別館 海軍主要軍用機写真館

*写真は全て大日本帝国海軍省公表写真(無断転載厳禁)

なお、各機種の詳細な解説は、市販の良書を参考にしてください。
管理人の私見もありますが、海軍機関連はファンも多いので各自の価値観が優先すると判断します。


戦闘機(艦上戦闘機・水上戦闘機・局地戦闘機・夜間戦闘機)
爆撃機(艦上爆撃機・陸上爆撃機)
攻撃機(艦上攻撃機・陸上中型攻撃機・陸上大型攻撃機)
偵察機(艦上偵察機・陸上偵察機・水上偵察機・水上観測機)
飛行艇/練習機/特種飛行機(グライダー等)
*区分は昭和18年当時の海軍省公表の分類に準じた


戦闘機(艦上戦闘機・局地戦闘機・夜間戦闘機)

艦上戦闘機

一〇年式艦上戦闘機
国産初の海軍戦闘機だが、原設計は英国である。陸軍の甲式三型・四型戦闘機に匹敵する


三年式艦上戦闘機
空母「鳳翔」から発艦する三年式艦戰。
これも原型は英国だが、昭和7年の第一次上海事変で上海上空にて米国パイロットの駆る中国軍戦闘機と空中戰を交え、
見事に撃墜した。近代空母から発進した艦載機が陸上機を圧倒した初の例である。



中島九〇式艦上戦闘機
ようやく完全国産された艦上戦闘機。時速300㎞/hに接近し、陸上の戦闘機と遜色ない性能を示した。
支那事変では旧式となっていたが、上海救援に向かった空母「加賀」艦載機などが中国軍と交戦した。



中島 九五式艦上戦闘機
九〇式艦戰から発展した複葉艦上戦闘機で、当時世界最優秀クラスだった。
同じ複葉でも陸軍の九五式戰は時速400km/hであったが、こちらは350km/hに甘んじた。
これは艦載機としての制約のためある意味止むを得ないものであった。
そんな艦上機のハンデを克服し支那事変初期の空中戦では中国軍最新戦闘機を駆逐しえた。



三菱 九六式一号艦上戦闘機

三菱 九六式二号艦上戦闘機
零戦の基礎となった戦闘機であり、全金属で低翼単葉という時代の先端を行くデザインが著名な戦闘機。
何が凄いかといえば、陸上機に比べハンデのある艦上機の分野で、初めて陸上戦闘機を圧倒する高性能を実現したことである。
其のハンデとは、強度であり、限られたスペースで整備をするためのあらゆる工夫と装置であり、最低限必要な艤装である。
このため、どうしても同じ条件下では何かが劣るのが通例であった。
九六式艦戰は、そもそもを優秀な戦闘機の一点に絞って開発し、小型故に空母に収まるという結果となった。
当時、世界最新鋭の艦上戦闘機は英国のグラジュエーターであるが、
これは複葉であり制約の多い=保守的な設計を要求される艦載機ではあたりまえの姿であった。
しかし、その当たり前は革新的な九六式戰の性能に敗れ去った。
最大のライバルは同じく先進的な設計でより進んだ引込脚を備えたソ連のポリカルプI16であるが、
速度で劣るものの軽量かつ洗練された設計による旋回性能に物を言わせ、ほぼ完勝であった。
大東亜戦争初期も海軍の戦闘機として第一線にあったが、陸軍の九七式戰程長くは使われなかった。
一号:最大速度405km/h、四号:最大速度435km/h、武装:7.7㎜機銃2、爆弾30kg×2、航続距離1200km



海軍館に展示された「片翼の樫村機」
九六式艦戰で最も有名なエピソード:
支那事変に於いて大空の勇者・樫村海軍兵曹長が操る九六式一号戦闘機は、激戦の末、
中国空軍のカーチス戦闘機に翼をぶつけて撃墜し、見事、片翼のまま生還を果たした。
最近の研究によれば、中国空軍が体当たりをかけたとの説もあるが、勇敢な樫村機の伝説は揺るがない。


三菱 零式艦上戦闘機二一型(零戦二一型)

三菱 零式艦上戦闘機三二型(零戦三二型)

ラバウル基地の零式艦上戦闘機二二型(零戦二二型)

零式艦上戦闘機五二型(零戦五二型)
説明不要な程有名な第二次世界大戦を代表する戦闘機であり、世界最強のと呼ばれて久しい戦闘機である。
今更乏しい説明も不要だが、時速533㎞/hを発揮し、艦上機として、同時期のあらゆる陸上戦闘機を圧倒する性能を持っていた事は事実である。
また、最大の特徴は航続距離が長い事で、3500kmという記録もあるが、作戦半径1000kmが可能な戦略的な戦闘機であった。
武装は、機種上面に7.7㎜機銃2、翼の中に20㎜砲を装備しているが、これは支那事変で交戦したブレダ27やイ16からインスピレーションを得たと思われる。
もっとも、20㎜砲といえば聞こえはいいが、弾道が安定しない短加農であり、60発しか発射できない(後に改良)ので効果を疑問視する意見もある。
それはさておき、改良が重ねられ終戦まで第一線で活躍したが、ベテランパイロットの戦死後は、戦法の問題、パイロットの練度低下、
敵機の性能向上、改良の限界などなどの要因が相まって、互角以上の戦いは困難を極めた。終戦の空まで出撃は続いたのである。

なお、同時期の陸軍一式戦闘機「隼」と比較し、零戦があらゆる意味で圧倒的に優れていたかのような記述が多く散見されるが、
いずれも戦後の海軍側著作に端を発するものであり、それぞれの開発背景や実績を無視した感情論であるとさえ言えよう。
「隼」は20㎜砲も無ければ、洋上飛行に必要な装備も劣り、開発も手まっどた上で初期型が時速500㎞を越えられななかったが、
反論として、機首上面に2挺の13ミリ銃を装備し、射弾が非常に集中していること、最初から対弾燃料タンクを装備し、最後まで防弾設備が充実していたこと、
そもそも、陸軍燃料のオクタン値は87(支那事変のころはもっと低かった)で海軍の92と対等な比較ではないこと。
第一、改良を重ねても本来の能力である格闘性能は殆ど損なわれなかった事。などが今日、研究者から指摘されている。
何も身内の陸軍機をけなして優秀だとほめそやすよりも、そもそもがハンディのある艦上機の分野で立派な性能を出した事を評価すべきで、
反面、防御を犠牲にして下士官兵の優秀なパイロットをむざむざ死に追いやった海軍の伝統的な差別制度こそ大いに批判すべきである。

11型:零戦最初の量産型。支那事変で中国空軍を圧倒した。エンジンは栄11型
21型:11型の翼端50㎝を折りたたみ可能にした初期の生産型。零戦といえばまずはこの二一型。昭和16年末にはほぼこの型式。
32型:21型の翼を詰めてみたら、速度が向上し、生産性が上がったので制式採用された。エンジンは栄21型
22型:32型では燃料タンクの容量が確保できなかったのでまた21型のように翼を大きくした。昭和18年頃の主力。
22型甲:機銃を長銃身の九九式2号20㎜機銃に代えたもの。
52型シリーズ:翼を短くし、端を円形とし、武装も13ミリ銃の装備(52型丙はさらに追加)・防弾・エンジン以外のあらゆる部分をリファインした。
昭和19年ころから前線に登場したが、エンジンは1130馬力の栄21型のまま、防御は不十分なままでは末期の過酷な状況に対応しきれなかった。
52型:上の特徴に加えカウリングにから排気をジェット式に導き速度向上を図った。以降共通。昭和18年末に登場。
52型甲:外板を強化し、最大急降下速度を740㎞/hまで堪えれるようにした。
52型乙:前面ガラスに防弾を取り入れ、上面機銃のうち一つを13㎜機銃に替えた。
52型丙:52型の最終型。左右の翼の外側に13㎜機銃を装備、防弾タンクまで装備したが機動力は低下した。昭和19年末に登場。
53型:エンジンを栄30型系列に代えエタノール噴射装置で瞬間的な速度増加をねらった。
63型/62型:52型丙系列の零戦に、爆撃・特攻用に500kg爆弾を装備できるようにしたもの。
54型/64型:エンジンを金星54型に換装、防弾を完備した最後の零戦。試作に終わった。
零式練習戦闘機11型:二人乗りの練習用零戦
零式練習戦闘機22型:栄21型の練習零戦。
30ミリ零戦:零戦に試験的に30ミリ機銃を装備したもの。ラバウルでは好評だったが、その後続かなかった。
零戦偵察型:大戦末期のラバウル基地で破壊された零戦の残骸を組み合わせて再生したもの。
偵察用に二人乗りに作られた。国立科学博物館に展示されている。
再生零戦:上記のほか、ブーゲンビルで22型を再生した。
ラバウルでは最大10機の再生零戦と、九七式艦上攻撃機、残存偵察機で空中戦まで行った。
零夜戦:零戦52型に20㎜斜め銃を装備し、下からB29を狙った。少数改造。
零戦四二型:高高度飛行のため排気タービンの試験をした。
中島零戦/三菱零戦:生産工場で微妙に形状が異なる。カウリングの形などで見分ける。


それでも最後の最後まで海軍航空隊は零戦が主力であり、
怪しげな性能の雷電、紫電、数が足りない紫電改、完成しても時代遅れだったろう烈風etc.代わるべき飛行機を欠いた故の悲劇であった。
その最大の責任は無定見な開発指示を連発した海軍省と海軍航空本部、つまり海軍そのものにある事を忘れてはならない。


水上戦闘機


中島 二式水上戦闘機
(零戦二一型を水上戦闘機化したもの。ソロモン諸島やアリューシャン列島の防空戦でよく活躍した)

局地戦闘機



三菱 局地戦闘機「雷電」
雷電は戦闘機の任務の一つである追撃に絞って開発された局地戦闘機である。
艦上戦闘機である零戦と違って艦上機故の制約は無いが、あまりに零戦が優秀すぎて性格的な位置づけがあいまいなったのが
雷電の悲劇の幕開けであった。(零戦は陸上で十二分使え、しかも爆撃機とも十分渡り合った)
いきおい、零戦より大馬力大重量大武装の戦闘機とならざるを得なかったが、零戦という奇跡のような万能戦闘機の能力に比べると
視界や着陸性能、格闘性能などでは「不十分」とされてしまった。しかも、爆撃機用のエンジンを装備し、速度性能を上げるためにカウリングを細くして
冷却能力が不足した上、エンジンの軸を伸ばしたため振動が発生する等設計上のミスも後になってから判明する始末だった。
それだけ未知の技術的な挑戦をしたわけではあるが、同じコンセプトの陸軍の「鍾馗」が実用化なった後も延々と改修を続け、
ついに完成したあとも性能が安定せず、生産数は制限される状況だった。それでも一部の部隊では雷電を使いこなし、相応の戦果をあげている。
なお、武装が20㎜機銃4というのが当初の売りだったが、海軍では後から開発して雷電以上に量産された「紫電」が同じ武装であるし、
何より陸軍の「飛燕」も同じ武装で、しかも早期に実戦参加をしている。
肝心の上昇力と速度もB29は高高度で飛来するためソ連のSB2など中高度を目標とした雷電では荷が重過ぎた。
海軍公表のプロパガンダフィルムでは爆音を響かせ勇壮に飛び上がる姿が勇ましい姿を今に残している。
このデザインと日本人離れした余裕ある操縦席から、テストした欧米人から特に優れた評価を得たこと雷電の名誉のため付け加えておく。
雷電二一型:最大速度612km/h、武装20㎜機銃4、航続距離1715㎞



川西 局地戦闘機「紫電」一一型(推定)
*海軍の新鋭機公表は大戦末期であり、紫電/紫電改が公表された形跡はない。これは偶然、望遠で写ったもの。
紫電は水上戦闘機「強風」から発展した局地戦闘機で、ゴンドラ式20㎜砲を装備する等ユニークな戦闘機だった。
陸軍の「疾風」が装備した「誉」をエンジンを頼って性能を確保しようとしたが、計画650km/hに対し、せいぜいが580㎞/h、
しかも、中翼で翼への引込脚のため、複雑な脚の整備が事故を招き、訓練などに影響を与え活動を制限した。
台湾沖航空戰などから実戦に参加し、時にはグラマンと間違われながらも頑張った。
後に、翼を改めて低翼にした「紫電改」が開発され、生産はそちらにシフトした。
性能的にはグラマンF6Fに匹敵する上、必殺装備の自動空戦フラップで、
格闘性能も優れたものが期待されただけに余裕のある時期に何とか実現してほしかった。

夜間戦闘機

ラバウルで撮影された「月光」

中島 夜間戦闘機「月光」
本土防空に向かう「月光」。『醜翼』とは「超・空の要塞B29」である

昭和20年8月15日まで、日本と連合国は戦争をしていたのであり、日本本土上空もまた戦場であった。
月光はもともと双発の長距離戦闘機として開発され、当初は「二式陸上偵察機」として配備されたが、
ラバウルでひとたび20㎜斜め銃の有効性が証明されるや、夜間戦闘機として転用され活躍した。
B17には有効な戦闘機だったが、成層圏すれすれを飛行するB29には苦戦を強いられた。
エンジンは零戦と同じ栄21型を2基装備、最大速度504㎞/h、武装20㎜機銃上下各2計4門、航続距離3450㎞


戦闘機(艦上戦闘機・水上戦闘機・局地戦闘機・夜間戦闘機)
爆撃機(艦上爆撃機・陸上爆撃機)
攻撃機(艦上攻撃機・陸上中型攻撃機・陸上大型攻撃機)
偵察機(艦上偵察機・陸上偵察機・水上偵察機・水上観測機)
飛行艇/練習機/特種飛行機(グライダー等)
*区分は昭和18年当時の海軍省公表の分類に準じた。


2009年/2669年?平和ミュージアム旧日本陸海軍博物館