別館 海軍主要軍用機写真館

*写真は全て大日本帝国海軍省公表写真(無断転載厳禁)

なお、各機種の詳細な解説は、市販の良書を参考にしてください。
管理人の私見もありますが、海軍機関連はファンも多いので各自の価値観が優先すると判断します。

戦闘機(艦上戦闘機・水上戦闘機・局地戦闘機・夜間戦闘機)
爆撃機(艦上爆撃機・陸上爆撃機)
攻撃機(艦上攻撃機・陸上中型攻撃機・陸上大型攻撃機)
偵察機(艦上偵察機・陸上偵察機・水上偵察機・水上観測機)
飛行艇/練習機/特種飛行機(グライダー等)


攻撃機(艦上攻撃機・陸上攻撃機)
日本海軍の爆撃機は基本的に急降下爆撃機のことであり、艦上爆撃機と大戦末期の陸上爆撃機がある。
なお、通常の水平爆撃を行う機体は全て攻撃機の分類となる。外国文献では便宜上、双発の爆撃機・攻撃機を一括して爆撃機にしている。
雷撃機として、魚雷を搭載した艦上攻撃機の発想は、日本の中島知久平によるアイディアである。
優勢なアメリカ艦隊への対抗策の答えが航空雷撃であった。それがどのように発達し、どのような結末を迎えたか?運搬手段から考えてほしい。

艦上攻撃機

十三年式二号艦上攻撃機
日本最初の実用艦上攻撃機で、活躍期間は長く支那事変まで使用された。陸軍の八七式軽爆撃機の兄弟分である。
第一次上海事変で護衛の無い中を敵中に突入した同機の一隊が全滅する悲劇もあった。
最大速度190㎞/h、機銃2、爆弾240kg×2か航空魚雷1


八九式二号艦上攻撃機
十三年式の後継として開発されたが、なぜかあまりぱっとしない性能だった。写真は支那事変初期特有のグレー塗装が施されている。
最大速度213㎞/h、航続距離1778km、武装:機銃2(固定、旋回)、爆弾800kgか航空魚雷1


九二式艦上攻撃機
八九式と同時並行で十三年式から発展した攻撃機。支那事変初期に活躍した。性能は安定したが全般に旧式だった。
最大速度213㎞/h、武装:7.7㎜機銃2(固定1・旋回1)、爆弾800kgか魚雷1


九六式艦上攻撃機
十三年式がいい加減に旧式化し、九二式も時代遅れとなる中、複葉艦上攻撃機の決定版として開発された。
空冷の「光」エンジンを採用。安定した性能もさることながら、速度が向上したので生存性が増す結果となった。
支那事変で大活躍したほか大東亜戦争初期も護衛空母の対潜哨戒機としても使われた。
最大速度278㎞/h、航続距離2000km、武装:機銃2(固定、旋回)、爆弾800kgか航空魚雷1


中島 九七式艦上攻撃機一一型(一号)

中島 九七式艦上攻撃機一二型(三号)

九七式艦上攻撃機
九六式で挽回した艦上攻撃機の価値をさらに高めるべく、全金属で引込脚を採用した野心的な設計が中島の九七式である。
最大速度はさらに100kmも向上し、十三年式のほぼ倍の速度となった。それだけ、敵艦船側の対処が難しくなったということでもある。
光エンジンの一号(一一型)、栄エンジンの三号(一二型)が中島製で、一二型が大東亜戦争初期から中期の主力である。
真珠湾攻撃での活躍は言うまでも無い。大戦中期以降は、敵艦隊の防空能力が飛躍的に向上したため損害も激増した。
12型 最大速度378㎞/h、航続距離2000km、武装:機銃2(固定、旋回)、爆弾800kgか航空魚雷1

三菱九七式二号艦上攻撃機(九七式艦上攻撃機六一型)
同じ九七式艦上攻撃機でも三菱が作ったものは固定脚で、金星発動機という別物であった。性能は別に劣るものではなかったが、
整備の問題などもあり、第二線部隊で使用され、これといった成果を上げる前に旧式化した。





艦上攻撃機「天山」一一型

艦上攻撃機「天山」一二型

艦上攻撃機「天山」
九七式艦上攻撃機の発展型として、速力の増大・航続距離の増大・武装の強化・防御の向上などあらゆる点を改良した。
エンジンは初期(11型)に「護」エンジンを使用したが、信頼性が足りず、火星エンジンに換装した。これが12型。
昭和18年末から戦線に登場したが、たび重なる消耗戦でパイロットの練度は低下の一方であり、
何度も言うように米艦隊の防空能力が飛躍的に向上したため、この性能向上でも戦局打開には寄与できなかった。
彗星や銀河がアメリカ空母を撃破した例は多いが、残念ながら天山の雷撃で沈んだアメリカの大型艦船は一隻も無い。
雷撃術の問題のほか、味方護衛戦闘機の援護不十分で、十分な攻撃隊がアメリカ艦隊に到達できなかったからであろう。
数値性能はアメリカ海軍TBFアベンジャー攻撃機より優れており、イギリスは問題外であるから、世界一の高性能ではあった。
最大速度481㎞/h、航続距離3000km、武装:機銃2(固定、旋回)、爆弾800kgか航空魚雷1


陸上攻撃機


九五式陸上大型攻撃機
軍縮条約で、海軍艦艇の建造に大きな制限を加えられた日本海軍は、其の劣勢を補うべく航空機に注目。
太平洋に点在する日本領をなどを拠点に、洋上はるかを進出し、敵艦隊を攻撃する中型の爆撃機を開発した。
これが「陸攻」と呼ばれる一連の軍用機である。最初の九三式陸攻は空母から発進する艦上重爆撃機だったが、
九五式大型陸上攻撃機は最初から陸上基地からの運用を前提に設計された長距離爆撃機である。
速度が若干遅い他は搭載量も大きく十分な性能と思われたが、より高性能な九六式の完成で少数生産で終わった。
最大速度244㎞/h、航続距離2883km、武装:機銃4(旋回)、爆弾1600kg




九六式陸上中型攻撃機一一型

九六式陸上攻撃機二二型

九六式陸上攻撃機二三型

九六式陸上攻撃機
もともと、長距離偵察機として開発がすすめられたが、高性能だったので中型攻撃機として採用された。
支那事変の初期に、台風下の海を越え敵首都南京を空襲して全世界をあっといわせる活躍をした。
航続距離も延々4600kmに達し、世界最初の戦略爆撃機ともいえよう。
また、最初は速度も現用戦闘機より速いため、戦闘機不要論さえ公然と主張される有様だった。
支那事変の航空戰では護衛無しで敵地に侵入した九六式陸攻が戦闘機に、高射砲に相当な損害を受け、
過酷な航空戦の現実を日本側に示したのであったが、長距離護衛の零戦が配備されたほか、防弾などは考慮されなかった。
また、本機の任務の一つである敵艦隊撃滅のため魚雷も装備され、大東亜戦争緒戦のマレー沖海戦で見事戦果をあげた。
大戦中期以降は旧式化したが、船団護衛や対潜哨戒に活躍した。
最大速度350㎞/h、航続距離4600km、武装:20㎜機銃1・機銃4(旋回)、爆弾1000kgか魚雷1



一式陸上攻撃機一一型

一式陸上攻撃機一一型


一式陸上攻撃機三四型:大戦末期、動員された婦人連の力で移動される様子。まさに戦争末期である。

一式陸上攻撃機
九六式陸攻が成功したため、同じコンセプトであらゆる意味で九六式を上回る機体として開発された。
エンジンも当時最強の「火星」11型1680馬力を採用。翼の構造材すら燃料タンクの一部とするなど、
大量の燃料を搭載し、最大6100kmというとんでもない航続距離を実現した。
敵戦闘機への答えとしては、胴体後部に20㎜機銃を最初から装備し、弱点であった機首にも機銃を装備。
最大速度も時速444km/hに向上ている。しかし、航続距離を得るために燃料搭載スペースを極限まで広げ、
それに対する最低限の防御を怠ったため、一撃で炎上するという致命的な弱点が生まれた。
大東亜戦争初期には制空権もあり、敵防空砲火も緩慢だったため、たいした被害も出なかったが、
アメリカが本気になったガダルカナルを巡る一連の戦いでは空中戦で甚大な被害を被った。
あわてた海軍はそこから炭酸ガス消火装置や燃料タンク用耐弾ゴム装備、武装の強化などを図った。
しかし、ようやく十分な改良がくわえられた型が戦場に出る頃には、優秀なパイロットは戦死し、制空権も敵側に在り、
味方の護衛戦闘機をつけることも難しくなっており、雷撃機としては夜間の運用がなされるようになった。
(昭和18年頃から夜間雷撃で一式陸攻は一定の成果を上げている。状況、性能、運用がマッチしたからであろう)
また、おおきな胴体を活用して神雷部隊のロケット特攻機「桜花」の母機としても使用された。
大戦末期の一式陸攻の活躍としては、サイパン島のB29基地への襲撃がある。大きな航続距離を見込まれ、
多くの犠牲を払いながら、日本本土を火の海にせんとするB29を地上で焼き払うために出撃を重ねた。

同時期の陸軍爆撃機は燃料タンクはもちろん、搭乗員に対しても防弾ガラスや防弾装甲など不十分ながら
一応の対策は実施済みであった。九七式戦闘機すら防漏燃料タンクを装備していた。海軍の対策は遅きに失し、
人命の損失が戦力の低下というさらなる悪循環を生んだ。軍艦でも飛行機でも少数精鋭で相手を圧倒しようとするならば、
精鋭の根本である人間の力をどう生かすかが重要ではなかったか?
東郷元帥の言った人間の力が戦果につながると云う金言はどうやら昭和の海軍には伝わっていなかったようである。

最終型の三四型 最大速度456㎞/h、航続距離4452km、武装:20㎜機銃4・13㎜機銃1(旋回)、爆弾1000kgか魚雷1


戦闘機(艦上戦闘機・水上戦闘機・局地戦闘機・夜間戦闘機)
爆撃機(艦上爆撃機・陸上爆撃機)
攻撃機(艦上攻撃機・陸上中型攻撃機・陸上大型攻撃機)
偵察機(艦上偵察機・陸上偵察機・水上偵察機・水上観測機)
飛行艇/練習機/特種飛行機(グライダー等)
*区分は昭和18年当時の海軍省公表の分類に準じた。


2009年/2669年?平和ミュージアム旧日本陸海軍博物館