勝山号(かつやまごう)の検索で本頁をご覧になった方へ!




長年、勝山号の事績の研究と照会に尽力してまいりましたが、この度、児童文学者を名乗る人物から、一方的な内容の本が出版されました。
取材時の当方の要望など一顧だにされず、抗議をしても無視を決め込んで、出版社に対しては改訂版で済ませようとしています。
こんな本が世の中に出回り、地元の岩手や江刺の歴史、勝山号に関する事実が虚飾に紛れていくのを座視できません。
よって、甚だ不本意ではありますが、告発のページを作り一般の方々に信を問う事にいたしました。

問題の本を善意で読まれた方は、ぜひ、ご一読願い、取材を受けた側の苦しみをご理解いただければと思います。

2020年9月26日 関係者




右)完全装備の勝山号 中央)伊藤新三郎と勝山号 左)内地での勝山号

“帰ってきた軍馬「勝山号」”の真実

文責:小玉克幸 

平成20年3月10日 胆江法人会講演“軍馬「勝山号」の概要~馬政史と軍事史と郷土史の狭間から~”資料より


 (軽米の生家と、伊藤家からの出征の日)
1.出生
軍馬「勝山号」は1933年(昭和8年)5月7日、父・アングロノルマン種ランタンタン号、母・国内産洋種第二高砂(たかさご)号の子として、岩手県九戸郡軽米町の農家・鶴飼清四郎宅で生まれた。出生届時の名前を「第三ランタンタン号」という。翌1934年(昭和9年)10月、1歳5ヶ月のとき、九戸郡の2歳馬せり市において、馬喰高橋儀左衛門の手で競り落とされ、岩手県江刺郡岩谷堂町(現:奥州市江刺区)の伊藤新三郎の所有馬となった。

 (藤田大尉と加納部隊長の奮戦)
   (宮鈴號馬上の加納部隊長と副官時代の加納部隊長)
2.出征と勝山号と改名
「ランタン」の愛称で呼ばれたこの馬は、伊藤家と、新三郎の実家である同郡愛宕村の小澤家で飼育されていたが、1937年(昭和12年)9月、4歳4ヶ月の時、支那事変(日中戦争)のため徴発され、歩兵第百一師団歩兵第百一聯隊(れんたい)(東京・赤坂)に配属。「勝山号」と改名された。すぐに聯隊副官藤田悌二郎大尉の乗馬となって、中国の上海へ上陸した。
上海では藤田大尉が戦死し、聯隊長加納治雄(かのうはるお)大佐の乗馬とされたが、すぐに加納大佐も戦死。後任の飯塚國五郎大佐の乗馬となった。

  
(豪勇・飯塚部隊長2葉。勝山号上の飯塚部隊長)

3.支那事変と勝山号
勝山号は同年11月蘇洲河渡河作戦で迫撃砲の砲弾で最初の負傷。次いで翌1938年(昭和13年)5月、徐州会戦の支作戦(しさくせん)として阜寧(ふねい)攻略中、機関銃弾を被弾。2回目の負傷をした。さらに同年8月には盧山・秀峰寺前の戦闘で、左目頭より左頚部中央に機銃弾が貫通するという重傷を負った。この時、約3ヶ月もの間、部隊の獣医や当番兵の熱心な看護を受け部隊へ復帰した。勝山号負傷の数日後、飯塚大佐も戦死した。次いで、後任の布施安昌大佐の乗馬となったが、1939年(昭和14年)2月、南昌攻略戦を前に3度目の戦傷が再発し、半年余りの間後方での療養を余儀なくされたが、またしても奇跡的に復帰を果たしている。

 
南昌に入城した布施部隊長と江西省での布施部隊長のスナップ(布施部隊長も勝山号を可愛がったようである)


軍馬功章 上から「甲功章」 「乙功章」「丙功章」
 (賞状と戦地での勝山号)
4.甲功章授章
部隊長が下川義忠大佐に替わった、同年10月。戦地において勝山号は陸軍大臣より「軍馬甲功章」を授章。翌年春に部隊は凱旋し、勝山号も内地へと帰還した。
「軍馬甲功章」は『軍馬功章「甲」(柏葉章)』と呼称。意匠の「柏」は神武天皇の東征を記念し「尖先」は剣に模るというもの。(勝山号は昭和8年から数えて第3回目の受章)

 (下川部隊長と部下と勝山号)
 
(勝山号をなでる中田獣医中尉   地元からの慰問団。勝山号は伊藤新三郎の方を向いているようだ)
5.凱旋
「勝山号帰る」の報は岩手へも伝わった。
昭和14年11月5日、伊藤新三郎は、勝山号の甲功章授章の報道に接し、早速赤坂の歩兵第一聯隊を訪ねたが、この時、勝山号は戦地にいたため、再会は出来なかった。
明けて昭和15年2月19日、赤坂聯隊において、伊藤新三郎、鶴飼清四等関係者は、勝山号と感動の対面を果たした。
21日付の新岩手日報朝刊記事『名馬勝山號を原隊に慰問す』より拾うと「…眉間には軍馬として最高の栄誉である甲功章が燦然と光ってゐる。しかも一行の中から曾ての主人公高橋儀左衛門サンや伊藤新三郎氏等の姿が見えたのでヒヽヒンと二声三声威勢の良い声を張り上げて伊藤氏の肩に頬をすり寄せる愛しさに伊藤氏は声も出ず、勝山号のタテ髪を撫でてゐる…」とある。軽米側は「おはぎ」を、江刺からは大豆と愛馬糖をお土産として持参した。
3月30日には、日比谷公園において朝日新聞社が主催する「勝山号」に感謝する会が開かれている。これは「今事変に出征、三度も傷を受け乍ら、ひるまず働いて甲功章を頂いた軍馬『勝山号』に感謝する」催しであった。ここでは、サトーハチローが作詩した「勝山号を讃へませう」という童謡が発表された。他にも様々な行事に借り出された勝山号は、東京で太平洋戦争開戦を迎える。戦時中も変わらずに手厚い飼育管理がなされていた。

  
凱旋後の勝山号3枚 左から「軍馬の日」銀座大行進の様子。その日、加陽宮若宮殿下兄弟に人参を賜る勝山号。飯塚部隊長の墓前へ参拝

(名馬?「第二勝山号」(勝江→金高号)。高橋儀左衛門と新三郎の勇み足である)
6.第二勝山号
なお、勝山号の報道を受け、高橋儀左衛門から伊藤新三郎は新たに「勝江」という馬を購入。昭和15年12月に「第二勝山号」として陸軍へ献納した。これに対し、東条英機陸軍大臣より感謝状が出されている。*部隊での名称は「金高号」であった。

  (左・加藤部隊長 右・羽鳥部隊長 ともに勝山号の原隊の部隊長)


上)勝山号の最後の写真。昭和18年の再開時。右より小池調教手、伊藤新三郎、不明、勝山号、羽鳥部隊長、伊藤貢、石丸副官、不明
7.戦時下の再会
また、戦局が激しさを増す一方の昭和18年2月11日、息子の貢を伴った伊藤新三郎は勝山号に面会に行っている。戦時下に部隊の異動が頻繁に行われ、勝山号の所在が分からなくなっていた中での幸運な再会であった。


 (小池調教手と勝山号。伊藤家に残る勝山号の絵画)
8.故郷へ生還
敗戦が迫っていた昭和20年8月10日、勝山号は軍の指示によって、部隊を脱出し、農家へ避難。終戦後の10月17日、元の飼主・伊藤新三郎宅へ奇跡的な生還を果たした。
敗戦で戦時中の栄誉も過去のものとなり、勝山号は故郷で再び農作業に駆り出された。馬糧にも事欠く状況で、小澤家・遠藤家など親類縁者へ預けたこともあった。
また、昭和21年3月~11月まで、稲瀬・石関の菊地栄光氏宅へも預けたことが確認されている。
 1947年(昭和22年)6月4日、戦傷の後遺症で勝山号は死んだ。
 死後、元軍獣医の希望で、解剖が行われた。名馬の名前に恥じない大きな脳が白日の下にさらされ、次いで、迫撃砲弾の弾片が摘出された。
 勝山号の亡骸は、地元・万松寺の住職によって弔われ、当時、伊藤家が在った裏庭に葬られた。伊藤貢に対し、住職は「勝山号は馬頭観音になった」のだと告げたという。
 これらのいきさつは、伊藤新三郎の息子である貢が著した『遠い嘶き』に詳しい。
 戦後、「墓地を含む一体が、中核工業団地に接収され、近寄るのも難儀な藪の中に埋もれてしまった」と貢は書いている。
 かつて“聖戦第一の受勲馬”と謳(うた)われた勝山号、否、「ランタン」は、伊藤家に暮らした犬・猫・綿羊たちと共に、静かにひっそりと草生す山腹の一角に眠っている。


9.勝山号の所属の変遷(参考)
勝山号の所属した部隊(及び部隊長)は次のように変遷している。
出征~帰還まで「東京歩兵第百一師団・赤坂歩兵第百一聯隊」(昭和12年9月~昭和15年2月まで。藤田大尉・加納大佐・飯塚大佐・布施大佐・下川大佐)→
帰還後、「留守東京歩兵第一師団・歩兵第一聯隊留守隊(赤坂区檜町)」(加藤勝蔵大佐)
→「東京独立第六十一歩兵団・第二次歩兵第百一聯隊(檜町)」→
「同・第二次歩兵第百一聯隊(赤坂区一ツ木町)」(昭和17年3月~羽鳥長四郎大佐)→「同・第二次歩兵第百一聯隊(川崎市溝ノ口)」→「東京歩兵第六十一師団・第二次歩兵第百一聯隊(溝ノ口)」(羽鳥部隊長は戦闘部隊ともに中国へ出動)
→「東京警備司令部・留守近衛第二師団・東京第一歩兵補充隊(溝ノ口)」(昭和18年6月10日以降、飯田雅高中佐。昭和19年6月3日~昭和20年4月9日まで平沢喜一大佐。4月10日から8月の終戦までは西村章三大佐)となる。
よって、勝山号は都合10名もの将校に仕えたことになる。
「近衛歩兵第三聯隊」に所属したという説は『遠い嘶き』に起因する誤解である。

10.地元関係者について(参考)
①伊藤新三郎 元岩手県警刑事巡査で司法書士。「第3ランタンタン」(勝山号)の馬主。
  主に次男貢が増澤の自宅に残り、農業をしながら勝山号を飼育。新三郎は仕事で岩谷堂町中町に居住。

②愛宕の小澤家 伊藤新三郎の実家。(新三郎は伊藤家へ婿に来た)
③高橋儀左衛門 岩谷堂町中町の馬喰。新三郎が中町に居た時、隣にあった。


11.勝山号が評価された点

 1)江刺で飼育時代
  血統の良い、優良な農耕馬として家族から評価。満州国の種馬買い上げ候補となる。

 2)戦時中1 支那事変
  第二次上海事変から、漢口攻略作戦盧山の戦闘まで、3人の乗馬主に仕え、3度負傷し、致命的な神経症からも奇跡的に回復した。乗っていた人物が、聯隊副官、聯隊長2人(ただし、加納大佐は実際に騎乗することは不可能だった)でしかも、3人とも戦死している。中田獣医中尉や石渡当番兵、小池調教手など多くの兵士たちの看護を受けた。飯塚部隊長が、生前、「軍馬甲功章」をもらってやりたいと発言。恐らく、下川部隊長が以上の状況から叙勲申請。

3)戦時中2 凱旋
 帝都へ凱旋する際、勝山号について大々的に報道。全国から反響
 岩手縣では最初、軽米の鶴飼氏が報道の主役であるが、再会が決定したあたりから、報道の主人公が伊藤新三郎へ替わる。(新岩手日報で判断)
 部隊での公式な再会が、新聞紙上で大きく報道される。 勝山号が有名になるにつれて、除隊後の引き取り先が大きな話題となる。軍の各種行事への参加、及びその報道。

4)戦時中3 敗戦まで
 結局、終戦まで原隊(に近い部隊)で飼育。昭和18年2月11日、戦時下での奇跡の再会

5)戦後
 部隊と大日本馬事會、水沢駅長、岩谷堂町長など官民一体で引き上げに協力。もちろん伊藤家が各方面へ尽力。
 故郷への帰還に際し、薄暮下の帰還ルートを馬自身が確実に選択し、自宅へたどり着く。
 昭和22年6月4日没
 
 その後、戦争でただ一匹生還した馬として、度々取り上げられるうちに、いつしか軍馬の代表のような扱いを受けるようになった。
 注意)軍馬の本土帰還例は勝山号と同時期まではかなりあったと思われる。また、戦時中に廃馬として自宅へ払下げられる形での帰還は考えられる。しかし、終戦後、現役の軍馬が故郷まで帰還した例は過分にして聞かない。(自宅近郊の部隊に配属され終戦後に、たまたま戻される例はあったかもしれない。)いずれにせよ、戦時中は軍馬の所在は軍機であり、勝山号のような稀有な例を除いては飼主が馬の所在を知りえない。

12.今日における評価
 1)サトウハチロー記念館で童謡「めんこい仔馬」のモデルだと主張
 2)映画「馬」(1941年高嶺秀子他)のモデルとも言われる
 3)「勝山号をたたえませう」のレコードが存在し、最近8700円で某オークションで落札。
 4)青森から出た「勝山号記念鉄瓶」150万円で落札。某オークション。
 5)軽米町で顕彰運動。最近終息か?
 6)平成初期に出した「遠い嘶き」に関する問い合わせ。
 7)ナポレオンの乗馬子孫説(軽米の関係者が主張)  其の他
 *1、2,7については何ら根拠なし。


13.軍馬「勝山号」略年表

昭和6年、満州事変発生。満州の原野で軍馬活躍。

昭和8年5月7日、第3ランタンタン号(後の勝山号)が軽米町鶴飼清四郎宅で誕生

昭和9年10月、岩谷堂の馬喰高橋儀佐衛門より伊藤新三郎、
第3ランタンタン号を購入(以降、伊藤家ではランタンと呼称)
*以後、支那事変勃発まで伊藤新三郎が馬主となり、実家の小澤家でも農耕に使用。

昭和11年3月、満州国種馬購買で不合格。去勢さる。

昭和12年7月~8月、北支事変・第二次上海事変勃発。全国に動員下る。

同年9月2日、軍馬徴発告知書が伊藤新三郎の下に届く。
同年9月5日、愛宕北上川河畔(現愛宕グラウンド)にて徴発検査。
「歩兵乗馬甲」の判定。同日中に黒沢尻まで移動。貨車で帝都へ向かう。「勝山」と命名。
同年9月下旬、動員された東京歩兵第百一師団歩兵第百一聯隊(赤坂)副官乗馬として上海戦線へ出征
* 北支事変・第二次上海事変はさらに発展し、「支那事変」と改称。
* 副官の戦死後、加納大佐、飯塚大佐の乗馬をつとめるも、いずれも戦死。勝山号も3度の戦傷と、後遺症に悩まされる。回復後、次の布施大佐、下川大佐の乗馬としても活動。(昭和15年2月まで)

昭和14年10月1日 戦地で第3回軍馬功章により、「軍馬甲功章」を受章。
同年11月5日     伊藤新三郎、受章報道で上京。原隊へ名乗り出る。再会かなわず。

昭和15年1月20日、部隊と共に勝山号は帝都へ凱旋
同年2月19日、赤坂聯隊将校集会所前で、岩手県代表団は勝山号に面会。一行の中に伊藤新三郎を見つけると、勝山号はホホをすり寄せた。
同年3月、部隊の戦没軍馬慰霊馬頭観建立式典にも伊藤新三郎は出席。再び勝山号に会ったとされる。
*以後、勝山号は軍馬に関するあらゆる行事に、事変功労馬の代表であるかのように参加。マスコミにも大々的に報道され、勝山号の「功績」を基に絵本・絵葉書・ニュース映画・童謡・レコード・戦記などが生み出された。(単行本は「聖戦第一の受勲馬勝山號」「馬上集」「駒は嘶く」「愛馬読本」など)

昭和16年12月8日、大東亜戦争(アジヤ・太平洋戦争)勃発(部隊の所在は軍事機密であり、このあたりから勝山号の行方がわからなくなる)

昭和17年末 赤坂の旧近衛聯隊兵舎で、新三郎の息子・貢は奇跡的に勝山号に再会

昭和18年2月12日、息子・伊藤貢の案内で、伊藤新三郎、勝山号に再会。

昭和20年8月、終戦を前に勝山号は部隊を脱出。小池氏宅へ隠れる。

 同年10月、伊藤貢は勝山号を迎えに行き、水沢駅長などの尽力で、貨車輸送に成功する。
 同年10月7日、勝山号は水沢駅から徒歩で自宅へ生還。途中の経路は全て記憶していたという。

昭和21年3月から昭和21年11月まで、生活難から稲瀬石関の菊池氏に預かってもらう。

昭和22年6月4日、戦争の後遺症で没。万生寺の和尚が読経の後、自宅裏へ埋葬。


文責:小玉克幸 

平成20年3月10日 胆江法人会講演“軍馬「勝山号」の概要~馬政史と軍事史と郷土史の狭間から~”資料より


2009年/2669年?平和ミュージアム旧日本陸海軍博物館
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