相原正明の個人オフィスのホームページです

2010年4月〜2020年3月

心象スケッチ 2010年4月〜2020年3月

2019.8.31    ― 父は文学者 ? ― (第87号)

父正毅・母ミツの結婚記念写真

著書「米寿のあゆみ」

父相原正毅(せいき)は、大正10年9月14日生まれで、満97歳である。自宅で妻ミツ(92歳。寝たきり)と息子夫婦(正明・美智子)と暮らし、足腰が大分弱り、年相応の物忘れもあるもののすこぶる元気である。血液検査等に基づく健康診断でも特に悪い数字はなく、どうやら血管年齢も若いようである。
若いころから早寝早起きで、「身体を動かすことが大事」が口癖のような人で、八十代も日々実践していた。健康保持のために誠に良い習慣であったと思う。

もう一つ素晴らしい習慣があった。それは物書きである。
このことが家族にも分かったのは、65歳になった時に初出版した「わが来し方わが出会い」(昭和61年)からである。
その後、地域の習俗を現した田谷老人クラブ発行の「田谷の婚礼と葬儀の昔物語」(平成5年)、田谷戦争体験記を作る会名で出した「あの時の思い出ー戦争とその前後ー」(平成7年)、県獣医師会水沢支会OBの面々の随筆をまとめた「亀の甲の呟き」(平成10年)、身内にのみ配布した「わが陸軍記」(平成13年)などを発表している。

さらに、13年余にわたり自宅のある橋本部落(34世帯)のことをミニ新聞風に記して配った″橋本だより″を本にまとめた「橋本の今昔」(平成17年)、そして集大成とも言える満88歳の叙勲受章時に出版し配付した「米寿のあゆみ」(平成21年)である。
相原家にとっても地域にとってもひとつの歴史書として燦然と光を放つものと感じ、信じている。

ところで、「米寿のあゆみ」の中に「小さな二人旅」の項がある。父正毅と母ミツが新婚間もない頃に、二人で往復40キロもの道をそれぞれ約10キロの男爵薯が入ったリュックサックを背負いながら歩いたくだりである。NHKの自分史講座の機関誌「自画像」に掲載されたものでもある。若い頃短歌も多少嗜んだらしい父であるが、次の文を読むたびに「父は文学者 ? 」と感ずるのである。

「(前略)このころからリュックサックがずっしりと肩にくいこみ、足取りも重くなり始めるのだった。金ケ崎橋を渡り一休みすることにし、北上川の堤防に腰を下ろした。
洋々と流れる大河北上川の川面に、一陣の風が吹き抜け、名も知らない可憐な花がたなびき、美しい風景だった。
(中略)あのころの情景が、今も鮮明に思い出され、『あれが新婚旅行だったのかなあ』と懐かしさがこみ上げてくる。」

 

2019.4.30    ― 母も歩いた道 ― (第86号)

平国道397号線の奥州市胆沢分に母ミツ(92歳)が水沢女学校時代に毎日歩いて通った道がある。母の実家である胆沢若柳字島塚から同女学校のある水沢吉小路付近(現在の奥州市役所近く)までの道 のり約6.3キロ(片道)である。
母の話では、天候の悪いときはバス賃をもらえたが、あとは歩くほかなかったとのこと。

私の子供時代は、母の実家にあまり年の違わない従兄弟姉妹がいたこともあり、泊りがけで行くのが楽しみで、バスに飛び乗ったものである。降りる地点のバス停の名が「田中前」であり、現在もそのままであることが懐かしく、また嬉しい。


この途上の実家から1.6キロほどのところが延喜式内神社止止井(とどい)神社跡地となっており、そこに大きな松の古木があり、頭上高く道路にせり出している。たとえば、古(いにしえ)より旅人にとっては日よけになり、雨宿りにもなったであろうと想像させるたたずまいである。奥州市長時代に何度も公用車でこの道を通ったが、「あるいは昔、母もこの松を毎日見ながら学校に通ったのではないか」などと思うと、何やら懐かしさがこみ上げてきたものだ。


この地点から約1キロほど水沢方面寄りの397号線沿いの小公園地内に、私が奥州市長時代に揮毫を依頼され、「粟野善知翁」と記した郷土の偉人の胸像が立っている。この揮毫のお手本は当時書道教室を開いていた母ミツの書である。ここもまた、母の面影が自然に表れる場所である。

このようにこの路線地区は、母とのかかわりでとてもゆかしいものであるが、その母は現在92歳で、5年ほど前に脳梗塞で倒れ、それ以来会話もできず、食べることもできず、寝たきりで胃ろう措置の人である。しかし、容体は安定し顔色もよく、ある意味では大変丈夫でもある。女学校時代にこの道を歩いて通ったことが母を丈夫にしたのではないかと感ずる。
母の歩いた道への想いは尽きることがない。

 

2016.6.8    ― クルミありがとう ― (第85号)


平成28年4月27日(水)午後5時5分我が家の愛犬クルミが逝った。平成14年11月9日生まれであるから享年13歳である。人間の年齢に換算するとおよそ70歳くらいだと思う。
もう少し長生きしても良かった。子宮に膿が溜まる病があり、高齢のため手術もできないでいた。何より大好きな餌を口にしなくなって約1週間、苦しい息遣いをするようになって約3日で昇天してしまった。体を撫でながら名前を呼ぶくらいのことしかできなかった。

コーギー犬の雌で、盛岡にいる二男坊が大枚をはたいて衝動買いした犬であった。6年ほど室内犬として飼われ、様々な事情で江刺の我が家に引き取られたのであった。クルミという名はその息子がかつて飼育していたウサギのミルクという名を逆様にしたものという。クルミにとってはこの二男坊こそが親そのものであった。彼は、亡くなった日にたまたま仕事のついでに立ち寄ってくれ、苦しみにあえいでいるクルミを愛撫していった。
クルミはこれに安堵したかのようにほぼ直後に崩れ落ちるように倒れ、逝去した。

我が家の4人(両親、妻、私)は、犬を飼った経験がなかったが、たちまちその愛くるしさに魅了されてしまった。父は朝の散歩と朝食、母は夕食、妻は夕方の散歩、私は補完役をそれぞれ担当した。犬と私の10の約束という本も読み、声をかけ、話しかけながら接した。悩み事を抱えて30分ほども散歩するときは、実際に声を出さないまでもクルミに聞き役になってもらっていた。腹を撫でてもらうのが好きで、庭で声をかけるとポンと腹をこちらに向けて寝ころんだものだ。

我が家の廊下に長男の家族が孫3人を連れて熊本から泊まりに来た時の写真、同様に二男の家族が盛岡から孫2人を連れて遊びに来た時の写真がたくさん飾ってあるが、その集合写真のほとんどすべてにクルミが映っている。孫寄せの切り札でもあった。

クルミが亡くなった次の日、火葬場で骨を拾い、我が家の菩提寺でもある西念寺のペット共同墓地に納骨し、「愛犬相原クルミ」のプレートもつけていただいた。母屋の車庫内の犬小屋にはクルミの写真を飾り、遺品を中に入れている。
家族全員が喪失感に包まれている。盛岡の二男坊は電話で訃報を聞いて孫娘とともに声を上げて泣いたという。

クルミ、本当にありがとう。私がやがてそちらに行ったなら、三途の川付近で呼ぶから待っていてほしい。

 

2013.8.8    ― 語りかける作家 ― (第84号)

いわて未来研会報

塩野七生 氏

司馬遼太郎 氏

特定非営利活動法人(NPO法人)いわて未来政策・政経研究会という団体がある。会員はおよそ3百人で年4回会報(カラー16ページ)を発行しており、その編集作業は唯一の常勤である会長(私)が行っている。
平成25年7月30日発行の会報第13号の編集後記(あとがき)に次のように記した。

「『ローマ人の物語』はお読みになりましたか。作者の塩野七生(ななみ)さんは、私が密かに司馬遼太郎クラスと敬愛している作家です。その本の中で、『年齢が人を頑固にするのではなく、成功体験が人を頑固にする』と述べています。
状況が変革を必要とするようになっても、成功によって得た自信が別の道を選ばせることを邪魔するということのようです。

今次の参議院選挙で盛り上がった政治においても、また当会のようなNPO活動にも、無論、個人の世界にも当てはまるのでしょう。いかにして虚心坦懐となり得るか、団扇を片手に考え込んでしまいました。コレ編集の反省の弁 !? (相原)」

お二人の作家は私たちに語りかけ、問い掛け、考えさせてくれる。作家本人の深い洞察力を通して、歴史の真実と重みそしてそこから導き出される教訓を示してくれる。
このような先導者こそ人を育て、世の向かうべき方向を誤りなく示してくれると感ずる。
私も著述を重ねる中で、この両巨頭をはるか後方からにはなろうが追走したいと思っている。それが夢のライフワークなどと気負っている。

 

2012.11.11    ― 石の履歴書 ― (第83号)

太陽と風の家鉱物展示室

パンフレット

11月11日一関市東山町にある「石と賢治のミュージアム」を訪ねた。
友人の絵画・写真作品展と同時開催の音楽家(エレクトリックべーシスト)ライブを楽しむためである。

このミュージアムは、宮沢賢治(明治29年~昭和8年)が昭和6年の春から東北砕石工場の技師として働いたことを記念して同工場跡地に一群の施設として創られたものである。
賢治が最後に社会に出て働いた場所であり、彼らしく農村の困窮を救うためには石灰によって土壌を改良しなければとの熱い思いを持ち病に倒れるまで奮闘していたことを知り、感慨深かった。
有名な「雨ニモマケズ」はこの場所で生まれたという。

写真の展示室には、石ッコ賢さんにちなんだ鉱物が名前入りで綺羅星のように陳列されている。この石はどこで採れてどんな素性であり、名は何というといった具合である。

数日前、自宅付近を散歩していたときのことである。
歩道にピンポン玉ぐらいの何のヘンテツもない石が転がっていた。いつもと違って何となく気になった。この石はどこから来たのだろう。何年かかってどう歩んできたのだろう。それを誰も聞いてくれないことを悲しんでいるのだろうか。

考えて見れば、木や草や土ならもともとその場にいた(あった)ことがわかるし、価値のある財物ならば由来や動きの経過は知られることになる。
常に身近にあり、いざというときお世話にもなるのに、石(石ころ)だけが履歴不明のまま放置されているのではないか。
何か不当な扱いのように思えてきた。

そんな想いで見ると上記の展示石は石の中の貴族のようなものだ。氏素性がはっきり位置づけられ、粗略に扱われることがない。
しかし、庶民石にもなにか名前をつけて認識してあげれないものか。
ふとそう思った。
石ッコ賢さんなら何と言うだろうか。

 

2010.8.28 ー 松下政経塾訪問記 - (第82号)

松下政経塾正門にて

アーチ門での説明風景

松下幸之助書「素直」

8月26日(木)に天下に名高い「松下政経塾」の日帰り見学会があった。神奈川
県茅ヶ崎市内にあるが、JR東海道線の辻堂駅からバスで10分ほどの距離にある。

現在、私が会長を勤めさせていただいている「いわて未来政策・政経研究会(略称:いわて未来研)」では、来年度の目玉事業として、「いわて平成松下村塾(仮称)」を立ち上げ、若手政治家等の養成を目指している。その参考として見学会に参加したものである。

松下幸之助氏が、私財70億円とグループ企業からの50億円を併せて120億円の寄附を行い、昭和55年に実現した。2ヘクタールの土地と6,700㎡の建物を有し、全寮制で3年間(設立当初は、5年間)の教育を行なってきた。
これまでの卒業生は、242名であるが、国会議員34名、地方議員26名、首長11名などと多くの政治家を輩出してきた。

松下幸之助翁の定めた塾是、塾訓、五誓を基にした人間教育と塾生同士の討論、現場調査などの塾生同士の切磋琢磨が特長であり、座学は、全体の約半分と言う。

塾是等を紹介しよう。
塾是「真に国家と国民を愛し、新しい人間観に基づく政治・経営の理念を探求し、人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献しよう。」
塾訓「素直な心で衆知を集め、自修自得で事の本質を究め、日に新たな生成発展の道を求めよう。」
五誓「一、素志貫徹の事 一、自主自立の事 一、万事研修の事 一、先駆開拓の事 一、感謝協力の事

ところで、この塾を幸之助翁が情熱的にスタートさせたのは、85歳の時であった。94歳で没するまで、この塾に泊りがけで訪れ、講話したと言う。上の写真の「素直」は、同翁が泊まっていた茶室の床の間に掲げてあるものである。

人間、一生の仕事は、遅すぎるということはない。また、最後の仕事は、人を育てることである。
そのように感じた一日であった。

 

2010.5.28 ー 東下り ー (第81号)

今年も我が家の近くに、華麗にアヤメが咲いた。隣家の花は、とりわけ美しい。牽牛の前に、年に一度の織姫が舞い降りたようでもある。
タイトルの東下りは、平泉の代表的な祭り「義経公の東下り」のことではない。伊勢物語(900年代)第九段の「東下り」である。

昔、ある男が都での生活に絶望して、友人と東国に下った。途中、三河の国、八橋で美しく咲いている「かきつばた」を題にして、京に残してきた妻への思慕の情を詠んだ。
かきつばた(杜若)はあやめ科の多年草で水辺に咲く。写真のアヤメとは異なるが、似ており、十分連想させる。

物語は、実に優雅で、知性に溢れている。「かきつばた」という五つの文字を句の始めに置いて、旅の心を詠んでほしいといわれ、歌を作ったというのである。
「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」と詠んだ。
からごろも(唐衣)のき(着)なれたように、慣れ親しんだつま(妻)が都にいるので、はるばるとやってきたたび(旅)をしみじみと悲しく思うという歌である。
それを聞いた人々は、みな「ほしいい(乾飯)」の上に涙を落とし、そのためにほしいいが、ふやけてしまったと言うのである。

ロマンあり、克明な描写あり、傑作の一節と思う。この歌は、学生の頃、覚えたきり、忘れたことがない。お陰さまで、毎年思い出す機会にも恵まれている。
この世がいやになることもある。旅に出たくもなろう。また、旅先で、古女房を思い出すこともあろう ?
ただし、この最後の点は、逆にこの際忘れたい向きもあろうが、諸兄はこの古典に見習うべきである !?
なんとも深い味わいがある。

「妻の足 大きく見えし 今朝の秋」とは、私(江山)の駄句である。レベルも深みも比較すべくもないが、時に、古女房を文学の世界に登場させる点では、共通しているかもしれない。

 

2010.4.8 ー戦い済んでー (第80号)

先月14日、第2回奥州市長選挙が行われた。候補者2人が全力を挙げて戦った。
結果、残念ながら、私の落選となった。支援者が総力をあげて、取り組んだものの、私の力不足で、このような結果となった。関係の方々には、次のような文面の礼状を差し上げている。

謹啓 春暖の候ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
常日頃、大変お世話になっておりますことを深く感謝申し上げます。
また、初代奥州市長としての四年間、公私にわたり、ご指導・ご支援賜りましたことにつきまして、心から御礼申し上げます。

ことにも先の奥州市長選挙(平成22年3月14日投票)におきましては、格別のご支援・ご高配を賜り、深く感謝申し上げます。
雪の中のあいさつ回り、寒い夜半の地域懇談会などで、他の用務を後回しにされて、日夜、応援いただきましたことが、つい昨日のように思い起こされます。

私と致しましては、現職としての実績と新マニフェストによる政策を掲げ、後援会を始めとする皆様方の熱気溢れる絶大なご支援、ご教導を力として、妻美智子ともども、全身全霊を上げて、戦い抜いた思いです。
しかし、戦い利あらず、私の力不足のため、敗北のやむなきに至りました。
ご支援いただきました皆様に衷心よりお詫び申し上げますとともに、心から御礼申し上げます。

振り返りまして、初代奥州市長として、思う存分の働きをさせていただき、合併新市の基礎固めの実績を残すことができましたことに、深く感謝申し上げます。
今後につきましては、これまでの市長職等の経験やこの度の選挙戦を始めとして、いただきました熱いご支援の輪を生かし、大切にさせていただくことを基本としたいと考えております。

国や地域の明日を想い、その限りない発展を願い、また、お世話になりました皆様方へのご恩返しにも繋がればと思い、私なりに、政策研究・提言や次代を担う人材育成などに微力を尽くして参る所存でございます。
何卒、変わらないご高配ご支援を賜りますよう、伏してお願い申し上げます。

なお、諸般の事情から、ご挨拶が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
末筆ながら貴台の益々のご健勝とご発展を心からお祈り申し上げ、御礼のご挨拶といたします。
謹白

この度の戦いで、私の選挙戦は2勝1敗となった。人生最大級の戦いでもある。何よりも多くの方々の命がけのご支援に深く感謝しなければならない。総括的な感想はとても言い尽くせるものではない。後年、著作にまとめれればと思う。

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