アグリコ日記

2004年5月10日(月) 雨
春の雨は、頑張らなくてもいいと言っている。
やっと雨が降った。
今年の春は極端な天候が続く。
何週間も一滴の雨も降らず心配になるほど地面が乾燥するかと思えば、一旦降れば土砂降りだ。
今日は2週間ぶりの雨。これでやっと体を憩めれる!

ここのところ仕事のことで頭が一杯で心に余裕が無いようだ。こういう時は始終緊張しているので疲れも溜まり気味。
夕方食事をする頃になると身体がグダッとなってしまって、パソコンを開いてもホームページの日記を打つ気にもなれないし、blogも更新できないでいる。(私のblogはHPの日記を抜粋して転載している。)

そうだな、これじゃあ生活が楽しくないし、過労が続いてまたぎっくり腰になってしまう。
よし、発想を変えよう!

確かにこの春農作業はかなり遅れている。春先から近所の頼まれ仕事が立て続いて自分のことに時間を割けなかったのが原因だ。この冬に長年いた居候が家を出たので人手不足になったこともある。
このままではいつまで経っても代掻きも田植えもできないという危機感があってつい自分の身体にムチ打ってしまうけれど、そんなことを考えていたんじゃスーパーマンにでもならない限り早晩身体の方が参ってしまう。辛い辛いと思っていると心も沈み、生き方も暗く閉鎖的になる。

さあ、もう頑張るのはやめよう!
田植えが1週間10日遅くなったって良いじゃないか!
後から振り返って何ほどでもなかったことでもその時は過大に大きく見えて心を苦しめるものだ。

今ここで猫たちと、犬や鶏、近所の人たちみんなと楽しく暮らす方がずっと価値がある。

私はそういう生き方を選んだんだということを今日またかろうじて思い出した。

2004年5月5日(水) 晴れ
火坊祭
ドン、ドン、ドン、ドン・・・
今日は我が集落、芦沢のムラ祭り。
ドン、ドン、ドンツクドン・・・
「火防災」と言う。何でも70年ほど前にこの部落で大火があり、家が6軒全焼したそうだ。防火設備も消防組織も現在のようにはなかった時代にそれはこの山間の小さな集落にとって一世一代の大惨事であり、人々に大きな悲劇と悲しみをもたらした。
その教訓を忘れまいと、以来絶えることなくこの部落挙げてのお祭りは毎年開かれる。
もっとも土地の古老によるとムラ祭り自体はそれ以前にもあったというから、大火事がきっかけとなり「火防災」という名前が付けられたということなんだろう。この日には芦沢30戸と近隣の何軒かが総出で祭りに参加する。
ドン、ドン、ドン、ドン・・・ピーヒャラリーーー・・・
太鼓に笛の音が加わり、行列は神社の社の前で車座に広がる。
獅子頭が大きな口を開けて虚空を噛む。
ピーヒャラヒャラリーーピーヒャラリーー・・・
神楽舞が桜の花散る皐月の空に風を呼ぶ。人々に大いなる悲しみをもたらした災いよ、二度と無かれとの皆の願いはこの時天に届く。

そして祭は終わり祝宴が始まる。
ワイワイ、ガヤガヤ・・・マア、飲めや!
あぁ、今日はまた楽しかった。(すっかり酔っている。)
この祭り、私の生きている間はずっと続けたいものだなぁ。

2004年4月30日(金) 晴天まるで夏のよう
菜の花そば
菜の花を大鍋に山盛り煮込み、それを汁にしてそばを食べる。
薬味のアサツキはみじん切りにして最後に振り掛ければいいんだろうけれど、面倒くさいので菜の花と一緒に煮込んでしまう。
春の定番、菜の花そば。そば好きの私は毎日食べても飽きない。
今日も幸せな気持ちで菜の花そばを食べてる時に、ふと気がついた。
今の時期もし他のものを食べるとすれば、何があるだろう?
今畑にはあまり食べるものがない。冬越しの野菜はみんなトウが立ってしまった。野原に出てもフキにはまだ早いし、タラノメなどの山菜はもう少しだ。
何だ、これしか食べるものがないんじゃないか。
でもいい。これしかないと思って食べてるんじゃなく、これが最高と思って食べれるんだから。
コンフリーやフキが驚くほど早く成長している。昨日草原でワラビを見つけた。水芭蕉が綺麗に咲いている。(なぜか我が家の家周りの側溝に水芭蕉がある。)今この集落では桜が満開だ。
今日先日のジャガイモに続いて春2回目の種蒔きをした。
エンドウ、花豆、ゴボウ、人参、ブロッコリー、ちりめんちしゃに食用ひまわり・・・。今年は独り暮らしになったので畑の面積も作る種類も大幅に減らした。とりあえず自分ひとり食べる分ならば、両手ですくえるほどの種の量だけで間に合う。この僅かな種が、私の一年分の食糧になる。
今日から当分は天気が良いらしい。さあ、これから暫くは私の仕事日和だな。

ミーコとその子供のヤマト。
2004年4月29日(木) 晴れ
人生の春
人間は誰もがたくさんの可能性を持っているというし、現実の生活では持っている能力のほんの少ししか使っていないとも言う。このことの解釈は人それぞれだけど、ひとつの試みとしてちょっと発想を転換させてみよう。このように思ったらどうだろうか。
 
もともと誰でも年齢にかかわらずたくさんの能力を持っていて、必要なときに自由に発現することができる。でも、もし自分の中にその能力の発現を遮るものがあれば、その能力を引き出すことはできない。
例えば自分は無能だと思っていたり、こんなことできるはずがないと思いこんでいたり、本当は今のままが良くて何も変化しない方が良いと思っていたり、、、。
もしそうならば、まず自分自身の中の能力の発現を遮っているのが何かを捜し当てれば、これからは今自覚していないたくさんの能力を引き出すことができて、自分の可能性はずっと広がりより自由に生きれる。
 
畑にいるとそんなことを思いついたりする。なんか毎日気づくものがたくさんあるような気がする。そんなことの積み重ねで、なんだか以前よりずっと自由に楽しく生きていけてる気がする。

今人生の春なのかもしれない。
春、これからの一年どのように畑を作ろうか、実を収穫しようかと心の中であれこれと思案したりして・・・楽しいなあ。

生まれて1週間のひよこたち。
2004年4月28日(水) 雨
雨の日の出来事
今日またひよこが死んだ。
昨日からの大雨の余韻で今日も今朝から雨模様だった。この時期としては珍しく、堰は氾濫寸前で田んぼは湖のようになっていた。
これでは野外での仕事ができない。この機会に冬の間から作り続けてきたホームページを完成させてしまおうと、今日は一日中パソコンとにらめっとしていたのだった。
さて夕方餌を持って鶏小屋に行ったら、何か黒いものが餌箱にぶら下がっている。
それがひよこの亡き骸だった。
餌箱の作りは自分なりに一工夫していて、小屋の中からでも外からでも人間が開閉できるようになっている。わざわざ扉を開けなくても外にいたまま給餌できる仕組みである。
それが最近頭の良い鶏がいるもので、放し飼っている戸外から餌箱の縁に足をかけて自分の重みで蓋を押し開き、箱を外に開いて餌をついばむ鶏が出てきた。
あわれひよこはちょうど餌箱に体ごと入って食事している最中だったのだろう。突然閉じた箱に逃げようとした足を挟まれ、恐らくは外の鶏の重みで足は骨折、そのまま半日間宙吊りになった末死んでしまったのだろう。
なんて簡単に死んでしまうものなのだろう。やっとすずめよりも一回り大きくなって今朝まで元気に跳ね回っていたのに。あと一週間もすれば母鶏と一緒に外に出せるかなと思っていたところだったのに。
もしかして生き返らないかと、一晩だけ死体を小屋の隅に置いておくことにした。いつ死ぬともわからない命。
私も、お前たちも。

  
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