大日本帝國海軍巡洋艦


巡洋艦は、長大なる航続距離、優れた速力により機動性を発揮し、戦闘、護衛、海上交通破壊、偵察など広範囲に活躍する。
攻撃力は戦艦に次ぎ、火砲と水雷兵器、水上偵察機を搭載する。
大きさ装備で重巡洋艦、軽巡洋艦、一等巡洋艦、二等巡洋艦、目的で練習巡洋艦、航空巡洋艦などがある。

注意)詳しい解説は市井の良書をお読みください。年代は写真の撮影時期です。推定も含みます。性能は基本的に海軍省公表に拠ります



軽巡洋艦
近代軽巡洋艦発生以前に、軽巡洋艦的な艦艇を有効に運用していた日本海軍。
水雷戦隊旗艦や潜水戦隊旗艦、海上警備、練習艦など多彩な任務をこなした。
永らく5500トン旧式軽巡洋艦を主力としてきたが、大東亜戦争では矢矧型新巡洋艦を投入するも殆ど全滅した。


「天竜」(てんりゅう) 大正初期

「竜田」(たつた) 大正初期

天竜・龍田は駆逐隊の嚮導任務のために設計された高速かつ水雷兵装の充実した小型巡洋艦であった。
後の、特型駆逐艦と比べるとスペック的には優れているとは言えなくなっていた。それでも、外地の警備などで
永らく第一線にあり、大東亜戦争でも龍田が第一次ソロモン海戦で大活躍するなど古さに関係なく働いた。
中央に魚雷発射管を装備し、発射方向にスライドして発射した。後に高さを加え、旋回のみで発射可能となった。
最大の欠点は対空能力(初期8糎高角砲1門・留式機銃2、最終時25粍機銃8程度)の欠如、対潜性能の不足であったが
これをこの2隻に求めるのは不公平というものだろう。高角砲のみ装備する対空巡洋艦の計画もあった。
基準排水量3300噸、速力31浬、備砲14糎砲4門、8糎高角砲1、魚雷発射管6門他



「球磨」(くま) 大正時代

「北上」(きたかみ) 大正時代

「大井」(おおい) 大正時代

手前「多摩」(たま)、向こう「木曽」(きそ) 昭和17年末アリューシャン付近

「多摩」「球磨」「大井」「北上」「木曽」は、八八艦隊計画の付属巡洋艦として計画された。
英国の巡洋艦に似たデザインであったが、日本人の体格にマッチした14糎主砲を全体に7門装備し、片方に6門を指向できた。
魚雷発射管も連装4基8門と強力であり、実際の速度も36ノットであったため、米国海軍は相当な脅威と感じていた。
支那事変では雑用めいた任務に活躍し、大東亜戦争では2線任務として警備や護衛、潜水艦隊の支援などに活躍。
特に北上と大井は61㎝魚雷発射管40門を装備する重雷装艦として、来るべき艦隊決戦に期待されたが、
活躍の機会は訪れず、結局は魚雷を撤去し、輸送など別任務に使用された。北上のみ終戦まで残り、人間魚雷「回天」母艦となった。
基準排水量5100噸、速力33浬、14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷発射管8門、機雷ほか



「長良」(ながら) 昭和初期

「五十鈴」(いすず) 昭和初期

「鬼怒」(きぬ)、「由良」(ゆら) 昭和12年支那事変にて

「名取」(なとり) 昭和初期

「阿武隈」(あぶくま) 昭和18年アリューシャン警備中の様子
「長良」「五十鈴」「名取」「阿武隈」「鬼怒」「由良」は多摩型の改良型であり、日本軽巡洋艦陣の根幹であった。
艦橋が大きいため、ここに航空機格納庫を設け、カタパルトで打ち出すというごく初期の航空機運用能力を持っていた。
後に、後部甲板にカタパルトと水上偵察機を装備している。魚雷発射管も改装で61㎝4連装2基に改められた。
大戦中の特徴としては、電探の装備、高射機銃の増強があるが、五十鈴は主砲を全廃。12.7㎝高角砲6門装備の防空艦となった。
また、後部主砲を撤去、12.7㎝連装高角砲を装備した例もある。最も激しく活躍した本級は全て戦没した。原因の大半が敵潜水艦であった。
基準排水量5170噸、速力33浬、14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷発射管8門、機雷ほか



「那珂」(なか) 昭和初期

「川内」(せんだい) 昭和10年代

神戸港で拝艦者を迎える「神通」(じんつう)昭和10年10月5日

川内・那珂・神通は多摩~長良以来の最終発展系である。4本煙突が特徴であり、武装配置も異なる。
那珂と川内の写真を見ての通り、完成当時からの変化は少ない。(カタパルトの方式が代わった)
大東亜戦争も殆ど無改造で臨み、電探装備の不備から米艦隊に袋叩きに遭った。対空装備も改善されなかった。
完成年度から見て改造次第では十分第二次世界大戦に対応できたと思われるが、支那事変の影響で根本対処はなされなかった。
支那事変初期、5500トン級搭載の九五式水上偵察機は、戦闘機や爆撃機の任務を担い、空母到着まで上海の空を守り抜いた。
基準排水量5195噸、速力33浬、14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷発射管8門、機雷ほか
*本型は大戦中期までに全滅している


「夕張」(ゆうばり) 完成当時

「造船の神様」平賀博士が心血を注いだ小型重武装の巡洋艦。多分に試験的意味合いが強い。
3150トンで5500トン級の戦闘力を発揮できるのが売りだが、重武装と引き換えに居住性や航続距離など不利な面もあった。
魚雷発射管を中央に集めたという意味では駆逐艦に近いコンセプトといえよう。本級に似たソ連艦レニングラードは駆逐艦である。
とはいえ、全世界に大きな衝動を与えた艦としては記憶すべきであろう。大戦末期に戦没した。
基準排水量3150噸、速力32浬、14糎砲6門、8糎高角砲1門、魚雷発射管4門、機雷ほか




*写真探索中
「阿賀野」「能代」「矢矧」「酒匂」



「大淀」



練習巡洋艦
日本海軍創設以降、基本的に旧式艦を以てこの役に当ててきたが、近代的な演習設備の必要性から
昭和15年から「香取」「香椎」「鹿島」が建造された。しかし、実際は戦時体制の中で、殆ど護衛艦や旗艦として使用された。
古き良き時代の海軍練習艦は日露戦争の英雄である「出雲」岩手」「浅間」などの装甲巡洋艦が務めており、
士官候補生を載せた練習航海では世界一周の旅を行い、各地の邦人を慰撫・激励した。


昭和初期 練習巡洋艦時代の「八雲」

昭和初期 練習巡洋艦時代の「出雲」
性能:基準排水量約9900噸、速力20浬  20糎主砲4門、15糎主砲8門ほか




「香取」(かとり) 昭和15年開戦当時

「香椎」(かしい) 大東亜戦争初期
「香取」「香椎」「鹿島」「橿原(中止)」は専門の練習巡洋艦として建造されたが、鹿島は大戦後の完成のため
練習艦というよりは護衛艦として使われた。香取は潜水艦隊旗艦、香椎は南遣艦隊旗艦を務めた。
練習巡洋艦といっても予算の関係で船体構造は商船に近く、速力も18ノットと低かった。
反面、スペースは十分あったので旗艦設備を充実させたり、末期には強力な対潜装備を施された。

基準排水量5850噸、速力18浬、14糎砲4門、12.7糎高角砲2門(末期は6門)、魚雷発射管4門他



2009年/2669年?平和ミュージアム旧日本陸海軍博物館