タインの見た夏の雪・3


シャアシャアと降りしきる蝉時雨の中で
トラ猫はすぐにボクに気がつき、しばらく立ち止まってじっとこっちを見ていた。

時間が止まったように思えた。
この雪深い山道をヨタヨタと歩いてくるボクを見て、彼は何と思ったのだろう。
ボクも長い間動けなかった。
初めて母さんと兄ちゃんたち以外の猫に会った。
そしてやっと会えた猫に、涙の出るほど嬉しかった。
でもあのときのボクは出会った相手が例え幽霊でも怪物でも、同じように喜んだかもしれない。

トラ猫は言った。
今まで聞いたことも無いような怖い声。
でも妙に惹かれるものがある。
「来い。」

スタスタと雪を掻き分けて歩くトラ猫の姿を、ボクは懸命に追った。
身体に少し力が涌いて来た。ボクはまだもう少し歩ける。
そしてしばらく行くと、
突然明るくなった。
林はそこで終わり、すぐ先に大きな赤い屋根が見えていた。



その後ボクはその家のお婆さんに抱き上げられ、小さなビニールの買い物袋に入れられたんだ。そして猫家と呼ばれる今のこの家に連れて来られた。
猫家の主はひと目ボクを見て袋ごとボクを抱き取り、すぐにご飯を食べさせてくれた。
何日ぶりのご飯だったろう。今まで食べたこともないようなご飯だった。(今考えると、玄米だったんだなあ。)味も何もわからなかったけど、ただただ嬉しかった。これでやっと生きれる、と思った。涙が溢れた。



それ以来ボクは猫家のネコになった。
猫家にはその名のとおり、猫がたくさんいる。
若干の出入りはあるけれど、今猫の家族は7人いる。
その中でボクは一番のチビだったもんだから、
しばらくは新しいニイちゃんたちの玩具になってしまった。



あれから半年、冬が過ぎて春が来て花が咲き始め、次第しだいに周りは暖かくなって来る。今はもう野原も山もすっかり濃い緑で覆われている。
そしてボクはあの時から比べると身体もがっしりして大きくなっている。もう何をやってもニイちゃんたちには負けない。

そうそう、いつか雪の日にボクをヒト里まで案内してくれたあのトラ猫は、クマというんだ。一応猫家の猫なんだけど、もう長いことお妾さんの家に入り浸ってるみたい。あの日はたまたまお目当ての家に行こうとして、いつもの近道を通ってたところだったようだ。猫家もお妾さんの家も山のどん詰まりにあるから、裏山を抜けて行った方が近いということは後で知った。


そしてクマも今からちょうど2年前に、裏山に捨てられた猫だったんだそうだ。



このところまったく雨が降らない。今日も朝からいい天気だ。
ボクは今裏庭の木陰に寝そべって、物憂げな午後の惰眠を貪っている。

シャアーーー・・シャアーーーー・・・

鳴り響く蝉の声を聞いているうちに、
いつの間にか音はか細くなって、耳の中で静かなひと筋の糸になっていく。


サアーーーーーーーーー・・・。


!・・・・・

ボクは驚いて頭を上げた。
蝉の声はいつの間にかチラチラと舞う雪になって、ボクの上に降りかかっていた。
そして側にはニイちゃんが、ネエちゃんが、震えて丸くなっていた。





気のせいだったんだろうか。
よく見ると周りには、誰もいない。

ニイちゃんたちは、どうしたんだろう。
ボクもあれから一度だけ、あの道を引き返してみたことがある。
もう雪も溶けてすっかり春になった黄緑の頃だった。クマと出会った場所はすぐにわかった。猫家の裏を抜けていくとすぐなんだ。そこで裏山に続く山道と交差する。ボクはそこでクマと出会ったはずだ。そこから薄暗い道は山の奥へと続いている。

でもボクは、そこから先には進めなかった。

なぜならその時聞こえたんだ、あの雪の降る音が。
サアーーーー・という静かな音があたり一面に響き、ボクの心を押し潰して居たたまれなくさせた。
実際ボクはもう少しでパニックになるところだった。だから全力でその場所から逃げ出して来た。
それ以来二度とあの場所には行っていない。

静かな林に雪の降るあの音は、今でもたまに聞こえる時がある。
耳からではなく直接脳天に伝わるようなそんな糸の連なり。

サアーーーーーーーーー・・・。

その度にボクは驚いて顔を上げるのだけれど、なぜかそういう時は雨も雪も降ってなくて、ただお日さまが燦燦と降り注いでいたり、雲が漂う昼下がりだったり、そうしてボクは何の不安もない日常をのんびりと過ごしてたりしている。
でもあの雪は、サアーー・・という音とともに降って来るんだ。空の彼方に、雲の切れ間に、物置の屋根の裏っかわに・・・。
その度にボクは飛び起きてその場を駆け出す。怖いものがすぐ側まで寄って来てるみたい。条件反射・・。

ニイちゃん、ネエちゃんのことを思い出すと胸がグッと来る。
そうだ、あれからニイちゃんたちは、どうなったんだろう。
あの道の奥に、何があるのだろうか。
ニイちゃんたちと一緒に暮らした昔のボクの道のりが、あの薄暗い林の裏に、今でもあるような気がする。


                    (「タインの見た夏の雪」 完 )




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