別館
陸軍主要兵器写真館

正式名称/撮影年(*参考程度)/その他

*写真は全て大日本帝国陸軍省許可写真


軍用機(戦闘機/爆撃機/偵察機/襲撃機/練習機/輸送機/グライダー/オートジャイロ)


戦闘機

戦闘機は制空権を確保し、地上戦闘を有利に導くほか、迫り来る敵爆撃機を追撃し、国土の防衛に任じる


甲式三型戦闘機(ニューポール24C1)*1917年輸入
寒冷地での橇を装備した機体。日本最初の戦闘機。最大速度173km/h


甲式四型戦闘機(ニューポール29C1)*1923年輸入
日本陸軍にとって最初の実用戦闘機。中島飛行機で国産。最大速度230km/h


九一式戦闘機(1931年)
日本初の完全国産戦闘機。この戦闘機から列強と肩を並べるようになった。
実戦は未経験だが、満洲国空軍に供与された。最大速度300km/h


九二式戦闘機(1932年)
川崎が開発した液冷エンジン戦闘機。性能も優秀で高度10000mまで上昇出来た。
九一式が制空戦闘機ならこちらは防空戦闘機。実戦は未経験。最大速度320km/h


九五式戦闘機(1935年)
複葉戦闘機では世界最優秀クラスの戦闘機。支那事変初期に大活躍した。
ノモンハン事件にも参加したほか、満洲国空軍に供与された。最大速度400km/h


九七式戦闘機(1937年)
固定脚の戦闘機では恐らく世界最強の実力を有する。
増加燃料タンクを用い、延々1700kmもの長距離飛行も可能だった。
日本の航空史上の記念碑的存在。最大速度460km/h 武装7.7㎜機銃2


一式戦闘機「隼」(1941年)
軍神加藤建夫少将が率いた「加藤隼戦闘隊」であまりにも有名な戦闘機。
武装は最後まで12.7㎜機関砲2門のみだったが、改良型では防弾設備が
施されるなど、最後まで第一線で戦い続けた。別名「大空の狙撃兵」。
ボーイングB29と初めて戦ったのも隼であった。最大速度515km/h(Ⅱ型)


二式戦闘機「鍾馗」(1942年)
上昇力と速度を重視する戦闘機として開発。九七式戦闘機の軽快な動きに馴れた
パイロットには嫌われたが、性能は優秀であった。後に本土でB29を迎え撃って奮戦した。
最大速度605km/h 武装12.7mm機関砲4門他(Ⅱ型)


二式複座戦闘機「屠竜」甲型(1942年)
ドラゴンを葬るという名を付けられた双発の長距離援護戦闘機。
実験では、輸入したドイツのメッサーシュミットBf109戦闘機と互角に渡り合ったが、
実際の戦闘機同士の空中戦では残念ながら不利だった。B29を迎え撃って活躍した。
最大速度540km/h、武装20㎜機関砲1門、12.7㎜機関砲2門他


三式戦闘機「飛燕」Ⅰ型(1943年)
メッサーシュミットBf109戦闘機と同じダイムラーベンツDB605エンジンを
国産化したハ40型を使用した国産液冷エンジン戦闘機。ドイツのエンジン技術
と日本のエンジン技術がマッチしなかったため、最後までエンジン不調に悩まされた。
大戦末期には空冷エンジンに換装した「五式戦闘機」が完成したが時すでに遅く
戦局の挽回はならなかった。急降下で1000㎞/hまで機体が耐えたという逸話がある。
最大速度592km/h 武装20㎜機関砲4門他


四式戦闘機「疾風」(1944年)
「大東亜決戦機」と呼ばれた日本最強になる…はずだった戦闘機。
一個飛行戦隊で、一時期中国大陸の制空権を掌握したといわれる。
ただ、世界最小級の2000馬力エンジンが工作精度の不良で性能が安定せず、
大戦末期には優秀なパイロットも多くが戦死したため、ついには戦いに敗れたのであった。
最大速度624km/h(米軍のテストでは689km) 武装20mm機関砲2門・12.7mm機関砲2門他


爆撃機

地上目標を爆撃し、地上戦闘を有利に導くほか敵本土の戦略爆撃も行う。
日本には軽爆撃機、双発軽爆撃機、重爆撃機、超重爆撃機などがあった。
日本の軽爆撃機は全般に優秀だが、重爆撃機は爆弾搭載量が不足していた。。


八七式軽爆撃機(1927年)
海軍の一三年式艦上攻撃機を改造した軽爆撃機
最大速度185km/h 7.7㎜機銃 爆弾500㎏まで


八八式偵察/爆撃機Ⅱ型(1929年)
偵察機として優秀だった八八式偵察機Ⅱ型を改造したもの。
実用性が高く、多数が配備された。
最大速度210㎞/h、武装7.7㎜機銃2挺・爆弾200kgまで


九三式軽爆撃機(1933年)
八八式の後継機。支那事変では戦術爆撃以外に輸送などにも活躍。
最大速度260㎞/h、武装7.7㎜機銃2挺・爆弾500kgまで


九七式軽爆撃機(1937年)
全金属性の近代的な爆撃機。支那事変、ノモンハン事件での活躍は有名。
最大速度423㎞/h、武装7.7㎜機銃2挺・爆弾400kgまで


九八式軽爆撃機
九七式は三菱だがこちらは川崎の爆撃機。大東亜戦争の香港空襲などで活躍。
最大速度423㎞/h、武装7.7㎜機銃3挺・爆弾450kgまで


ユンカースK37型偵察爆撃戦闘機「愛國一號」 *1931年寄付
満州事変以後の「国難」「危機1934・5年」の声に対し、国民の寄付が陸海軍に集まった。
この寄付金で飛行機などを献納する運動は終戦まで持続。相当数の兵器が国民の寄付で
納入された。ユンカースK37はその第一号機で、国産爆撃機の開発の参考となった。


九三式双発軽爆撃機Ⅰ型(1933年)

九三式双発軽爆撃機Ⅱ型(1937年)
ユンカースK37の構造を参考に製作された国産の双発爆撃機。
支那事変では爆撃のほか、物資の輸送などにも活躍した。
Ⅱ型は引込脚、ドーム型風防を採用したが練習爆撃機として使用。
最大速度260㎞/h、武装7.7㎜機銃2挺・爆弾500kgまで(Ⅰ型)
最大速度280㎞/h、武装7.7㎜機銃2挺・爆弾500kgまで(Ⅱ型)


九九式双発軽爆撃機(1939年)
双発爆撃機としては世界屈指の性能を誇る。ビルマ戦線で高速で逃げ惑う
英軍のM3軽戦車を急降下爆撃の一撃で仕留めたという逸話がある。
大戦末期には瀬能が不足していたが、夜間爆撃など終戦まで活躍した。
最大速度480㎞/h、武装7.7㎜機銃4挺・爆弾800kgまで(Ⅰ型)


丁式二型重爆撃機(ファルマンF60型)*1923年輸入
丁式一型(ファルマンF50ゴリアテ)爆撃機の後継。この爆撃機で最初の爆撃隊が編成された。
最大速度160㎞/h、武装7.7㎜機銃2挺・爆弾500kgまで


八七式重爆撃機(ドルニエDo-N )*1927年
ドルニエに設計してもらった国産爆撃機。「どんがめ」の愛称で親しまれた。
一応夜間爆撃も可能である。
ニュースフィルムに1トン爆弾で大鉄橋を破砕する映像が残っている。
最大速度180㎞/h、武装7.7㎜機銃7挺・爆弾1000kgまで


九三式重爆撃機(1933年)
九三式双発軽爆撃機同様にユンカース式の設計である。
写真とは別に脚にカバーを付けたタイプも存在する。
当時のアメリカの航空雑誌には「装甲付きの脚」と紹介された。
戦前の、のどかな時代に陸軍を代表した軍用機であった。
最大速度220㎞/h、武装7.7㎜機銃6挺・爆弾1500kgまで


伊式一〇〇型重爆撃機(フィアットBR20型)*1937年輸入
支那事変で近代的な爆撃機が不足したため急きょイタリアから輸入した爆撃機。
ドイツにも打診したが、交渉は決裂。イタリアはムッソリーニ首相の好意で輸出許可がおりた。
(ドイツは中華民国にハインケルHe111爆撃機を売りつけている)
爆弾の規格が違うなどトラブルも頻発して評判が悪かったが、ノモンハン事件にも参加した。
最大速度430㎞/h、武装20㎜機関砲1門・12.7㎜機関砲2門 爆弾1000kgまで


九七式重爆撃機(1937年)
九三式の次の爆撃機として開発中に支那事変が発生し、代役のBR20の輸入となった。
完成後は高速の重爆撃機として中国大陸を縦横無尽に活躍した。
なお、海軍の九六式陸攻とともに中国大都市を戦略爆撃した。
大戦末期には旧式化したが、防弾設備を施すなど改良され最後まで使われた。
最大速度478㎞/h、武装13㎜機関砲1門・7.7㎜機銃5挺・爆弾1000kgまで(Ⅱ型)


百式重爆撃機「呑龍」(1940年)
戦闘機を振り切る高速重爆撃機として開発。運動性も良かったが、
肝心の爆弾搭載量が少なく、残念ながら爆撃機としては評価が低い。
ポートダーウィン空襲などで活躍したほか、国民の前に公表された。
最大速度490㎞/h、武装20㎜機関砲1門・7.7㎜機銃5挺・爆弾1000kgまで


四式重爆撃機「飛竜」
大戦末期に開発された陸軍最良の爆撃機。宙返りもできる運動性能を誇る。
抜群の性能に注目した海軍は「靖国」の名前で採用。
陸軍も雷撃を海軍から習って使用した。
飛竜に八八式高射砲を搭載した「キ-109」防空戦闘機まで作られたが、
それは願望と狂気のかたまり以外では無かった。本土決戦に備え温存。
最大速度537㎞/h、武装20㎜機関砲1門、13㎜機関砲4門・爆弾800kgまで/ 航空魚雷1本


偵察機

敵情を偵察するほか、軽易な攻撃も行う。軍用機の中の基本的な機種


乙式一型偵察機(サムルソン2A-2)*1919年
日本最初の偵察機。満州事変のとき旧式化していた乙式をなんとか実戦で
活躍させようと、担当者が「乙式は泣く」という嘆願書を上申したという。
最大速度182㎞/h、武装7.7㎜機関銃2挺・爆弾60kgまで


八八式偵察機Ⅰ型(1928年)
国産の優秀な偵察機。長きにわたり使用された。
最大速度218㎞/h、武装7.7㎜機関銃4挺・爆弾200kgまで


九二式偵察機(1932年)
近距離偵察用の軽快な偵察機。支那事変でも使用。
最大速度220㎞/h、武装7.7㎜機関銃4挺・爆弾


九四式偵察機(1934年)
軽快な運動性は戦闘にも劣らないと言われた。支那事変で活躍。
最大速度300㎞/h、武装7.7㎜機関銃4挺・爆弾


九八式直接協同偵察機(1938年)
地上部隊に直接共同する万能機として開発。地味ではあるが各地で活躍した。
最大速度349㎞/h、武装7.7㎜機関銃2挺・爆弾250kgまで


九九式軍偵察機/襲撃機(1939年)
九九式襲撃機と同一の機体。偵察設備のあるなしのみが異なる。
偵察と地上支援に活躍した。
最大速度424㎞/h、武装12.7㎜機関砲1門・7.7㎜機関銃1挺・爆弾250kgまで


九七式司令部偵察機(1937年)
今日の戦略偵察機に相当する機種。敵戦闘機を振り切る活躍はあまりに有名
朝日新聞社の欧州訪問を果たした神風号も九七式の試作機だった。
最大速度510㎞/h、航続距離2400km 武装7.7㎜機関銃1挺


一〇〇式司令部偵察機「新司偵」Ⅱ型
九七式司令部偵察機の後継機。連合軍の第一線戦闘機を振り切って偵察を行った。
「地獄の天使」の異名で呼ばれ、本機が来襲すると必ず空襲があると恐れられた。
末期には機関砲を搭載して「一〇〇式Ⅲ型戦闘機」と呼ばれた機体もあった。
最大速度604㎞/h、航続距離4000km 武装7.7㎜機関銃1挺(Ⅱ型)


襲撃機

地上目標、特に機甲部隊をせん滅するのが任務

実用機は九九式襲撃機のみ
(九九式偵察機を見よ)


練習機

パイロット育成のために欠くべからざる存在。レベルに応じた機種がある。


モーリス・ファルマン機
日本の航空は、すべてここから始まった。




己式一型練習機(アンリオDH14)*1923年
最大速度118㎞/h。九五式ができるまで使用。


九五式練習機Ⅰ型

九五式練習機Ⅱ型

九五式練習機Ⅲ型
日本陸軍の代表的な練習機。1935年以降多くのパイロットを育てた。
Ⅰ型は中間練習機 最大速力240㎞/h
Ⅱ型は機上作業練習機 最大速力245km/h
Ⅲ型は初歩練習機 最大速力174㎞/h


九九式高等練習機(1939年)
九八式直接協同偵察機から発展した練習機。様々な高等飛行も可能であった。
最大速力349km/h 7.7㎜機関銃1挺


一式双発高等練習機(1941年)
九五式Ⅱ型の後継。練習機に留まらず万能機として活躍した。
最大速度367㎞/h 武装7.7㎜機関銃4挺 爆弾最大800kg


輸送機

第2次世界大戦まではあまり重要視されていなかった。
輸送機(=補給線)のあるなしが勝敗を分けたと言える。
日本軍は物資の空中投下など、支那事変で多くを学んだはずだったが…


三菱MC20型(百式輸送機の民間型)
原型は九七式重爆撃機。陸軍型が百式輸送機で上方に銃座があった
最大速度430km/h、航続力1500km 乗客11名


オートジャイロ

ヘリコプターの前身で、上のプロペラで舞い上がり、胴体のプロペラで推進する


ケレットK3型(愛国82号)*1933年輸入
最大速度176km/h 朝日新聞社が輸入し陸軍へ献納


カ号Ⅱ型観測機
萱場製作所が開発したオートジャイロ。陸軍空母あきつ丸の艦載機として
対潜爆弾を搭載し、船団護衛任務に当たった。本来は砲兵用の観測機である。
最大速度165km 武装 爆弾1(機関銃1)


白兵/携行火兵
火砲(歩兵砲/速射砲/迫撃砲/野砲/山砲/野戦重砲/重砲/高射砲および防空兵器
車輌(戦車/装甲車/装甲自動車/牽引車/乗用車/自動貨車/特殊車輌/鉄道兵器
軍用機(戦闘機/爆撃機/偵察機/襲撃機/練習機/輸送機/グライダー/オートジャイロ)


2009年/2669年ⓒ平和ミュージアム旧日本陸海軍博物館