「循環」について
 今朝ビール瓶を洗いながら、循環ということについて考えた。

 当世、循環という言葉はまるで流行のようにあちこちで聞こえるし、日本人ならば、仮に自分の生活がまさしく大量消費、大量廃棄の真っ只中にいる人であっても、循環というものが何となく大切で良いものだと思うようになっているのではないだろうか。「循環」というのは今それだけ人口に膾炙している言葉だと思う。
 実を言うと私自身、今まで循環とか有機農業とかを真剣に考えて生きてきたわけではなかった。農業に惹かれたのは、モノ作りの一環として実際にやってみて楽しかったからだし、また自分が努力して収穫した農産物がとても美味しく、しかも健康に良さそうな気がしたからだと思う。
 紆余曲折の末、現在カタチの上で有機農業そのものをしているが、もともとの発想は別のところにあったし、私の生き方の理想としては今でも、第一に生命を大切にしたいということ、それと自分が健康になりたいということ、このふたつである。
 さて循環農業とは、どういうことを指しているのだろうか? 考えてみると奥深い。確かに当節、「循環」という言葉がかつての「有機」と同じように、とてもいい加減に使われているような気がする。
 土に堆肥を入れただけで循環型農業だとかいう人もいるし、はなはだしいのは国産材を使って家を建てるだけで循環型社会等と言ったりする。まあ、それはともかくとして、「循環」と言う観点からは、堆肥を入れる入れないよりも農薬・化学肥料の害の方が遥かに大きい。化学物質は、有機物の循環に必要な生命(バクテリアや細菌、虫類)を殺してしまう働きをする。その意味で循環阻害物質の代表格とも言える。当節やたらと循環を謳った文句が多いのは、単に流行を自分に都合の良いように利用している部分が多いだけのような気がする。

 突き詰めれば「循環」とは、まさしくサイクルのように自己完結しつつ生産を続け、生命を維持することではないだろうか。外から特別に取り寄せる必要はなく、またその過程では「廃棄物」は存在しない。
 他所から大量の配合飼料や化学物質を購入しつつ循環と言うのはおかしなことだし、いざ外からの供給が絶たれた時にストップしてしまうのは、もとより循環ではないのではないか。

 では自分はどうかというと、実は私自身も食生活に関する限り「循環」をしているとは言えない。
 生産の面では、自家消費する食料の80%近くは自給しているのだが、何と言っても人間の糞尿を活かせていない事が大きい。ここで我が家の循環の大きな部分がストップしてしまっている。
 将来的に人糞を堆肥化して畑に還元させたいとは思うが(我が家の糞尿は化学物質が含まれていないので、捨てるにはとてももったいない!)、今のところ技術的にも、労力的にもすぐの実現は難しいと思う。
 では循環せずしてどうして食糧生産が可能かと言うと、毎年草を刈って堆肥を作っているからである。
 およそ3反ばかりの草地だが、年に3回ほど刈るだけで我が家の米や野菜を十分に育てるだけの栄養を供給してくれる。草を積む労力はかなりのものだが、それなくして有機農業はできない。私が個人的に循環をストップさせている分、わずかな面積ではあるが家の周りの大自然が、我が家を充分に養って余りあるほどに栄養物を生産してくれている。我が家は周囲の自然に支えられた循環農業を営んでいることになる。自然の力は本当に偉大だ。その偉大なる力に抱かれて、私はそれにホンの少しだけ手を添え、日々生活させてもらっている。

 この頃になって自分でもようやく、循環していないと生き続けられないし、健康にもなれないことがわかってきた。かつて人並み以上に丈夫で健康だと思っていた私だったが、今振り返ると何と不健康だったことか。素直な発想ができにくかったし、大きなストレスに圧されて自由に自分を表現できないでいた。
 健康・不健康。そんな経験や気づきをすることがある意味、私の今の生活の出発点であり、そのきっかけを与えてくれたのが、かつて都会でお金や欲を追い求めて自分を酷使する日々だった。
 次から次へと新しい発見をさせてくれる今のこの生活。多分無理をせずとも、これから更に「循環生活」に近づいていけるような気がする。

もどる!