第5夜
 どうしてだったのか未だにわからない。あの朝、私は一頭も、とうらく(木や柵に繋ぐために牛や馬の頭につける縄)をつけた牛を見なかった。
 67番(牧場では牛を識別するためにすべての牛に通し番号がふってある。)の牛が明日受精するということは、昨日人工受精士が来て排卵確認をした時に聞いていたけれど、B棟の牛舎だけでも120頭以上もいて、毎日のように何頭かの牛が代わる代わるに受精をしていっている。その中であの朝、67番の牛が人工授精の準備のためにとうらくを付けているはずだ、ということをつい忘れていたとしても確かに不思議なことではない。
 でも、どうして気づかなかったのだろう。いつもなら自然と気がついたはずだ。その朝私も彼女も、とうらくをつけた牛に、ましてやそのとうらくが鼻から外れて首にぶら下がっているだろう牛の姿に気がつかなかった。朝にB棟すべての牛を追い、放牧してまた牛舎に返す。そして牛一頭一頭の前の餌を掃き寄せる。その朝もいつもと同じように、一頭一頭の牛と語らいながら長い時間をかけて給餌作業をした。けれど、いつもなら当然気づくはずのことに、今考えれば奇妙なことに二人ともまったく気づかなかった。
 私たちだけではない。午後3時頃にはある先輩職員も同じ牛舎に入っている。格別な用事も無いはずだったが、本人は後になぜかしらなんとなく牛舎に入ってみた、と言っている。そして牛舎をひととおり見て歩いた彼も、67番の外れかけていたはずのとうらくに気づかなかった。牛に関しては、彼はこの牧場一のベテランであり私の先生だった。
 どうして気づかなかったのだろう。牛にサイレージを切るために騒がしい機械音を上げるロールカッターを止めて、何となく牛舎の一角に異様な雰囲気を感じた私は、始め牛たちが突つき合いの喧嘩でもしているのかと思った。そう思って近寄ってよく見れば、一頭の牛が、舌を出して苦しんでいる。あの時、ちょうど太い鉄骨の柱に隠れていて、首からピンと張られている一本のロープに気づかなかった。ちょうど日に日に心細くなっていた冬の日差しが今しもかすれて、あたりに薄暗がりが漂い始めた頃だった。首に絡まったとうらくの先がスタンチョン(牛舎内の柵)に引っかかり、苦しむ牛の渾身の力でもって引っ張られて強靭な一本の絞首紐となり、そしてもう一方の端は、67番の牛の首に深く深くめり込んで行っているのにあの時気づかなかった。
 あの時もし気づいていたら・・・。私は、何が原因かわからないまま、牛のただならぬようすに驚いて、隣りの牛舎にいるはずの先輩を呼びに行った。彼は駆けつけるなり一見して牛の首に食い込んだとうらくに気づき、叫びながら刃物を取りに走り去った。状況を初めて認識した私は愕然となり、絡まったとうらくに指をかけて渾身の力をかけて緩めようとした。が、できない。67番の牛が苦しんで暴れ回る。近寄るのも危険だ。ロープが外れないままに、やがて牛はドウッと倒れる。地面が揺れる。牛が口から血を吐く。私は何をしたら良いのかわからず立っていた。牛が断末魔の力を振り絞って大きく揺れて、痙攣する。それでも私はどうしていいのかわからなかった。そしてやがて目の前で67番は死んだ。
(続く)


第6夜へ

牧場夜話MAIN PAGEに戻る