天寿
 朝、風もなく暖かい。心なしか空気に甘い匂いが漂うような気がする。もう朝でも着の身着のままで外に出られる。本格的な春の訪れを肌身に感じながら、私はいつものように裏庭に出て鶏小屋の扉を開けた。すると待ってましたと言わんばかりに、母鶏が羽を膨らませて威嚇するように扉に近づいて来る。小屋から出たいんだ。卵を抱き始めた時から数えると、もうひと月ばかりも外に出ていない。生まれるまでは、何週間も卵を抱き続けだったものな。まだかまだかと随分時間が長く感じたものだった。それが今は、母鶏の足元に7羽の小さなひよこたちがピヨピヨ纏わりついている。
 「まだ出すわけにはいかないよ。」
 ある時一度母鶏を出したら、それを追って何羽かのヒヨコたちが網の目を潜って出てきたことがある。こんなに小さいんじゃまだ自力で鶏小屋に帰ることはできないし、何よりこの近所には猫や犬、はやぶさがいて、周囲敵だらけだ。
 「もう少し待ってな。5月になって子供たちが大きくなったら出してやるから。」
 他の大人の鶏たちは外に出してやる。さっき畑から採ってきたばかりの葉っぱを与えると、母鶏もひよこたちも一生懸命にそれをついばんでいる。そうか、もう草を食べるようになったのか。昨日は堆肥をひとすくいやったら、みんなでミミズを大騒ぎで食べていた。何でも母親のすることを真似するみたいだ。親の一番の役割というのは、子供がそれを真似することなんだろうか。本当に見れば見るほど可愛く思えてくる。
 鶏小屋の後ろに回って、餌箱に新しい玄米と魚粕を足してやる。数日前からは米糠も混ぜてやるようにした。こうして少しずつ、大人の餌に近づけていこう。
 さて扉を閉めようと鶏小屋の正面に回ると、下の地面にヒヨコが1羽はねていた。
 「なんだ、落ちてしまったのか。しょうがないな。」屈んでひよこを押さえようとするが、それがなかなか捕まらない。鶏小屋は高床式に作ってあるので、捕まえようとするとすぐに床の下に潜ってしまう。ピヨピヨピヨ・・・ピヨピヨピヨ・・・
 あっちに回り、こっちに逃げ、暫く追いかけっこを続けたけれどどうにもやりようがない。困ったな。ひよこの鳴き声を聞きつけて母鶏は自分も小屋から出ようとするけれど、そうしたら今度は他のひよこたちも後を追って出てしまうので、ちょっと出すわけにはいかない。
 さて、どうしようか。
 思案している間に、突然眼の隅から黒い影が飛んで来て、鶏小屋の下に潜り込むなり、次の瞬間には再び矢のように走り去った。
 「コマリンか?」
 走り去る姿は、我が家の8匹いる猫の1匹、母ネコのコマリンのようだ。もしかして、と小屋の下を覗いてみると、さっきまで騒がしかったひよこの姿が見えない!
 「こら!コマリン。」
 急いで小屋の扉を閉め、後を追いかける。家の裏は杉林。その向こうは雑木山。呼べど叫べど、コマリンはどこまでも逃げていく。笹薮を抜け、倒木を踏み越えて、私もどこまでも追って行く。林の中に甲高いひよこの鳴き声ばかりが響き亙る。
 「コマリン!駄目だ!帰って来い。」
 幼子の鳴き声というのは、それが人間であろうと、鶏であろうと、遠くまでとてもよく響くもののようだ。甲高いその声が林中に大きく響き亙る。その声だけを頼りに、私も藪を掻き分けて奥へ奥へと進んでいった。
 いつしか次第しだいにひよこの鳴き声が小さく、低くなって来た。声も途切れ途切れになった。
 「コマリン!帰って来い。ひよこを返せ!」
 そうしてだいぶ奥まで来たときに、笹に囲まれた一叢の藪の中にコマリンはいた。ひよこは咥えていない
 「コマリン。ひよこはどうした?こっちに返すんだ。」
 コマリンは落ちつきなく動き回りながら、藪の中をちょこまかと移動している。何度も、ある場所に顔を出しては私の顔を見て不安そうにニャアと鳴く。悪いことをした、という顔だ。怒られるのを恐れているのだろう
 私は思い切って笹を掻き分けて屈んで藪に入った。コマリンは素早くどこかに逃げていない。ひよこも見当たらない。けれどもしかしてと思い、コマリンが何度も顔を覗かせて私を見上げていたその場所の枯れ草を掻き分けてみた。
 いた!
 ひよこはまだ生きている!
 そうか、返してくれたのか。コマリン、ありがとう。私はひよこを手の中に抱えて元の道を急いで帰った。

 鶏小屋の床の上で、ひよこは歩けない。羽ばたきもできない。羽が片方、変な風に捩れているようだ。ただ母鶏の顔を見て、力なくピイ、ピイ、と鳴く。
 母鶏は以外にも、戻ってきた我が子に対してとても冷たいかのように見えた。庇う訳でも抱き寄せる訳でもなく、1、2度ひよこの背中を突き、後は何もなかったかのように床の敷き草を脚で掻き分ける。たちまちひよこは蹴飛ばされて、小屋の隅に押しやられてしまった。

 私はひよこを手にとり、口を水に湿して餌を傍に撒いてやった。
 鶏小屋の扉を閉めてから、体中からガックリと力が抜けるように感じた。小屋の前に屈みこみ、地面を見ながら暫くじっとしていた。
 ひよこたちが元気よく駆け回る。常に母さん鶏の足元から離れない。母鶏があっちに行けばみんなあっちに行く。何かを突つけばそれを突つく。みんな小さいから餌箱の中に入って一生懸命に玄米を突ついて食べていた。ここ数日のそんな姿が脳裏に浮かんで来た。死んでしまうだろうか。いや、きっと助かるに違いない。何となく死ぬような気がしない。でも・・・。もし、そうだとしても、あいつは母親の傍で死ねるんだな・・・。
 そんなことを考えて少しの時が経った。


 夕方、ひよこは冷たくなっていた。既に硬くなった体。生まれてから僅か11日の天寿をまっとうした幼い命の名残を手にとって、私は祈った。

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