土の人間、石油の人間
 ねえ君、参考までに聞いてくれるかい?
 ボクがこうして小さいながらも畑を耕し、田んぼを作りながらここで暮らし始めてからもう3年が経つ。みんなからは自給自足の生活だと言われるけれど、正確に言うと自給率は80%くらいじゃないかな。ボクにはこのくらいが無理なくてちょうど良いみたいだ。
 もっとも都会でサラリーマンをしていたころから週末百姓をしていたから、そうだな、畑を初めて14年、米を作り鶏を飼い始めて徐々に今の暮らしになったってところかな。けれどみんな勘違いしているところがあるからこの機会に言っておくけど、ほとんど自給しているといっても、一般の人が食べている物を自給している訳じゃない。現代の日本でそれはちょっと・・・どころかまず不可能じゃないかな。世間一般の食生活を自給したのじゃなくて、ボク自身が世間の人たちが食べている物を食べなくなった。ただ季節季節に畑から獲れる物、または無理なく保存できるものしか食べなくなっただけのことなんだ。
 だからある意味で自給というのは、そんなに難しいものじゃないんだよ。もしその人が本当に望むなら、ちょっとの努力で結構できてしまうものかも知れない。
 ところでボクが百姓になってから気づいたことがあるんだ。
 それは、そうだな、元を辿れば脱サラして1年目、北海道で農業実習をしていた頃に遡る。

 ボクの実習地は道央の山間地、長い間農業よりも林業が主体だったところだった。山に囲まれてるとはいえさすがに北海道、農地は本州とは比較にならないほど広い。平均すればまずここ岩手の農家10軒分の農地を一軒で持っているんだろう。もちろん一枚の畑もずっと広い。
 ボクはそんなところで農業始めの第一歩を踏み出した訳だけど、しょっぱなに春4月頃畑の石拾いをさせられたことがある。広い畑をトラクターで歩きながら、目立つ石を拾い集めていくのだけれど、石と言ったって指の輪ほどのこんなもんじゃない。そうだな両手で抱える程、人の頭くらいの石。それが畑にゴロゴロとある。
 農家の人が言うには、毎年石拾いをしてるんだそうだ。だけども春になるとまた石がゴロゴロ現れてくる。取っても取っても毎年現れる。言われてみれば、そうして長年取り集めた石が向こうの方で巨大な石山になっているじゃないか。それを見ると気が遠くなる思いがしたよ。北海道の開拓生活も楽じゃなかったんだなぁと思ったね。
 最初に何となく気がついたのは、その時だったんじゃなかったかと思う。その頃までそれ程有機農業とか無農薬栽培とかにはこだわっていなかったボクが、次第次第に農薬や化成肥料を断固シャットアウトするようになったのも、何年間かの農業体験の中でこのことに気がついたからなんだ。それは今の自分にとって、とても大切なことなんだと思ってる。
 それでも、北海道で無意識に気づいたそのことが”ナニ”かをはっきりと頭で自覚したのはついここ数年のことだ。自分の畑を持ち、毎年同じ場所を何回にもわたって草刈りをし、収穫するようになった。刈った草は一箇所に集めて堆肥にして、翌年畑に還元する。かつての農家ならば当然やっていた、今ではしんどいばかりの時代遅れのような農業の営みを自分の農地で毎年している。それを積み重ね土を観察しているうちに、長年心の中に無意識に横たわっていたある概念が、突然はっきりと認識させられてしまったんだ。
 それは、「ボクたちは元を辿れば土を食べている。」ということなんだ。
 これは人間に限ったことではなくて、多分この地球上の生物すべてに当てはまることじゃないかと思う。恐らく地球の生命はそのように生まれ生き続けてきたんだろう。

 以前このことを同じ農業者仲間に話したら、あぁ、○○××さんの本ね!」と言われたことがあるけれど、残念ながらボクはここ何年もたいして本を読んでいない。実際百姓をするようになって、農業関係の実践書以外はあまり読んでないんだ。読む気がしなくなったと言うか・・・。
 でも、このことは土を相手にしている百姓ならば誰もが大概気づいていると思う。だって、明らかなんだもの。畑の作物は土を食べて育っているんだから。そしてその野菜なり穀物を、家畜や人間が食べているのだから。不思議に思うなら、ボクたちが日常食べているもので土からできていないものを挙げてみてくれよ。塩と水くらいなものじゃないかな。

 作物が毎年どれほどの土を消費するか、百姓は皆知っている。草が育ちその場で枯れていくのならそこの土は年々肥えていくんだけれど、作物を作り収穫するという行為は土を痩せさせるんだ。収穫すればする程、地面の表土はどんどん無くなっていく。だからそれを補うために草木や牛糞などから作った堆肥を還元していくんだけれど、本当の話、農作業の中で一番くらいに辛いのが、堆肥を作って畑に撒く仕事なんだ。
 結局のところ現代の農家は好んで化成肥料を使っている。作物が消費する表土を全部堆肥でカバーするとすれば大変な労力がかかるけど、化成肥料ならば楽なもんさ。堆肥が土にとって大切だということはみんな頭では知ってるんだけれど、堆肥は最低限で済ましているのが現状だろう。
 また今の農業のやり方ならば、表土が殆どない、実際のところミミズも住めない土からだって野菜は作れるんだ。そんな野菜だよ、スーパーで売られているのは。
 土から育ったモノでなければ野菜だって米だってとても弱く育ってしまう。その結果たくさんの病気や虫が発生する。だから大量の農薬を撒く。自慢じゃないけど、ボクなんて今まで自分の畑で農薬を使ったことがないんだよ。それでも大概の作物は育てることができる。だって、土で育てているからさ。うちでは米も野菜も土からできていて、鶏だってそれら土からできたモノを食べて育っている。そして人間も、それら土の産物を食べて生きている。

 じゃあ化成肥料で育った作物を食べて生きている人間の体は、一体何でできていると思う?
 実はボクはあまり本を読まないものだから、化成肥料が何を原料としているのかわからない。聞いた話によると何かを作った後の大量の副産物だともいう。だからあれほど安く買えるのだとも。でもホントのところはあまりよくわからない。でも化成肥料というくらいだから、化学反応で人為的に作られる何かなんだろう。
 仮にそれを石油製品だとする。直接に石油じゃないかもしれないが、どっち道その製造過程では、大量の石油が消費されているんだろう。だから石油製品といったって、あながち遠い訳ではないかもしれないよ。
 もう一度始めの問いに帰るけど、今一般に売られている野菜や米で作られた人間の体は、一体何でできているんだろう? もしかして、恐らく化学物質でできているんじゃないかな。決して土じゃない。いろんなところで農業実習をしたり農作業の手間稼ぎをしたりして何年も生きてきたボクだもの。慣行農業がどんなものかはひととおりわかっているつもりだ。そこの畑の作物は、大方は土の作り出す栄養素以外のものを大量に摂取して成長しているような気がする。
 もちろん、だからと言って一般の食生活が悪いと言う訳ではない。ボクだって自給を始めたのはつい最近のことで、それまでは成長期を含めた長い期間普通の食生活で生きてきたのだから。
 でも事実は一応知っておいた方が良い。もしかしたらボクの考察は不完全で間違いだらけかもしれないけれど、今時点では何となくこういう考えでいるんだ。人間の体は、土主体でできたものや化学物質主体でできたものがあり、見かけで区別することはできないんだけれど、それは必ず体の構造上のどこかで差を生んでいると思う。発想だとか、考え方だとか、生き方だとか、細菌に対する抵抗力だとか、治癒力だとか、条件反射だとか、根源的なところで決定的な差を作っているんじゃないだろうか。

 今日はこんなことが話したかったんだ。もし気に触ったらごめんなさい。あくまでひとつのものの見方として、参考までに聞いてくれれば良いと思ったんだ。聴いてくれてありがとう。今日はもう寝るよ。おやすみなさい。
裏庭の鶏小屋。春には菜の花に囲まれる。


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