千人の不足とされている。しかし、これに対しては、「実際に不足しているのは、病院勤務医であり、勤務医の週平均労働時間63.3時間から週48時間に短縮させるためには、5.5万人不足している。」との指摘もある。

OECDの健康統計では、2005年の人口10万対医師数は、OECDの30ヶ国中27位、GDPに占める医療費の率は、21位と大変お寒い結果となっている。国の医療費抑制政策は改めるべきであろう。

奥州市では、まさに「背に腹はかえられぬ」思いで、独自の医師養成奨学資金貸付制度をこの9月議会で創設した(条例化)。医師を目指して勉学する学生に、国公立、私立を問わず、入学一時金720万円と月額20万円を貸与する。そして、貸与年数分(入学金分は、3年とカウント)について奥州市立の病院、診療所に勤務すれば、返還を免除するというものである。経済的に医学部に進学できない優秀な子弟に医師への道を開くことにも繋がる。実際に成果が現れるのは、在学6年プラス臨床研修2年の後、すなわち9年目からであるが、明るい展望に繋がるものー未来への布石と思う。

最後に、知り合いの某マスコミ記者が、「今は、新規の医師獲得よりは、現在頑張っている医師の心をいかに繋ぎ留めれるかが、鍵だ。」とアドバイスしてくれた。大事にしたいと思う。

9月25日は、十五夜(旧暦8月15日)で、中秋の名月が見られました。季節が異なるのですが、中村汀女(ていじょ 1900-1988)の次の句を想いました。

外にも出よ 触るるばかりに 春の月    汀女

季節の変わり目にご留意の上、お元気でお過ごしください。

小園亭主 敬白

第32号

拝啓 忍び寄る秋風に風情を感じつつ、寝冷えを心配しだしておりますが、お変わりありませんか。
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相原正明行政文化小園 メールマガジン第32号(H19.8.31)
戦国武将の覚悟 “生中に生なく、死中に生あり”

戦国武将?
(奥州ころもがわ祭り)

毎日曜日、夜八時のNHK大河ドラマは、青年時代からの楽しみである。行事などで見れないときは、何とか土曜日の再放送を見るよう努力する。

現在の「風林火山」も欠かさずに見ている。この主要登場人物として、武田信玄とともに、その宿敵、上杉謙信が登場する。この2人の軍事のみならず、人生哲学が魅力である。
ご存じの方も多いと思うが、再来年(次の次)の大河ドラマは、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続を中心としたものになる予定であり、その原作は「天地人」(火坂雅志著)である。川中島合戦を前にした上杉謙信に、雲洞庵(うんとうあん)住職の北高全祝(ほっこうぜんしゅく)は、「生中に生なく、死中に生あり」の一偈(いちげ)を授けた。
謙信は、この心を自らしたため、次の壁書として、春日山城に掲げた。「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にある。何時も敵を掌中に入れて合戦すべし。疵つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。帰ると思えば、これまた帰らぬものなり。(以下略)」
非常の決意であるが、自らの迷いをなくし、透徹した心で勝負に臨む意味では、十分頷ける。

永禄3年(1560)5月19日に行なわれた桶狭間の戦いは、4万といわれる大軍を引き連れて、尾張に侵攻した今川義元を、その十分の一にも満たない軍勢で織田信長が打ち破った有名な戦いである。戦いに臨んで信長は、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と敦盛の舞を舞ったとされている。山岡荘八の小説によれば、信長には、「清洲で篭城する気などは微塵もなく」、「城も妻子も捨てる気であった。」。「天下をとるか、尾張のうつけで消えてゆくか」の判断であった。

秀吉の場合は、どうか。天正10年(1582)6月13日未明、中国大返し(備中高松城から京都の山崎までの200kmをわずか5日間で移動)を果たした秀吉(このとき47歳)は、4万余の軍勢をもって、1万6千余の明智光秀軍を撃破し、天下取りに大きく前進した。
この合戦に臨み、秀吉は、次のように気合を込めて述べている(山岡荘八著から)。
「ある限りの金銀すべてを知行に応じて分配してやれ。足軽・小者にも漏れなく渡せ。すべての米を家臣一統の妻子に、日ごろの5倍増にして分けてやれ。よくわしのような者に仕えてくれた。これから秀吉は、もう一度素裸になって戦う。生きても死んでも二度とはこの城(姫路城)戻ってこぬ。死んだときは、わしの寸志、生きていたらもっと大きな城に迎え取るまでの食い代じゃと申せ。」

家康についても、述べねばなるまい。元亀3年(1573)12月22日、浜松城近くの三方ヶ原において、上洛途上の武田信玄軍2万5千の軍勢に対して、家康(このとき31歳)は、1万1千の軍勢で戦いを挑み、完敗し、単騎で浜松城に逃げ帰った。この際の惨めな己の姿を絵に描かせ、常に掲げることによって後の戒めとした話がよく知られている。この戦いに臨む心境について、同じく、山岡小説では、「家康は、もはや何も考えなかった。考えていることは、如何なることがあっても、武田勢に屈せぬ男の存在を示すこと、ただそれ一つであった。(略)運命に向かい、天地に向かって呼びかける一戦だった。運なくば皆殺しにするがよい。その時は、生かしても益なき奴と、神がわざわざ裁いたもの…と信じ、死ぬつもりの一戦だった。」としている。

私は、山岡荘八のこのような歴史認識、人物・心理判断は、的を得ていると思う。そうでなければ、いわば本物でなければ、時代の表舞台で光を発する活躍などできるはずもない。
ものごとの真髄を伝えるものとして、柳生宗矩の「兵法家伝書」に次のくだりがある。
「弓射る時に弓射るとおもふ心あらば、弓前乱れて定まるべからず。(略)胸には何事もなくして成せばやすやすと成也。鏡の常に澄んで、何のかたちもなき故に、むかふ物のかたち何にても明らかなるが如し。」

やや唐突であるが、1989年に公開されたアメリカ映画「インディ・ジョーンズー最後の聖戦」をご存知だろうか。主人公のインディが「キリストの聖杯」を手に入れるために、命がけのハードル
を次々と越え、最後に、目には見えぬ橋の存在を信じて、断崖絶壁下の何もない空間に足を踏み出す瞬間がある。まさに「死中に生あり」の行動表現でもある。
首長職の成すべき判断の中にも、いわば、絶対絶命的なものがある。その時は、上述した心構えで進むほかあるまい。

秋風といえば、学生時代から好きな次の歌がある。

君待つと わが恋ひをれば わが屋戸(やど)の
すだれ動かし 秋の風吹く   額田王(ぬかだのおおきみ:万葉女流歌人)

季節の変わり目にご注意なされつつ、お元気でお過ごしください。

小園亭主 敬白

第31号

拝啓 朝の洗顔が終わって顔を上げたところに、ひっそりと艶やかにたたずむ凌霄花(のうぜんかずら)の花が目に入りました。その後お変わりありませんか。
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相原正明行政文化小園 メールマガジン第31号
寄付による投票条例

凌霄花(のうぜんかずら)

「寄付による投票」とは奇妙な名前であり、行政関係者でもすぐに分かる人は少ないであろう。どうやら、自治体の政策メニューを指定して寄付することによって、政策決定に参画する事を指して、そう表現したもののようである。
もう少し素直に、「寄付による政策参画」とでもいえなかったであろうか。

それはともかく、本年7月15日の地元IN紙の一面トップに、「寄付金で村づくり基金」という見出しが躍った。岩手県田野畑村(人口約4,200人)が、村内外からの寄付金を積み立て、福祉や環境保全事業などに充てる「田野畑むらづくり基金」を創設するものである。年間百万円を目標に、村出身者やゆかりのある人、田野畑村のファンの人々に支援を呼びかける。

メニューとしては、①高齢者福祉サービスの向上、②子育て支援、③住民自治活動への助成、④北山崎など陸中海岸国立公園保全と動植物保護、⑤机浜番屋群の維持補修などがある。

④や⑤などは、具体的で、分かり易く親しみやすい。
この田野畑村の事例は、県内2例目で、トップは、「ミルクとワインとクリーンエネルギーのまち」葛巻町(人口約8,000人)である。
町長中村哲雄氏(59才)は、当市内の水沢第一高等学校の卒業生でもあるが、まさにアイデアと実行の人であり、葛巻ワイン片手に全国各地をセールスして歩く姿は、感動的でさえある。見習わなければならない。3期目を迎えようとした今回、家庭の事情で引退したのは、誠に惜しまれる。

さて、葛巻町では、平成18年度から「葛巻町ふるさとづくり寄付条例」を定めて、①森林の保全と資源循環に関する事業、②新エネルギー導入に関する事業の二つについて、町内外から寄付を募り、基金に蓄えながら活用している。
初年度の実績をみると、119件で272万円の寄付があり、このうち①が72件166万5千円、②が38件78万円、「指定なし」が9件27万5千円であった。
寄付者には、遠く京都府、大阪府、東京都などに住む人々が含まれており、町外からの寄付の割合は、件数ベースで83.2%となっている。なお、1件あたり全体の平均額は、22,857円である。
町外から寄付する人は、どんな人であろうか。また、どういう動機であろうか。寄付の際に併せて寄せられたメッセージを見ると、ふるさと想いの人(注:出身者と思われる)、かって町の学校教員として勤務した人等が、予想通り含まれているが、それ以上に、町長の講演に感銘を受けた人、町の食糧自立・エネルギー自立・環境保全施策を応援したい人等が多く含まれており、改めて、中村町長や町の努力に敬意を表する次第である。

ところで、ふるさと想いの人が、ふるさとの自治体に財政貢献したいという話しで思い出されるのが、最近話題の「ふるさと納税」である。これは、どういう制度を考えているのか。

まだ固まった案は無く、政府がこの6月にまとめた「骨太方針2007」で、「地方税財政改革の推進のため、検討する。」としている段階である。

現在浮上している案としては、「住民税(全国ベースで約12兆円)の1割程度を居住地以外のふるさと等の自治体に納める案」や「ふるさと等の自治体に寄付する場合に住民税から税額控除する案」がある。後者の案などは、「寄付による投票」に近いものになってくる。

「ふるさと納税」については、たとえば高校時代まで、なにかとお世話になり、また、投資していただいたふるさとの自治体に恩返しする方法として評価する一方で、自治体間の財政収入のアンバランスを調整する措置である地方交付税の減額に繋がるのではないかといった警戒論もある。
思い切って、まずは取り組んでみてはどうかと思う。問題が出ればまた対応すればよい。

「寄付による投票条例」に話しを戻すと、本年3月の当市議会一般質問において、佐藤邦夫議員から質問があり、「市民の意識を高める観点や全国各地から公募することにより、全国におけるイメージを高めるという視点から、検討を進める。」旨答弁している。
市の場合、財政力が比較的高いと見られることから、政策メニューは、より具体的で、特徴的な、さらに言えば心を引き付ける斬新なものが求められると思う。職員の皆さんの知恵を集めながら、取り組んでみたい。

暑さがピークを迎えるこの時期、出かけることは叶わないまでも、再び海を思い浮かべました。

おほ海の 磯もとどろに 寄する波
われてくだけて 裂けて散るかも    源実朝(1192-1219)

どうぞ、夏ばてに負けずに、お元気でお過ごしください。

小園亭主 敬白

第30号

拝啓 地元の奥州FMラジオから流れる軽快な音楽を聴きつつ、少し開けた窓から吹き寄せる心地よい夏の風を楽しんでおりますが、いかがお過ごしですか。。
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相原正明行政文化小園 メールマガジン第30号(H19.6.30)
人を求める

胆沢城あやめ祭り(H19.6.30)

出張帰りの東北新幹線車中で、車内に置かれている雑誌を久しぶりに見た。
ひとつは、「大人の休日(初夏6月号)」。今年、芸能生活40周年になる由美かおるさんのデビュー当時の話。小学6年で西野バレエ団に入団し、15歳で「11PM」にデビュー出演した。
ドリス・ディの曲を歌いながら、ミニスカートで踊ったら、放送直後から電話が殺到し、テレビ局の電話回線がパンク寸前となった。その時に、石原裕次郎から「ぜひ、僕の相手役に」という電話があり、映画デビューが決まった。
もうひとつは、「トランヴェール6月号」。室町時代、足利義満の寵愛のもと、「能」を洗練された国家的な芸術の域にまで高めた世阿弥。その出会いは、応安7年(1374)、京都・今熊野(いまぐまの)神社での演能の場面。17歳の将軍義満は、12歳の世阿弥の「顔立ちが整い、態度も凛々しく、花が咲いたような初々しさ」に魅了されてしまった。世阿弥は、絶世の美少年であったようだ。この後、世阿弥は、義満の破格の引き立てにより、急速に上り詰め、将軍交代により、没落への道をたどり、最後は、佐渡配流となる(1443年81歳で没)。

このような「心奪われ型」の話としては、作詩家・作家なかにし礼さん(1938年生)が、13歳年下の妻由利子さんと結婚したときの話を自ら語る、やや古い記事(週刊文春2000年3月号)がある。

「当分結婚なんてしないつもりでいたのに、彼女(芸名:石田ゆり)を見た瞬間に、そんなことはすっかり忘れてしまった。今つかまえないと、自分が永遠に浮かばれないような焦燥を私は感じたのだった。髪はショートカット、きらきら輝く瞳の18歳の女の子だった。」

もう少し、理性的な出会いとして、豊臣秀吉(1536-1598)と石田三成(1560-1600)。
天正2年(1574)、近江長浜城主だった秀吉が、鷹狩り途中にある寺を訪れ、茶を所望した。14歳の佐吉少年(後の三成)が持ってきた大きな茶碗には、ぬるめの茶が入っていた。のどが渇ききっていた秀吉は、一気に飲みきり、さらに一服所望した。二杯目の茶碗は、小さめで、湯は、やや熱め、そして量は半分くらいであった。さらにもう一服命ずると、三杯目の茶碗は、高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほど暑く、量はほんのわずかであった。この気配りに感心した秀吉は、佐吉少年を長浜城に連れ帰った。

「人を求める」というテーマで、松下幸之助は、次のように述べている。
「『人』は、どうしたら得られるのだろうか。これは大きくいえば、運とか縁ということが考えられるが、やはり求めのあるところに、人は集まってくるのだと思う。ただなんとなく優れた人材が集まってくるというようなことは、まずあり得ない。すべてのものは、要求のあるところに生まれてくるものであって、だから、指導者に強く人を求める心があってこそ、人材も集まってくるといえよう。世上、人材の不足を嘆く指導者も少なくないようだが、その前に、まず自ら、それほど強く人を求めているかを自問自答してみる必要もあるのではなかろうか。」

今年、奥州市、東京都などで生誕150周年記念事業が行なわれてる後藤新平(1857-1929。逓信大臣、外務大臣、東京市長などを歴任)は、「人を求める」ことに大いに力を注いだ。

明治31年(1898)に40歳で台湾総督府民政長官に就任するに際しては、当時アメリカにいた新渡戸稲造(36歳)を獲得するために、3度も手紙を出し、東京に戻るや否やすぐに面会を求めるなどして、札幌農学校に戻るつもりで、台湾行きの話しを受ける気の無かった新渡戸をついに口説き落としている。

新渡戸には、農業振興を担当させたが、このほかには、土木で長尾半平、鉄道で長谷川謹介、医学で高木友枝、慣習調査で岡松参太郎などの人材を、かなり強引な方法で、しかし誠意を示して獲得した。
後藤新平が、脳出血で倒れた日に残した、次の最後の言葉も、こうしたことと密接に関係する。
「金を残して死ぬ者は、下だ。仕事を残して死ぬ者は、中だ。人を残して死ぬ者は、上だ。」
私の場合、ややもすると、己を整えることに精一杯であり、また、それによって万事解決すると思いがちなところがある。もう少し、「人を求める」努力が必要なようだ。

暑さの気配に立ち向かおうと、海を思い浮かべていたら、次の句が思い出されました。

乳母車 夏の怒涛に 横向きに   橋本 多佳子

向暑のみぎり、どうぞ、ご健勝でお過ごしください。

小園亭主 敬白

第29号

拝啓 抜けるような青空のもと、我が家の庭には、大輪の芍薬、真っ赤な牡丹が咲き誇っています。これで足りないのは(美人の形容として)、百合の花ぐらいでしょうか。その後お変わりありませんか。
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相原正明行政文化小園 メールマガジン第29号(H19.5.31)
コンパクトシティ

5月18日の地元TN新聞に、「『コンパクトシティ水沢』市民団体きょう発足」の記事が掲載された。
人口減や進行する高齢化、中心市街地の空洞化が避けられない現状の中、街にある既存施設を活用しながら、各種団体と連携を強め、中心市街地の活性化につなげようとして、NPO法人「コンパクトシティみずさわ」を立ち上げるものである。

事務所を水沢の中心市街地の”老舗”ともいえる「大町」に置き、高齢者福祉介護サービス事業、子育て支援事業、まちづくり支援事業などを行なう。

市街地のスケールを小さく保ちながら「歩いて動ける」範囲を生活圏ととらえ、都市郊外化の抑制やコミュニティの再生を目指すコンパクトシティの発想にヒントを得たという。

中心となるNさんは、「この地域に住む人を増やすのが目指すところ。街づくりは、ひとづくり。楽しみながら皆で街づくりにかかわっていきたい。」と話している。

ところで、コンパクトシティとはそもそも何か。
この言葉は、ダンツィクとサアティという都市計画の専門家(アメリカ)により、1973-74に著書「コンパクトシティ」で初めて用いられ、最も効率を良くする都市の姿として考えられたようである。

近年では、「進む中心市街地の空洞化」を背景とし、その対策として考えられている面が強い。中心市街地の空洞化現象が1990年代より全国で見られるようになり、特に鉄道網の不十分な地方都市において、自動車中心の社会となり、郊外に宅地開発が進み、巨大ショッピングセンターやロードサイド型店舗が次々と立地し、中心市街地の職住分離とあいまって、同地の空洞化が一気に進み、いわゆるシャッター通りが多く生まれている。
こうしたことは、移動手段の無い高齢者など交通弱者にとって不便であり、また、際限の無い郊外化、市街地の希薄化は、道路、上下水道などの公共投資の効率を悪化させ、膨大な維持コストが発生するなど財政負担が大きい。

このような課題に対して、都市郊外化・スプロール化を抑制し、市街地のスケールを小さく保ち、歩いてゆける範囲を生活圏ととらえ、コミュニティの再生や住みやすいまちづくりを目指そうとするのが、コンパクトシティの発想であり、ヒューマンスケールな職住接近型まちづくりを目指しているものといえる。

札幌市、仙台市、青森市、稚内市、神戸市などがコンパクトシティを政策に取り入れている。
特に青森市の取り組みが著名であるが、同市では、郊外の発展により、除雪費用が膨大になり、市の財政を圧迫していることなどから、この政策を取り入れ、成果を挙げている。
「コンパクトシティ ー青森市の挑戦ー 」(青森公立大学教授 山本恭逸)によると、平成11年策定の「都市計画マスタープラン」において、都市づくりの基本理念を「コンパクトシティの形成」と全国の都市で初めて謳い、市街地の拡大に伴う新たな行財政需要を抑制するとともに、都市の既存ストックを有効に活用した効率的で効果的な都市整備などを大きなテーマとしている。

また、このコンパクトシティを牽引する核として中心市街地地区を位置づけ、その活性化方針として、「まちなか居住の推進」、「まちの楽しみづくりの推進」などを示し、「歩行者空間の高質化など回遊動線の整備」、「公共交通の充実」、「都心居住街区の誘導による夜間人口の増大」を推進している。

具体的施策の一例として、中心市街地の土地所有者に公営住宅建設の募集を行い、最も優れている場所の土地所有者と契約を行い、出来上がった住宅部分を20年借り上げる「借り上げ市営住宅」のアイデア実行例が挙げられる。
このコンパクトシティ構想を推進してからの夜間人口の推移を見ると、1995年を底としてわずかずつ増加に転じ、現在は、1985年当時の人口まで回復しているという。

奥州市は、今年中に中心市街地活性化基本計画を策定し、国に申請すべく準備を進めているが、このコンパクトシティの考え方を基軸に特色を織り込んでいきたいと考えている。
夢を描き、それが少しずつ実現していく、そしていつの間にか当初の構想を凌ぐ世界が広がる・・・ことを願いながら。

庭の牡丹

田植えがほぼ終わって、日本列島が水浸しのようになり、夜の灯りのともった家並みが水面に映った景色は、誠に幻想的であり、我が家の周りも、湖の一大観光地になったかのようです。

爽やかな季節をどうぞお元気でお過ごしください。

小園亭主 敬白

第28号

拝啓 桜花爛漫のときが過ぎ、風薫る瑞々しい五月を迎えようとしておりますが、お変わりありませんか。
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相原正明行政文化小園 メールマガジン第28号(H19.4.30)
問題・困難が新たな道を拓く

今年も奥州市の代表的な春の祭り、水沢区の日高火防祭(ひたかひぶせまつり)が絢爛豪華に行なわれた。金、朱、碧色と色とりどりに彩色された、美しいはやし屋台9台が、三味線・小太鼓・笛の計23~28人の着飾った少女(お人形さんと呼ばれる)・娘を乗せ、町内を練り歩く。闇夜に浮かび上がった光景に思わず、息を呑む。

孫その1・その2

日中の屋台運行の先頭には、竿の先に大きな赤玉(火の象徴)と馬簾(ばれんー水の象徴)をつけ、「仁心火防定鎮」のいずれかの文字を旗印とした町印(ちょうじるし)が進む。
町印に、かって藩主である留守(るす)家の殿様から与えられた言葉が、「仁心をもって火防定鎮す」ということで解るように、長い歴史を有し、火防への熱い想いがこもった祭りである。
江戸時代の明暦3年(1657)に、江戸の大半を焦土と化した振袖火災を見た留守宗景公が、水沢に戻るや火防に万全を講じようとしたことが、この祭りの起源となったとされる。

話は変わるが、4月4日、国立天文台の観山(みやま)台長が当市を訪れ、旧緯度観測所本館の市への無償譲渡を決定した旨の通知書を市長に手渡した。これで保存が本決まりである。
この緯度観測所の初代所長である木村栄(ひさし)博士は、「Z項の発見」(1902年)で知られる。近代科学で日本人が発信して世界的に賞賛された最初の成果の一つといわれる。
1898年、ドイツで開かれた万国測地学協会総会で、国際協力により、北緯39度8分の世界6箇所で緯度観測することが決まり、日本の水沢がその一つに決まった。
しかし、1年もたたないうちに、「水沢局の観測には問題があると思われ、評価を半分にする」という屈辱的な評価が、下された。この屈辱を跳ね返すべく、木村博士は、徹底的に観測手順を洗い直し、従来の手順・技術に問題がないことを確かめつつ、ついにZ項(観測の精度を高めるため、従来のX項、Y項の二元方程式に加える新たな項)の発見に至った。

さらにもう一つの話題。今年のNHK大河ドラマ「風林火山」にも関連した話しである。無敵の武田軍を恐れ、その対策として、途方もない新戦術を生み出した織田信長の長篠の戦いの話。
天正3年(1575年)5月21日午前6時すぎ、長篠城の西に位置する設楽ヶ原(しだらがはら:現在の愛知県内)において、天下無敵の武田騎馬軍団に対し、織田・徳川連合軍の3千挺の鉄砲が一斉に火を噴いた。
武田軍の機動力は、完全に出鼻をくじかれ、持久戦となり、8時間後には、兵力に勝る織田・徳川連合軍(4万)が、武田軍(1万5千)を壊走させた。武田軍の死傷者は、1万を超え、勝頼(信玄の子)とともに逃げのびた者は3千に満たなかったという。
信長の恐怖とも言える危機感が、日本の合戦史上の革命的戦術を生み出したのである。

最後に「岩手県から国家的な人物を多く輩出している理由」。
今年は、郷土の偉人、後藤新平(1857-1929、外相、東京市長ほか)、齋藤実(1858-1936、首相ほか)の生誕150年、プレ同年の諸行事が行なわれる。
岩手県から首相等の偉人が多数輩出している理由について、「岩手の教育史(長岡高人編著)」では、次のように述べている。
「…その近因は、明治維新に当たって、岩手県民が心ならずも、朝敵逆賊の汚名を蒙るという逆境に突き落とされたことにあった。…岩手の青少年には、もはや官界、政界、財界への立身出世の道は、断たれていた。わずかに残されていたのは、藩閥に頼らず、自力で刻苦勉励して、学者か軍人になる道であった。…この逆境が、岩手の青少年を奮起せしめ、進んで、苦学力行の一路に黙々とし努力するという伝統的な内向的努力型の県民性が、その特長を発揮したのであった。」

庭のムスカリ

今回は、いつでもどこにでもありそうな、「問題・困難が新たな道を拓いた」話題を最近の行事などに関連させて拾い集めてみた。

私は、己を成長させ、世の進歩・発展を築く鍵は、「問題・困難」の出現にあると思うのであるが、諸兄は如何思われるだろうか。

この五月の連休は、孫に夢中になり、花には目が行かないかもしれません。
皆様は如何ですか。ご健勝でお過ごしください。

小園亭主 敬白

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