AGRICO日記

2004年3月31日(水)
今日、ハンバーガー・ショップでナニが起こったか!

今日はなんと、ハンバーガー・ショップに行ってきた。
などと言っても、一般的な日本人ならば「何を言ってるんだ?」と思うに違いない。俗世間を遠く離れたような生活をしている(もちろん冗談です!)私にとって、ファスト・フードの代名詞である店に入ることは、そうあることではない。
実は自動車工場で軽トラの点検をしている間の待ち時間に、町のバーガー店に久しぶりに入ってみる気になったのである。
ワクワク・・ドキドキ・・・。なんたって久しぶりにサラリーマン生活に帰ったみたいな気分。さあて、メニューを見て、モーニングセットを頼んだ。(朝だったので、残念ながらそれしか選べなかった!) おおっ、出てきた。ホットケーキセット!何年ぶりだろう!? こんな朝食!
誰もいない店内でガラス越しに国道を眺めながら一口、ひとくち味わいつつ食べ・・・。さてと、食べ終わったときに目の前にあったのは、お盆一杯のゴミ!
たった一回の食事でこんなにもゴミが出るものなのか? コップもプラスチック製のナイフとフォークも、もし自宅であれば洗って10回以上は使える。バターの袋、シロップの袋、トレーに乗せた紙、ナプキン、どれもこれも、ほんとに必要なものなのだろうか? 食事する度にこんなにゴミを出してたんじゃ、一ヶ月にゴミ袋何枚必要なんだろう?
どうも、こうも、かなり考えさせられた。私自身、都会暮らしのときは、それが当たり前だと思ってたはずなのに、自分自身がどんなに変わったか思い知らされた。

食事を終えて「ご馳走さま」を言う相手もなく、ちょっと孤独な気持ちで店を出た。なんだか、自分が先ほどダスト・ボックスに入れた使い捨てのナイフやフォークになったような気がした。寂しいなぁ。
こういう生活は、果たして便利なんだろうか? 自分を使い捨てのようにこき使い、見方を変えればまるで誰かの道具になって馬車馬のように働かされているだけのような気もする。際限なくお金もかかるだろうし・・・。
やはりたまには世間並みの生活を経験するのも、勉強になるようだ。 


2004年3月30日(火)
ふきのとうの教えてくれたこと。

今朝この春初めてふきのとうを摘んで、食べた。
ほろ苦く、それでいて甘いような懐かしいような、胃袋から舌から、私の身体を包んでくれるような味がした。朝に出かけたときには既に大方のふきのとうは花咲いていて、あぁ、今年はもう終わりかな? ふきのとうを摘む時期を逃してしまったなぁ、と思ったけれども、食べてみるととても美味しかったので、明日も採りに行こう。短い春の魅力的な味をもう一度でも味わいたい。
苦いと一言に言うふきのとうの味だけれど、どうしてどうして、一度味わったら病み付きになる深い味わいがある。毎日食べても飽きないふきのとう好きの私だけれど、実はこんな体験をしたことがある。

この家に引っ越して最初の春を迎えたときのことだった。畑の土手にふきのとうが一面に生えているのを見つけて、夢中になって摘み、まだ畑に何も作付けしていないものだから、これでしばらくは食料の足しになると思って喜んで箸をつけた。
ところが! そのふきのとうの、苦いこと!
ひもじいときには雑草まで食べてきたこの私が、顔を阿修羅にしても、そのふきのとうはとても食べられなかった。
うぅ! こんなふきのとうもあるのか! さすがの私も、完全にお手上げであった。
けれども何となく不思議に思いつつ翌年、やはりふきのとうの味が忘れられずに、覚悟を決めてもう一度摘んで食べた。
ところが、ほろ苦かったけれど、まったく食べられないほどのものではない。本来のふきのとうの味に戻っていた。
どうしてなんだろう。この一年の間にふきのとうの味をこんなに変えてしまう何かが会ったのだろうか?
思い当たることと言えば、私達が来る前にこの家にひとり暮らしていたおばあさんは、病気で身体が弱っていたこともあり、草刈をするのも億劫なので、除草剤を年に何度も家周りに振り撒いていた。
かたや私は大の農薬嫌いである。移住してからこの方、畑と言わず庭と言わず、自分の土地に薬や化学物質の類を撒いたことはない。春、夏、秋と汗を流して草刈をして、その草を毎年堆肥に積んできた。
もしかして、その差なんだろうか?
確かに私の経験でも、農薬なり化成肥料なりを撒いて育てた野菜には甘味がない。大概の野菜は、本来結構な甘味を持っている。いまどきのスーパーに並んでいる野菜しか食べていない人には比較できないことだろうが、これは私が何年か前に体験したことで、その後有機栽培にこだわってきた大きな理由でもある。

けれど,未だに確たる原因はわからない。もしかしたら他に決定的な原因があるのかもしれない。
今年採ったふきのとうは、去年にもまして美味しかった。
確かなことは、この数年私のしてきたことは、自分のためには良かったんだと言うことであろう。
小さなふきのとうが、私を支え、肯定してくれたという、小さな発見である。


2004年3月29日(月)
春先のひとやすみ。

今日も朝から快晴。夜明け方ににわか雨が降ったようだったけれど、地面を朝露ほどに濡らすに留まった。もう長い間雨が降ってない。地面は生き物に例えれば「干物」状態にあるし、そういえば暖かさの割には草の伸長が遅いようでもある。今年はどんな気候になるのだろう。
もうフキノトウがあちらこちらで花を咲かせている。忙しさにかまけてまだ一度もフキノトウを食べてない。明日あたり採ってこようか。
福寿草がそこここに蕾をもたげている。まだ他の草が生えていない時期だから一目でわかる。福寿草の花は可愛いが、地方によっては「家の周りにあると家が絶える」などと、縁起の悪い言い伝えがあるそうだ。確かに毒草ではあるが・・・。食べ物がなくなると野草が主食になる我が家では、特に気をつけなければならない。
ここのところ田んぼの暗渠敷設作業に追われて、時間に余裕のない生活を続けてきた。幸い今日で一段階を越えたので、ここらで少し休憩をしよう。洗濯をしたり、タイヤ交換をしたり、刃物を研いだり・・・春先にはしたいことがたくさんある。とりあえず骨休めを優先するとして、明日は何をしようか。

2004年3月27日(土)
欲しいものは何でも手に入る!そんな生活

朝、久しぶりに冷え込んだ。水が凍るほどではなかったが、早い春が少しだけ冬の名残を留めたという感じだろうか。霜が降ったみたいだった。
今日はここのところかかりきりだった田んぼの暗渠(あんきょ:地中排水路)をいよいよ敷設できるかどうか、というところだ。

まったくの他所からこの地に移住して以来、隣近所はもちろんのこと特にこの集落の人たちからはさまざまな面で助けられてきた。
例えばここは農村だから、当然どこの家でも野菜や米は作っている。
核家族化の進む昨今ではなおのこと、農作物というのはえてして余分にできがちなもので、大概の家では出荷の際のハネ品や、自家消費し切れない分が相当数でてくるものである。
じゃあそれをどうするか、というと、それが不足している家に届けてくれるかというと、一概にそうだとも言えない。
どんなに余っていて放っとくと棄てなきゃならなくなる物でも、それなりの付き合いや親密さがない所にはむやみにあげたりしないものである。これはひとつの「好意」の問題だから、日頃好意を抱けない人間には頼まれもしないのにあげる気になれないのも道理としては頷ける。
特に私のような他所から入ってきた家には、最初のうちは何かと良くしてくれるが、ある程度それに応える気持ちがないと、だんだんに疎遠になって、やがてお互いに助け合う気持ちが無くなっていくものらしい。そのような経過を辿った移住者も何人か見ている。
幸い私のうちは、日常たくさんのものをあちこちから頂いてきているので、これはありがたい皆さんの「好意」の表われだと思って、日頃機会があればそれに応えようと思って、(結構)努力してきた。
そのお陰もあるのだろう、不思議と今まで、欲しいと思うものはなぜか何でも手に入ってきた。
「土」もそうである。今回も田んぼの造成に必要な土がどうしても必要だった。(それも半端な量じゃなかった!) それを気にかけながらいたところに、今日突然のように、土が欲しければ持っていけ!と3軒もの家から言ってくれたのである。
これを偶然と呼ぶべきであろうか?
私自身、このようなことは過去何回もあった。いや、今までのすべてのことはそのように起きてきたことだったのかもしれない。

”今している事が自分のすべきことならば、それに必要なものはすべて手に入る。”

考えてみれば、そんなことは当たり前なのかもしれない。
そのような人生の枠組みの中で私たちは生きているのかもしれない。

みんなに感謝しつつ、今日を、これからを生きていこう!


2004年3月26日(金)
今シーズン開始のお知らせ。

駆け足でやってきた春は、あちらこちらの寝ぼすけたちを起こして回る。

ふきのとうが随分早く出てきたなと思ううちに、イヌノフグリ、蛙、ドジョウ、虫たちと、次から次へと春の代名詞みたいな連中がお目見えしてきて、みんな大慌てで駆け足の春に追いつこうとしている。
寝ぼすけ仲間なのは私も例外ではなく、早くも春、田植え前の恒例行事である農業土木作業にかかりきりになっている。春のこの時期は1年のうちで一番地面が乾燥する。それを利用して、去年崩れた土手の修復や日頃手直ししたいと思っていた箇所を思い切って改造してしまう。いわゆる基盤整備というやつだ。
春の楽しみはまだある。冬の間暖めてきたこれからの1年の営農計画を、実際に即して組み立て直し、具体的な実践計画を立案することだ。
野外での作業はとかく天気に大きく左右される。どんなに冬の間綿密な計画を練ったとしても、実際その時が来てみないとできるかどうかわからない。特に今年のように、連年より半月も早く雪が溶けてみると、計画も大幅見直しである。
あれをこうしよう、こっちには何を播こう、ようし、この機会に思い切ってこの仕事をやり終えてしまおう!
かくて私も、長年の懸案であった田んぼの大改造に着手した。
100mの暗渠(あんきょ:地中排水路)を掘り、100tの土を客土して造成する、大工事だ。
そういう訳で今年もシーズンが楽しく始まった。

実は自動車工場で軽トラの点検をしている間の待ち時間に、町のバーガー店に久しぶりに入ってみる気になったのである。
ワクワク・・ドキドキ・・・。なんたって久しぶりにサラリーマン生活に帰ったみたいな気分。さあて、メニューを見て、モーニングセットを頼んだ。(朝だったので、残念ながらそれしか選べなかった!) おおっ、出てきた。ホットケーキセット!何年ぶりだろう!? こんな朝食!
誰もいない店内でガラス越しに国道を眺めながら一口、ひとくち味わいつつ食べ・・・。さてと、食べ終わったときに目の前にあったのは、お盆一杯のゴミ!
たった一回の食事でこんなにもゴミが出るものなのか? コップもプラスチック製のナイフとフォークも、もし自宅であれば洗って10回以上は使える。バターの袋、シロップの袋、トレーに乗せた紙、ナプキン、どれもこれも、ほんとに必要なものなのだろうか? 食事する度にこんなにゴミを出してたんじゃ、一ヶ月にゴミ袋何枚必要なんだろう?
どうも、こうも、かなり考えさせられた。私自身、都会暮らしのときは、それが当たり前だと思ってたはずなのに、自分自身がどんなに変わったか思い知らされた。

食事を終えて「ご馳走さま」を言う相手もなく、ちょっと孤独な気持ちで店を出た。なんだか、自分が先ほどダスト・ボックスに入れた使い捨てのナイフやフォークになったような気がした。寂しいなぁ。
こういう生活は、果たして便利なんだろうか? 自分を使い捨てのようにこき使い、見方を変えればまるで誰かの道具になって馬車馬のように働かされているだけのような気もする。際限なくお金もかかるだろうし・・・。
やはりたまには世間並みの生活を経験するのも、勉強になるようだ。 


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